司徒种暠の死
- 春正月戊午、司徒种暠が薨じ、大鴻臚許栩が司徒となった。
- 暠は字を景伯、河南洛陽の人。父が早く亡くなり三千萬の財産があったが、すべて郷里の貧者に施したので、当時の有力者で暠を知らない者はなかった。四十歳を過ぎてようやく県が門下吏に召した。
田歆と王諶、种暠を見出す
- 当時、河南尹田歆の甥の王諶が人物鑑識で知られていた。歆は諶に語った。河南は孝廉六人を挙げるが、いずれも貴人からの依頼で断れない。五人はそれで埋め、一人だけは清らかな名があり大成する者を自分で挙げ、上は国に報い下は子孫に託したい。探すのを手伝ってくれ、と。
- 諶は、臣を知るのは君に及ぶものはない、あなたは二千石なのだから郡中をよく観察し賢良に諮るべきで、自分に分かるはずがないと答えた。歆は、郡が送ってくる者はもとより凡庸だ、お前の鑑識眼を借りて、人の知らない奇士を得たいのだと言った。
- 翌日、諶が東へ客を送り太陽の郭の内側に車を停めていたとき暠を見かけ、帰って歆に、あなたのための孝廉を見つけたと告げた。山沢の隠者かと問うと、洛陽の門下吏だと言う。歆は笑って、埋もれた吏かと思えば洛陽の下役かと言った。
- 諶は答えた。異士が必ず山谷に住むとは限らず、住まいが変わっているだけで徳があるとも限らない。世間の中にいて人と違うところがあり、誰も気づかないのを自分だけが見抜く、それこそ奇である。信じられないなら召して話してみればよい、と。
- 歆は府に召して庭で職務や長吏の施策を問いただしたところ、暠は一つ一つ筋道立てて答えた。そこで主簿・功曹に任じ孝廉に挙げ、これによって暠は名を知られるようになった。
災異と陳蕃の狩猟諫止
- 二月戊戌、天下に大赦した。夏四月辛亥、康陵の東署で大火があった。秋七月甲午、平陵の園寢が焼けた。
- 十月、上は廣城に出て狩りをした。光禄勲陳蕃が上書して諫めた。君主が苑囿で事を行うのは、西郊で時節に順って武を講じ、獲物を祭祀に供えて孝敬の道を尽くす場合だけである。それを外れれば遊興に耽ることになる。皋陶は舜を、遊び怠るなと戒め、周公は成王を、狩りに耽るなと戒めた。虞舜や成王でさえこの戒めを受けたのに、まして徳の及ばぬ者はどうか。今は兵乱がやまず、陛下が心を焦がして夜明けを待つべき時なのに、旗をなびかせ車馬を走らせて見物するのは、聖賢が民を憐れむ心ではない、と。上は聞き入れなかった。