春正月〜夏四月 大赦と定策の恩賞
- 春正月戊午、天下に大赦した。男子に差を設けて爵を賜い、鰥寡孤独で自活できない者には一人あたり粟三斛、貞婦には一人あたり帛三匹を与えた。
- 二月、譙に黄龍が現れた。
- 夏四月庚寅、京兆で地震があった。
- 帝を立てた策定の功により、大将軍の梁冀に一万戸を加増した。太尉の胡広を安楽侯、司徒の趙誡を江南侯、司徒の袁陽を安国侯とした。
六月〜秋七月 三公の交代と梁氏一門の封侯
- 六月、太尉の胡広が病により薨じた。光禄勲の杜喬が太尉となった。
- 秋七月、蠡吾侯の悝を勃海王に立てた。
- 少府の梁不疑を潁陽侯、その弟の蒙を西平侯、梁冀の子の胡狗を襄邑侯、不疑の子の焉を潁陰侯、梁冀の孫の祧を城父侯に封じた。さらに中常侍の劉広らを列侯に封じた。
太尉杜喬の上言
- 太尉の杜喬が上言した。古の明君はみな賢者を用い賞罰を正すことを務めとした。国を失った主の朝廷にも、しっかりした臣や典誥の書がなかったわけではない。
- 問題は、賢者を得ながらその謀を用いず、兵法の書があってもその教えを施さず、善言を聞いても信じず、讒言を聴いてその筋道を確かめないことにある。
- 桀や紂の時にも先王の書や公正な判断をする臣はいたが、下愚は改まりにくく、ついに国を亡ぼした。すでに明らかな鑑である。
- 陛下は藩王から抜きん出て即位し、天に応じ人に順って万人が期待している。それなのに忠賢への賞を急がず、まず側近への封爵を先にした。善を傷つけ徳を害し、讒諛の輩が急に勢いを得ている。
- 大将軍の梁冀の兄弟は姦邪で天下を揺るがし、みな少正卯のような悪を抱えながら両観での誅を受けず、かえって次々に官位に叙され封爵を受けている。天下は落胆し、人も神も憤っている。賞は必ず功に当て、罰は必ず罪ある者に加えるという道理に反する。
- 功があって賞さなければ善を行う者は望みを失い、姦邪を誅さなければ悪を行う者はその性のままに振る舞う。斧鉞を並べても民は刑を畏れず、爵位を配っても人は善を楽しまない。
- この道を進めば、政治を損ない民を絶やして乱を招くだけでなく、身を喪い国を滅ぼすことになる。慎まねばならない、と述べた。
- 杜喬は字を叔栄といい、河内林盧の人である。若くして孝悌で称され、尚書・九卿を歴任していずれも名声と実績があった。当時は梁氏が権勢を誇り、群臣は残らず靡いたが、杜喬だけは正しい道を行い、在位の者はみな自分は及ばないとした。
八月〜九月 立后と劉文の謀
- 八月、皇后に梁氏を立てた。太后の妹である。もとは蠡吾侯の妃であったが、婚礼を終えないうちに帝が即位したため、掖庭に入って数か月で皇后に立てられた。
- 九月、京師で地震があった。
- 甘陵の人の劉文が、清河王の蒜を帝に立てようと謀った。蒜は門を閉じて拒み、事が発覚して劉文は誅に伏した。蒜は尉氏侯に貶され桂陽郡に移されて、自殺した。
李固・杜喬の獄死
- 梁冀はここぞと、太尉の杜喬と前太尉の李固が劉文と通謀したと誣告し、二人はともに下獄した。
- 李固の門生である勃海の王調ら十余人が、刑具を背負って闕に詣り李固の無実を訴えた。
- 大将軍長史の呉祐は李固の冤罪を痛み、梁冀と争ったが、冀は怒って聞き入れなかった。
- 従事中郎の馬融が梁冀のために上奏文を作っており、その場に同席していた。呉祐は馬融に、李公の罪はあなたの手で成立する、李公が誅されたらどんな顔で天下の人に会うのかと言った。梁冀は怒って席を立ち退出した。
- 杜喬と李固はついに獄中で死んだ。郡守が意向を承けて手を下した。
李固の一族と遺児李燮
- 李固は字を子堅といい、漢中南鄭の人。父の李邰は漢の司徒であった。李固は学問に打ち込み、三公の子でありながら自ら書物を背負って千里の彼方に師を尋ね、みずから掃除の役まで務めた。学識と行いは根深く貫かぬものがなく、四方の士が遠方から集まり、また三公の器が出たと言い合った。
- 李固の二子、憲公と季公はともに長吏の職にあったが、父が策免されたと聞いて官を棄てて帰った。李固は罪が及ぶと察し、二子に末子の燮を連れて郷里へ帰らせた。
- 李固の娘の文姫は涙して、李氏は滅びる、太公以来徳と仁を積んできたのになぜこうなるのかと嘆き、密かに二子と謀って燮を逃がし、燮は京師に帰ったと言いふらした。郷里の人はこれを信じた。
- のちに郡から文書が下り、二子はともに殺された。
- 王成という李固の下僕がいた。文姫は手厚く資財を与えて燮を託し、君は公家に義を尽くして久しい、だから危機に臨んで六尺の孤児を託す、もし李氏が再び存続すれば君の名は程嬰・杵臼と並び、富貴栄華を共にしよう、と言った。
- 王成は義士としてふるまい、燮を連れて徐州の境に行き、姓名を変えて酒家の下僕となり、市で卜を売りながら密かに連絡を取った。やがて赦に会って免れることができた。王成が病死すると、燮は手厚く葬り四季に祭った。
- 燮が帰ると文姫と涙して向かい合い、人払いして語った。亡父はまっすぐに漢の忠臣であり、死んだ日もなお生きているに等しい。しかし梁氏は久しく暴威を振るい王の威を脅かしている。弟が幸いにも血族を全うできたのは天の助けではないか。人との交わりを断ち、決して梁氏を非難する言を口にさせてはならない。梁氏に及べば主上に連なり、主上に連なれば禍が重ねて至る、と。
- 燮は姉の言に従い、ついに身を全うした。燮の学問・行い・才芸は李固に次ぎ、官は京兆尹に至って卒した。
呉祐の来歴
- 呉祐は字を季英といい、陳留長垣の人。父の呉恢は南海太守で、竹簡を整えて尚書の章句を書写しようとした。
- 当時十二歳の呉祐が諫めた。今、父上は江湖を越え五嶺を越えて海辺の僻地におられる。風俗は粗末だが珍しい品は多く、上は朝廷に疑われ下は権豪に狙われる。この書が成れば必ず車二両分の荷になる。昔、馬援は薏苡のことで謗りを受け、王陽は衣嚢のことで名を求めたと言われた。嫌疑を招かぬ戒めは先賢が慎んだところで、少し意を留めてほしい、と。
- 呉恢は笑って頭を撫で、呉氏には代々季子のような者が絶えないと言い、書写をやめた。
- 呉祐は二十歳で父を失い、喪が明けても蓄えはなく、同族からの贈り物も受けず、長羅の沢で豚を飼って暮らした。四十余歳でようやく郡の吏となり、孝廉に挙げられて膠東侯相に遷った。
- 政治は清静を旨とし、自ら手本を示して下を率い、賢者を褒め善行に報いることを務めとした。吏民が互いに罪過を告訴すると、呉祐はいつも部屋を閉じて自らを責め、しばらくしてから事情を問うた。訴訟があればまず三老・孝悌に諭させ、それでも解けなければ自ら村里に出向いて和解させた。以後、吏民は忍びなくて彼を欺かなくなった。
十月 三公の異動
- 十月、司徒の趙誡が太尉、司空の袁湯が司徒、もとの太尉である胡広が司空となった。