宦官の讒言と梁商の諫止
- 春三月乙亥、都で地震があった。
- もともと帝の即位は宦官の力によったので、以後彼らは寵遇され、政事を専らにして権勢を争った。
- 中常侍の張達らが、中常侍の曹騰・孟賁が将軍梁商とともに諸王の子を召していると讒訴し、その逮捕を求めた。帝は、将軍父子は自分が親しくする者であり、これは妬みから出た訴えに違いないとして、張達らを誅した。
- ところが供述が在任の大臣にまで及んだので、梁商が上表した。春秋の義では功は総大将に、罪は首謀者に帰し、賞は行き過ぎず刑は濫りに及ばない。それが五帝三王の治世が安らかであった理由である。張達らの取り調べで大臣に及ぶ供述が多いと聞くが、大獄がひとたび起これば無実の者が大勢巻き込まれる。それは和気を通わせ政教を平らかにする道ではない。早く決着させて逮捕の煩わしさを止めるべきだ、と。帝は従った。
梁不疑の任用と辞退
- 二月、梁商の末子で虎賁中郎将の不疑を歩兵校尉とした。
- 梁商は上書した。不疑は幼くして分不相応に成人の位に就いており、そのため寝ても席が安からず食べても味がしない。昔、晏平仲は与えられた領地を辞して家の富を守り、公儀休は好物の魚を受け取らずに地位を保った。臣は不才ながら、聖代において福禄を長く保ちたいので、あえて本心を述べて罪を冒し誠意を示す、と。
- 帝はこれを許し、不疑を侍中・奉車都尉とした。
辺境統治についての諭し
- 梁商は辺境の官吏が現地と和せず羌戎が鎮まらないのを憂え、并州刺史の来機と涼州刺史の劉康が赴任するにあたり、自ら諭した。
- 戎狄を荒服、蛮夷を要服というのは、その定まりのなさを言うのである。統治の方法にも決まった法はなく、事に応じて役職を定め、おおむね現地の風俗に従うものだ。
- 二人はいずれも悪を憎むと表明し、白黒をはっきりつけようとしている。しかし孔子は、人が不仁だからといって憎み方が甚だしければ乱を招くと言った。まして戎狄が相手ならなおさらである。大きな悪だけを防ぎ、小さな過ちは我慢せよ、と。
- 来機・劉康は従わず、羌戎が動揺したため、二人とも責を問われて召還された。
恩賜と良吏
- 夏四月戊午、天下の男子に爵を等級に応じて賜い、身寄りがなく重病で自活できない者に一人五斛の粟、貞節の婦人に一人三匹の帛、九十歳以上には二匹を与えた。
- このころ良吏として、先に任峻と蘇章、後に陳琦・呉祐・第五訪らがおり、天下に称えられた。
任峻
- 任峻は字を叔高といい渤海蓨の人。洛陽令となった。王奐の後は詔で三公が特別に選任してきたが、いずれも職に堪えなかった。任峻は有能さを買われて召し出され任じられた。
- 文武の吏を選んでそれぞれの長所を出し尽くさせ、盗賊を摘発して即座に処断したので、民間はこれを畏れた。裁いた獄は年に数十人を超えなかった。
- その厳しさは王奐より上だったが、道理をわきまえた政治と教化の面では及ばなかった。後に太山太守となった。
蘇章
- 蘇章は字を孺父といい京兆茂陵の人。冀州刺史として民をこまやかに憐れみ、任侠の豪族を打ち砕いたが、事に坐して免ぜられ、郷里で高潔に暮らした。
- 当時は天下が治まらず民の苦しみが多かったので、論者が日夜蘇章を称えた。そのため朝廷はかえって再び用いることができなかった。
陳琦
- 陳琦は字を公魯といい陳留の人。徐州刺史のとき盗賊が出たが、吏卒と苦労を共にしたので、争って働いた。
- のち琅邪相に移り、大旱のとき功曹の伏禹の言を用いて、前任の相が殺した無辜の者を一つ一つ書き出し、斎戒して壇を設け祭ったところ、数日で大雨が降った。
第五訪
- 第五訪は字を仲謀といい京兆の人。はじめ新都令となり、恩恵と教化が行き渡って二年のうちに隣県から人が移り住み、戸口は十倍になった。
- 張掖太守に移ったとき飢饉で米一石が数千銭に高騰した。第五訪は詔を待たずに倉を開いて賑給し、属吏に、民の命が溝に落ちようとしているのだから太守が臨機に救うのだと言った。これで一郡が救われ、朝廷は璽書を下して賞賛した。
- その後は軽装の騎馬で田畑を巡り耕作を勧め、その年は穀一石が百銭になった。のち南陽太守、護羌校尉・護烏桓校尉となり、辺境は威信に服した。