後漢紀巻第二十 孝質皇帝 本初元年 146年

春正月 寛刑の詔

  • 春正月の詔。昔堯は四子に命じて天道を敬わせ、洪範九疇には吉凶の徴があらわれるとされる。瑞祥は和によって降り、災異は逆らう心に感じて起こる。善き徴が天に応ずることは前代の聖人が重んじたところである。
  • ところが近ごろ州郡は政を軽んじ、残虐を競って罪なき人を陥れ、民がその害を受けている。悪しき気が和を損なって災いを招いた。書にも「徳を明らかにし罰を慎む」とある。
  • 春の耕作と育養の始まる時期を敬い、有司に命じて、死刑にあたる罪でないものはしばらく取り調べを行わず、寛大さを尊ぶこととした。

三月 九江・広陵の飢饉への賑恤

  • 三月庚申の詔。九江・広陵の二郡はともに侵冦の害を受け、荒廃が最もひどい。民は農業を失い、生きている者は飢え、死んだ者は打ち棄てられている。
  • 昔のよき政治は、一つの物でもその所を得なければ自分の責任とした。今わが民がこの飢饉に遭っている。春はまさに賑貸を行い、露出した骸骨を埋める時である。
  • 近隣の郡から現有の穀を調え、倉を開いて大人・小人の口数に応じ差を設けて配り、骸骨を収めて葬り、心を尽くして取り計らえ、と命じた。

夏四月 太学入学と課試の制

  • 夏四月、将軍以下六百石に至るまでの官に、子弟を太学に送って学業を受けさせるよう命じた。一年が満ちたところで課試を行い、成績上位の五人を郎に、次の五人を太子舎人に任じることとした。

六月 大赦と質帝の毒殺

  • 六月丁巳、天下に大赦した。天下の異子に差を設けて爵を賜い、鰥寡孤独で貧しく自活できない者には一人あたり粟三斛、貞婦には一人あたり帛三匹を与えた。
  • 閏月甲申、帝が玉堂で崩じた。
  • もともと帝は幼いながらも梁冀が権を専らにしていることを知り、それを口に出すことが少なくなかった。梁冀は後日わが身が無事でいられぬことを恐れ、鴆毒を用いた。
  • 帝は突然容体を崩し、太尉の李固が入って病を問うた。帝は、煮餅を食べたところ今は腹中が苦しい、水が得られればまだ生きられよう、と言った。梁冀は、吐き下しているのだから水を飲んではならぬ、と言い、そのやりとりが終わらぬうちに帝は崩じた。
  • 李固は号泣して医者を問い糺そうとしたが、梁冀は聞き入れなかった。

桓帝擁立をめぐる駆け引き

  • 李固は改めて清河王の蒜を立てようとし、大鴻臚の杜喬とともに朝廷でこれを唱え、群臣もみな同調した。
  • 志の系譜はこうである。章帝が河間王の開を生み、開が蠡吾侯の翼を生み、翼が志を生んだ。梁冀は妹を志に嫁がせており、志を京師に召し寄せていたところで帝が崩じた。
  • 梁冀は志を立てようとしたが、李固の議に押されて日暮れになっても決まらなかった。
  • 中常侍の曹騰がこれを聞いて恐れ、夜に大将軍の梁冀に会って説いた。将軍は代々政を執り、賓客は勝手気ままで行き過ぎが多い。清河王は厳明な人物だから、即位すれば将軍が禍を受けるのは遠くない。蠡吾侯を立てれば富貴は保てる、と。
  • 梁冀はそこで太后と禁中で方針を定め、まず策書によって太尉の李固を免職にした。

史論(袁宏曰)

  • 李固のような人物は、古の善人にほぼ近い。暗愚な主を立てようとする者が、まず李固を廃したのはそのためである。李固が在職していれば、明らかな主が必ず立てられ、天下も背かなかったであろう。
  • 善人と呼ばれる者にも一つの悪言がないとは限らず、悪人と呼ばれる者にも一つの善がないとは限らない。悪が極まるのにも時があり、善が悪を絶やすことも、悪が善を絶やすこともない。世の中の並みの人はみなそうである。
  • だからこそ善人は自分の悪を除こうと努め、悪人でさえ善を貴ぶ。それゆえ悪の理は常に賤しく、善の理は常に貴い。
  • 今の世で君子とされるのは善の理に乗るからであり、善の理が常に貴いかぎり君子の道は保たれる。善を多く積む者ほど重んじられ、義が多い者ほど世に貴ばれる。善と義の蓄積は一身のものにすぎず万物の助けもないのに、天下が誰も背こうとしないのは、道がそこに存するからである。
  • 古の帝王は自らの寿命が長くないこと、末世が衰えることを恐れて、方位を分かち位を設けて軽重を明らかにし、群臣のうち善なる者を選んで社稷を託した。その者に道が存し、天下の規範となりうるからである。善人が世にもたらす益は大きい、と論じた。

三公の交代と桓帝の即位

  • 司空の胡広が太尉、司空の趙誡が司徒、太僕の袁陽が司空となった。
  • 太后の詔。孝質皇帝は後嗣を残せぬまま急に世を去った。社稷の重きを担う者として宗室の賢者を考えると蠡吾侯の志に及ぶ者はない。年は十五、姿はすぐれ、しかも血縁の近さから孝順皇帝の嗣とするのにふさわしい、とした。
  • 庚寅、大将軍が節を持って夏門亭に志を迎え、この日に皇帝の位に即いた。太后が臨朝し、太尉の胡広が録尚書事となった。
  • 帝の弟の名を都郷侯、悝を蠡吾侯に封じた。

秋九月 帝の父祖への追尊

  • 秋九月、河間孝王を尊んで孝穆皇帝、趙姫を孝穆皇后とし、蠡吾先侯を孝崇皇、匽姫を孝崇博園貴人とした。

覆った船と朱穆の災異解釈

  • この年、梁冀の邸の池で船が理由もなく自ら転覆した。梁冀が掾の朱穆に問うと、朱穆はこう答えた。
  • 易には「大川を渉るに利あり、木に乗って舟は虚し」とある。災異記は「大川を渉るに利あり」を万民を渡し救うことだと解する。舟船は万民を渡すためのものだから、遊興の船が覆るのは天の戒めである。
  • 将軍は有徳の宰相として万民を難から救うべきであって、身を楽しませ遊興にふけっていてはならない、と述べた。

朱穆の奏記 災異と輔政の勧め

  • 帝が即位し太后が臨朝すると、日ごろ災異を推し量ることに長けた朱穆は、梁冀を輔け導いて王室を支えさせようとして奏記を上げた。
  • 公門に専心し、有能な者を広く用いて邪悪を斥けるべきだ、と説いた。
  • 明年の丁亥の歳は刑と徳が乾の位に合し、易にいう龍が戦う会にあたる。「龍、野に戦う。その道窮まればなり」とは、陽が勝ち陰の道が敗れることをいう。今年九月は天気がふさがり、五位四候が続けて正しい気を失った。これは互いに符合するもので、天地の大きな徴験である。
  • 善き道は陽に属し、悪しき道は陰に属す。正しさを修めて陽を守り、陰の類を挫けば福がそれに従う、とした。
  • 朱穆は、自分は志すところに行いが及ばず、ただ学んだことを伝え師の言を実行するだけだが、時に試みるに足ることもあると謙遜し、将軍が少しでも耳を傾け、諸家の言を取り入れ、忠正の者を親しみ、なあなあの姑息を断つよう願った。
  • さらに、人君は学ばぬわけにいかず、天地の順なる道によって次第にその心を清めるべきだから、皇帝のために師傅と侍講を選び、慎み深く忠篤で礼に厚い士を得るべきだと説いた。将軍自身も同席して講授に参観し、賢者を師とし古を手本とするなら、南山に寄りかかって平原に坐るようなもので、誰も傾けることはできない、と述べた。

朱穆の密記と人材の推挙

  • 朱穆は宦官のことを言いたかったが、梁冀が漏らすのを恐れ、それでもやめきれずに密記を添えた。
  • 今年の夏には房星が動き、明年にも小さな厄がある。天下が怨み憎む姦臣を急ぎ誅して天の咎めを塞ぐべきだ。議郎・大夫の位はもともと儒術と高い行いの士を試すためのものだが、今はその器でない者が多く、九卿の中にも任に堪えぬ者がいる、とした。
  • 朱穆はまた名士の种暠・欒巴らを推薦した。
  • その後、劉文らの謀反が起こり、沛国に黄龍が現れた。そこで梁冀は朱穆の「龍戦」の言を的中したものと認め、种暠を従事中郎に請い、欒巴を議郎に薦め、朱穆を高第に挙げて侍御史とした。

朱穆の諫言 民の困窮と宦官の弊

  • 朱穆は自分が梁冀の故吏である立場から、たびたび奏記して諫めた。
  • 今は宦官がそろって用いられ、螽害と水害が続き、京師の出費は以前の十倍である。河内一郡はかつて縑・素・綺・縠を調達してわずか八万余匹だったが、今は十五万匹にのぼる。官に現金はなく、すべて民から出る。
  • 民の多くは流亡しながら戸口だけが水増しされて記録されている。戸口が少ないうえ資産のない者が多いのに、さらに公賦を削り取って重く徴収する。二千石や長吏は民を捕虜のように扱い、田宅を売らせ、あるいは笞で命を奪う。大小の民は寄る辺なく、朝に夕を保てない。
  • また浮浪の徒が商いを騙って不良を働き、長吏は彼らを使いたがるので、その家人が権勢を笠に着て偽りを働く。この手合いが入り交じって区別がつかず、府の名を借りて怨みを買い譏りを招いている。
  • 昔、秦の末に四方を顧みず市井の者を近づけ親しんだのがまさにこうであった。安穏に見えて一朝にして瓦解し、陳勝・項羽が並び起こって土崩に至った。
  • 近くは永和の末に人心が離れ、人夫を徴し使者を出しても命に応じず、糧と兵を携えて向かうと言い出す者が出た。幸い順烈皇后の初政が清らかであったので安寧を得たのである。
  • 今、民心と情勢は再び憂えに満ち、永和の時より苦しい。民を安んじる急務はまさに大将軍にかかっている。まず二千石・長吏でその器でない者を交代させ、邸宅や園池の造営をやめ、州郡の貢献を断ち切るべきだ。そうすれば内には自らを明らかにし、外には人の苦しみを解くことになる。今日行えば今日から従うだろう、と述べた。

梁冀の腐敗と朱穆の再度の奏記

  • 梁冀は貪欲で放縦なうえに賄賂を受け取り、国家に仕えながら側近の宦者と結んで不正の利を得、その子弟や賓客を刺史・二千石に任じた。
  • 朱穆はふたたび奏記した。大将軍は内には貴い外戚としての固めがあり、外には功業の重みがある。道を曲げ財を散じてまで側近や宦者に仕える必要はない。
  • 刑賞を勝手に動かして制度を犯す者があれば、公卿を率いて朝堂に出向きその罪を糺すべきで、そうすれば彼らが態度を改め訓えに従うことは、影が形に従い響きが声に応ずるようなものだ。
  • ところが今は逆に順序を踏み越え、大なる者が小なる者に仕え、明なる者が暗愚な者に仕え、その誤った言に従い誤った行いに随っている。天下の事はその歪みを受け、財物は損なわれ綱紀は乱れている。
  • 側近の官はみな私情で天下をかき乱し、天下は広くとも民に足を置く所がない。他のことはまだ堪えられても、官位の売買だけは堪えがたく、その毒害は日夜広く遠くまで及んでいる。
  • どうか大将軍は他の事を後回しにし、わずか十刻の間でも古今の官と民のありようや数を調べていただきたい。趣旨ははっきり見て取れよう。早く悟らなければ、同じ舟に乗る者がみな敵国となる。
  • もし自分を軽薄愚昧としてその言を信じられないなら、親しい者で古今に通じた者を呼んで事実を確かめてほしい。一日たりとも戒め恐れる心を欠いてはならず、後悔を残すことになる、と述べた。
  • 梁冀はついに悟らず、「そのようであれば自分には一つとして可なるところがないことになる」と返書した。朱穆の言は切実であったが、梁冀はさほど罪には問わなかった。

梁冀と友通期・孫寿

  • そもそも、大将軍の梁商が順帝に美人を献じたことがあった。美人は姓を友、字を通期という。順帝は彼女を梁商に返し、梁商は手元に留めておけず嫁がせた。
  • 梁冀はすぐに客を遣って通期を盗み出し連れ戻した。ちょうど梁商が薨じ、梁冀は城西の廬で喪に服しながら常に通期と暮らした。
  • 冀の妻の孫寿は冀の外出を伺い、多くの下男を従えて通期を奪い返し、痛めつけた。さらに上書して告発すると言い出したので、冀は大いに恐れ、孫寿の母に頭を下げて頼み込んだ。孫寿もやむなく思いとどまり、通期を幽閉した。
  • 冀はその後も密かに通期を呼んで通い、子の伯玉が生まれたが、隠して表に出さなかった。孫寿はこれを知り、子の河南尹である梁徹に友氏の一家を滅ぼさせた。
  • 冀は孫寿が伯玉を害することを恐れ、常に二重壁の中に置いた。伯玉は十五歳になり、冀が誅されてはじめて世に出た。
  • 孫寿はきわめて美しく、多様な媚態で人を惑わし、性は嫉妬深く冀を抑えつけることができたので、冀は逆らえなかった。
  • 冀は監奴の秦官を寵愛し、秦官は太倉令にまで昇って孫寿のもとに出入りできた。往来のたびに御者を退けて私語を交わし、ついに孫寿と通じた。その威勢は百官を震わせ、刺史・二千石はみな挨拶に伺ってから任地へ赴いた。

孫氏一族の跋扈と梁冀の奢侈

  • 冀は孫寿の言に従って在位の梁氏一門を多く退け、表向きは謙譲を装った。代わりに孫氏の親族だけが名を偽って侍中・中郎・校尉・郡守・長吏となる者が十余人に及んだ。
  • 彼らはみな貪婪で凶淫であり、私的な手下に属県の豪富の家を書き上げさせ、誹謗の罪を着せて獄に閉じ込め笞打ち、金を出して罪を贖わせた。額に満足しない場合は死に至らせ、悲嘆の声が天下に満ちた。
  • 四方からの徴発や貢献は半分が冀の家に入った。まず上等の品を冀へ納め、天子にはその次を問う有様であった。また競って礼物や贄を差し出し、吏民が財貨を携えて官職を求め罪の赦しを乞う者が道に相次いだ。
  • 多くの賓客を車騎で塞外に派遣して外国と通じ、汗血馬や珍奇な品を取り寄せた。その道中で妓女や御者を徴発し、遣わされた者もまた権勢に乗じて横暴を働き、人の妻妾を掠め、婦女をもてあそび、吏卒を殴打するなど、盗賊と変わらなかった。

邸宅・園苑の造営と禁令

  • 冀は洛陽の城門内に豪邸を構え、孫寿は向かいの街に邸を建てて競い合った。陰陽殿を作り、楼閣を連ね部屋を通じ、魚池や釣台を設けた。
  • 梁や柱、門戸は銅の飾り金具、紵漆、青瑣、丹塗りの階とし、青龍・白虎を彫り込み、丹青や雲気の模様を描いた。
  • また土を運んで山を築き、十里に九つの坂を設けて二崤の地形に見立て、工匠の技巧を極めた。玉や金、明珠を積んで中を満たし、家屋を建てて周囲もこれと同様にした。
  • さらに広く苑囿を区画し、西は弘農、東は滎陽、南は魯陽に及び、北は河渠を経て、周囲は千里に及んだ。山林や丘の荒地にはことごとく旗を立て「民は立ち入るべからず」と大書した。
  • また南城の西にも苑を造り、数十里にわたって取り巻き、大々的に楼観を建て、属県の人夫を徴発して数年がかりでようやく完成させた。
  • 檄を回して生きた兎を集め、その毛に刻み目を入れて標識とし、これを犯した者は死罪とした。西域から来た商人が禁を知らずに誤って兎一羽を殺したところ、次々に告発が連鎖して死者は十余人に及び、災いは有力者にまで及んだ。
  • また辺郡に鷹や犬を送り出し、地元の民に護送させ、羊を追い立て厨を継いでその食料とした。人を募って名馬を求め、数千匹にのぼった。
  • 冀は弟たちが自分と同格になることを望まなかった。弟の不疑と蒙が密かに人を遣わして上党で狩りをさせたところ、冀はこれを聞いて追捕し、遣わされた者三十余人を一時に殺して生還者はなかった。
  • 冀はまた城西に別邸を構え、無法者や亡命者を受け入れてそこに住まわせた。あるいは良民を捕らえて奴婢とし、「自ら身を売った民」と称して千人に達した。権勢を頼んで放縦にふるまい、道でも市でも敢えて訴え出る者はいなかった。
  • 冀は孫寿とともに輦に乗り、羽の蓋を張って金銀で飾り立て、邸内で遊び興じた。