後漢紀巻第二十二 孝桓皇帝 延熹七年 164年

黄瓊の死と楊秉の弾劾

  • 春二月、太尉黄瓊が薨じた。字は世英、江夏安陸の人。清らかで正しさを守り、進退は必ず礼にかない、宰相の位にあっては廉潔公平で、しばしば正論を献じて朝廷に重んじられた。上も惜しんで車騎將軍・邟鄕侯の印綬を贈り、昭侯と諡した。孫に琬がいる。
  • 三月癸亥、右扶風に隕石が落ちた。太常楊秉が太尉となった。
  • 当時、中常侍侯覽と貝瑗の驕りが最もひどく、人事は不実で政治は賄賂で動いていた。秉は、覽らが媚びへつらって国の権柄を盗み、悪党を集めて忠良を害していると奏し、免官して罪を問うよう請うた。
  • 尚書が奏を詰問した。官を設けて職を分けるのは各々の管掌があるからで、三公は外を統べ御史は内を監察する。今、側近の領分に踏み込むのは何を根拠とするのか、はっきり答えよ、と。
  • 秉は答えた。君主の害悪を除くには力の限りを尽くすのみ。鄧通が礼を失したとき申屠嘉は召して責め、文帝は従ってその赦しを請うた。漢の旧例では三公は鼎の足のごとき重職で統べぬところはない、と。尚書は詰めきれず、上はやむなく侯覽を免官し、瑗の封国を削った。
  • こうして秉は刺史・郡守以下六十餘人を奏して免じた。いずれも民を食い荒らす者たちだった。
  • 夏四月乙丑、皇后の弟鄧庾を育陽侯に封じた。

度尚、武陵の蠻夷を破る

  • 秋九月、武陵の蠻夷が叛して数郡を荒らした。荊州刺史度尚が討伐に当たった。
  • 開戦前、尚は治中・別駕を呼んで言った。後方に輸送はなく前には強敵がおり、吏士はすでに多くを捕獲している。手をゆるめれば力戦せず、急がせれば追い詰められて逃亡する者が出る。今、諸君とともに虎口にいて、勝てば功が成り負ければ何も残らない。どうすべきか、と。従事たちは策を出せなかった。
  • 尚は、今は兵が少なく進めない、諸郡の兵の到着を待つあいだ各自休息して狩りをしてよい、と言い渡した。軍中は喜んで大小の者がみな出かけた。
  • その隙に尚は腹心を呼んで蓄えた戦利品を焼かせた。狩りから帰った者は皆泣いた。尚は人をやって慰め、蛮人には宝が多く数代を富ますに足る、諸君が力を合わせないだけのことで、失ったものなど気にするに足りないと言った。
  • 翌朝、馬に飼葉をやり兵は寝床で食事を済ませて城の陣に直行した。賊は尚が落ち着いているのを見て備えておらず、吏士は憤激して一気に討ち滅ぼした。尚は右鄕侯に封じられ、子一人が郎に任じられた。

度尚の人となり

  • 尚は字を博平、山陽湖陸の人。はじめ上虞長となり隠れた不正を摘発したので、県中は神明と呼んだ。門下書佐の朱俊を抜擢して世を治める才だと評し、俊はのちに名を挙げて尚の言葉どおりになった。
  • 県に孝女曹娥がいた。年十四のとき父の旴が川で溺れて遺体が上がらず、娥は慕い嘆いてやまず、ついに川に身を投げて死んだ。歴代の長吏は誰も記録しなかったが、尚は着任すると娥を改葬し碑を立て墓を顕彰して孝行を表した。
  • 県民で元洛陽市長の淳于翼は学問が深く古くからの名声があり、田舎に隠れて長吏に会おうとしなかった。尚が朝に門前まで訪ねたが、翼はすぐには会わない。主簿は帰ろうと言ったが尚は聞かず車を停めて待ち、翼は夕方になってようやく会った。尚はその道徳を尊んで語り尽くしてから退いた。賢者を厚遇し善を表彰するさまはみなこの類だった。

章陵行幸と史弼の上疏

  • 冬十月、章陵に行幸して旧宅を祠り、陵廟でも祭祀を行った。戊辰、雲夢に行幸し、水辺で湖陽公主・新野公主・張敬侯・魯哀公の廟を祠った。
  • このころ勃海王悝は驕り高ぶり法度に従わず、上に子がないのを見て密かに帝位を継ぐ望みを抱いていた。
  • 北軍中候史弼が上疏した。帝王は親族に対し、愛が深くとも威と礼を示し、寵が厚くとも法度を示す。そうしてこそ和親の道が興り骨肉の情が固まる。昔、襄王は甘昭公をほしいままにさせ、孝景帝は梁孝王を驕らせ、二人の弟は寵に乗じて驕慢に走り、周には流離の禍、漢には袁盎の変が起きた。
  • 続けて述べた。勃海王悝は至親の身分と偏った寵愛を頼んで驕慢の心を抱き、制度に従わず、外には軽薄で不逞の者を集め、内では酒宴に溺れ出入りに定まりがない。取り巻きはみな家から見捨てられた子、朝廷から退けられた臣で、口は達者だが行いなく、必ず羊勝・伍被の類がいる。州の役人は弾劾できず傅相も正せない。陛下は寛仁で兄弟の情を断つに忍びないが、放置すれば害はいよいよ大きくなる。
  • そして請うた。臣の奏を公にして百官に示し朝議にかけ、その過失を明言させ、そのうえで公卿に法を適用させ、罪が定まってから忍びないとの詔を下し、臣下が固く執奏して初めてわずかに許す。そうすれば聖主は親を傷つけたと言われず、勃海王も長く封国を保てる。さもなくば大獄が起こり使者が道に行き交うことになろう、と。上は至親のことゆえ問わなかった。

史弼の経歴

  • 弼は字を公謙、陳留考城の人。歴任を通じて忠直で、権勢に屈しなかった。
  • 尚書から平原太守となったとき、詔書が諸郡に党人を調べさせた。各地は恐れてみな名を挙げ、多い所では数千人に及んだが、弼だけは党人はいないと上言した。
  • 従事の担当者が問責した。詔書は党人を憎むこと切実なのに、諸郡にはみないるのに平原だけなぜいないのか、と。弼は答えた。先王は天下を区分して九つの土地とした。土地が違えば風俗も違う。他郡にいて平原にいないことをどうして比べられよう。詔書に迎合して善人を陥れるなら、平原の人はみな党人ということになるのか、と。
  • 従事は激怒して弼の罪を奏したが、贖罪で免ぜられ河東太守に転じた。
  • 弼は着任するとすぐ、門下に依頼事は一切取り次ぐなと命じた。常侍侯覽が門生に書状を持たせ塩税の融通などを求めさせたが、門長が取り次がないので、門生は自訴の者と偽って弼に会った。弼は怒って獄に下し、その日のうちに拷問して殺した。
  • 覽はのちに弼が朝政を誹謗したと誣告し、弼は廷尉に召されて棄市と判じられた。平原の吏民が宮門に走って訴えたので死一等を減じられ、刑を終えて郷里に帰った。
  • のちしばしば公卿に推薦され彭城相となった。政治は豪強を抑えることに努め、放埒な者がいても豪族は手を控え、小民の罪には多く恩情をかけた。