春正月 沖帝の崩御と発喪をめぐる議論
- 春正月戊戌、帝(沖帝)が玉堂で崩じた。
- このころ徐州・揚州で盗賊が蜂起していたため、太后は動揺を恐れ、諸国の王侯を都に召し集めてから発喪しようとした。
- 太尉の李固が反対した。帝は幼くとも天下の君であり、その崩御には百神が感応する。臣下がそろって死を隠し哀を挙げないなどありえない、と述べた。
- 李固は三つの先例を挙げた。始皇が沙丘で崩じたとき、胡亥と趙高は死を隠して発せず、璽書を偽って扶蘇に賜い、遺体を包んで鮑魚とともに二千余里も運んだ。安帝が葉で崩じたときは、阿母の王聖や耿珍・閻顕らが済陰王を退けて平原王を立てようと議し、遺体を車に載せて宮へ駆け戻ってから発喪した。北郷侯が薨じたときも閻后の兄弟や江京らが隠し秘めたが、結局は孫程が手ずから刃を振るう変が起きた。
- この三例はいずれも君主の死を臣下が覆い隠したもので、わずかの間もおかずに大禍を受けている。天下の最大の忌み事であり、決してしてはならない、というのが李固の論であった。
- 太后はこれに従い、その日の暮れに発喪した。
後嗣の選定と質帝の即位
- 当時、清河王の蒜は二十余歳で最も名声と徳望があり、大臣たちの心が寄せられていた。李固は蒜を立てようと考え、梁冀に説いた。
- 李固の主張は、今帝を立てるなら年長で徳の明らかな者を選んで政事を託すべきであり、陳平・周勃が代王を迎え、霍光と張安世が宣帝を立てた故事を手本とすべきだ、というものだった。
- 一方、建平侯の続(纘)の系譜はこうである。章帝が千乗貞王の伉を生み、伉が楽安夷王の胡を生み、胡が嗣王の鴻を生み、鴻が建平侯の続を生んだ。
- 梁冀は幼い主を立てて権力を独占しようと考え、太后と禁中で方針を定めた。
- 丙寅の詔では、先帝が早く世を去り後嗣が幼いこと、太后が定めた選として建平侯の続が幼くして聡明で師傅の手を煩わせず、八歳ながら教化の兆しが姿にあらわれていることを述べ、春秋の「人の後継となる者はその子となる」という義に従って、続を孝順皇帝の嗣とするとした。
- 使者に節を持たせて都亭に続を迎え、この日に皇帝の位に即いた。太后が臨朝した。
- 清河王の蒜は都を退いて封国に帰った。
造陵の節減と李固の輔政
- 太尉の李固が太后に言上した。東方に事変が起こって軍役の費用がかさみ、そこへ新たに献陵の造営も加わって民は疲弊している。先帝はなお幼かったのだから、憲陵の墓域の中に、康陵の制を三分の一減らした規模で陵を造り、民力を緩めるべきだ、と。太后はこれに従った。
- 太后は不幸が続いたため政務の大小をすべて冢宰に委ねた。そのため李固は思うところを尽くして是正することが多く、たびたび梁冀と衝突し、疎まれるようになった。
- 己未、孝沖帝を懐陵に葬った。
二月〜三月 大赦と賑恤、馬勉の乱
- 二月乙酉、天下に大赦した。男子に差を設けて爵を賜い、鰥寡孤独や病貧で自活できない者には一人あたり粟三斛、貞婦には一人あたり帛二匹を与えた。
- 三月、揚州の盗賊である馬勉が皇帝を自称したが、誅に伏した。
夏五月 陵の序列を改める詔
- 夏五月丙辰、太后が詔を下した。孝殤皇帝は在位こそ短かったが即位して年を越えており、君臣の礼は成っている。孝安皇帝はその統業を承け継いだのに、前代は恭陵を康陵より上位に置いた。
- 位次のあり方を前代にさかのぼって考えると先後が逆転している。昔、定公が祀りの順序を正して春秋がこれを善しとした例に従い、恭陵を康陵の次、憲陵を恭陵の次とせよ、とした。
六月〜冬十二月 辺境と盗賊、趙岐の死
- 六月、鮮卑が代郡を侵し、民や官吏を殺し掠奪した。
- 秋九月庚戌、太傅の趙岐が薨じた。
- 冬十二月、九江の盗賊である華蓋が黒帝を自称したが、誅に伏した。