後漢紀巻第二十二 孝桓皇帝 延熹五年 162年

火災と武陽の蠻夷

  • 夏四月戊辰、虎賁の掖門が焼けた。五月、康陵の園が焼けた。
  • 武陽の蠻夷が反したので、車騎將軍馮緄が討伐に向かった。

馮緄の監軍要請と朱穆の反論

  • 緄が上書した。権勢が不正を容れうる状況なら伯夷でさえ疑われ、容れえない状況なら盜跖でも信用される。樂羊が中山を伐って帰り功を語ったとき、文侯は誹謗の書を一箱示した。そこで中常侍一人を派遣して軍と経費を監督させてほしい、と願い出た。
  • 尚書朱穆が反論して奏した。城外での軍事は将軍が裁断するもので、それが威信を高め道理にもかなう。緄に疑わしいところがあるなら任を負わせるべきではなく、疑うところがないなら疑うべきではない。樂羊は戦国の陪臣ですら信任してくれる主君に頼って功を全うした。まして唐虞のような朝廷に猜疑があってよいものか。緄が口実を設けて自分の身を守ろうとするのは臣として不忠である、と。帝はこの奏を握りつぶした。

朱穆、宦官の全廃を求める

  • 穆はさらに上書した。漢の旧例では中常侍に士人を用いることもあったが、建武以来すべて宦者を用いるようになり、延平以来ますます権勢を得た。貂璫の飾りを借り常伯の職を任され、朝廷の政事はことごとくその手を経て、権勢は天下を圧し寵愛は君主を脅かすほどである。子弟や親戚も官職を得て思うままに驕り、素行の悪い者が官爵をねだり、権勢を頼んで百姓を食い物にしている。すべて罷免して旧来の制度に戻し、天下の清廉な士、国家の体制に通じた者を広く選んで欠を補うべきだ。そうすれば陛下は堯舜の君となり、群臣はみな稷や卨のような臣となる、と。上は従わなかった。
  • のちに穆は謁見して口頭でも訴えたが上は不快を示した。穆が伏したまま起たないので側近が叱って退出させた。宦者たちは口をそろえて詔と称して穆を詰責し、穆は憤激のあまり悪性の腫れ物を発して死んだ。
  • 公卿は、穆が節義を立て忠実清廉で、死を賭して正道を守ったのだから顕彰して忠勤を励ますべきだとし、益州刺史を追贈した。

朱穆の経歴

  • 穆は字を公叔、南陽宛の人。はじめ兾州刺史となったとき、黄河を渡っただけで印綬を返上して去った長吏が四十餘人もいた。
  • 中常侍趙忠が父の喪に璵璠の玉匣を用いたので、穆は郡に命じて調べさせ、墓を発いて屍を検めるまでした。その家が冤罪を訴え、穆は罪に問われて廷尉に送られ、髠刑を受けて左校に労役させられた。のち赦されて家に帰った。ほどなく朝臣の多くが穆のために憤ったので、召されて議郎・尚書となった。
  • 十一月、武陵の蠻夷が降伏した。