後漢紀巻第十九 孝順皇帝 永和五年 140年

南単于の侵入と陳亀

  • 春二月戊申、都で地震があった。
  • 夏四月、南単于が河西を侵した。天子はこれを聞き、恩信をもって諭して降伏させた。単于は帽を脱ぎ帳を避けて謝罪した。
  • 中郎将の陳亀は単于に見どころがないとして迫り、自殺させた。陳亀は投獄された。
  • 五月己丑晦、日蝕があった。

馬賢の起用と馬融の上疏

  • 秋七月、羌が金城と三輔を侵した。西方へ軍を出すことになり総大将を議したところ、みな護羌校尉の馬賢を推した。
  • 大将軍梁商は、馬賢はもと西方のつまらぬ家の出で、小事に功はあっても年を取りすぎている、太中大夫の宋漢のほうがよいと述べたが、容れられなかった。
  • 丁丑、死罪以下を赦し、逃亡者の贖罪も等級に応じて認めた。
  • 八月、弘農太守の馬賢を征西将軍とした。しかし長く滞留して進まなかった。
  • 馬融はその失敗を見越して上疏し、自ら働きたいと願い出た。今、諸種の羌が互いに略奪し合っている。合流しないうちに急いで深く攻め込み、その支派を破るべきである。ところが馬賢らは各所に滞留している。羌胡は百里先の塵を望み千里先の音を聴く。酒宴を開いて事態を憂えず、坐して兵糧を食い、攻撃したという話も聞かない。
  • 事を検証もせずに名声と実利を得るのは征討する者の私的な都合であって、国家の公の利益ではない。世評では、馬賢は目先の降伏を得て評判を東の朝廷に届かせようとしているという。兵士が命令に堪えられず、高克の軍のように潰えて叛く変事が起こるのを恐れる。
  • 呉起は将たるとき、暑くとも日除けを張らず寒くとも毛皮を着ず、軍中に女の道具を近づけなかった。今の馬賢は野営に幕を垂れ、珍味を並べ、子や侍妾を侍らせており、古人と正反対である。
  • 臣の兄弟は恩を受けている身であり、私かに憤りに堪えない。鉛や錫の刃でも一度は切れる。兵五千を賜り、部隊の名目を与えていただければ、自ら率いて士卒と勇を共にしたい。
  • 昔、毛遂は袋の中に入ることを願い、趙の下働きは燕に赴こうとした。はじめは人に笑われたが後に功を挙げた。臣は儒者の身で武職には不向きなのに、みだりにこの言を述べる。役所に問えばでたらめの罪を受けると承知しているが、どうか裁量を加えていただきたい、と。しかし容れられなかった。

馬融の来歴

  • 馬融は字を季長といい、馬援の兄の子である馬厳の子である。兄の続は古今の書に広く通じ、同郡の班固が漢書を著したものの七つの表と天文志は目録だけで本文がなかったのを、続がすべて引き継いで完成させた。
  • 馬融は若くから学に励み広く読んだ。大将軍の鄧隲がその才学を聞いて舎人に召したが、好むところではなく、涼州に難を避けた。
  • 折しも羌戎が騒ぎ辺境の穀価が高騰して困窮を極めた。そこで、左手に天下の地図を握り右手で喉を掻き切るようなことは愚か者でもしない、命は天下より貴いのに、わずかな恥のために千金の身を失うのは老荘の意ではないと嘆じ、戻って鄧隲の召に応じた。
  • のち中郎に移って東観で校書すること十余年、典籍を読み尽くした。次第に昇って尚書、南郡太守となったが、事に坐して髠刑を受け朔方に流され、恩赦で帰って議郎となった。
  • 馬融は才も容姿も美しく音楽に通じ、師に就かずに学んだ書にはみな訓詁を作った。遠方から受講に来る弟子は常に千余人に及んだ。
  • 外戚の家柄で、儒術を好みながら身なりは華麗だった。深紅の紗の帳の中に座り、侍女は数十人、音楽と妓を絶やさなかった。弟子は順送りに教え合い、その顔を見た者はごく少なかった。

南匈奴討伐

  • 十一月、匈奴中郎将に兵を率いさせて南匈奴の叛徒を討たせ、二千余の首級を挙げた。叛徒は降伏を願い出た。

張衡の上書

  • 当時、朝政は偏りが多く、奢侈を競っていた。侍中の張衡が上書した。
  • 陛下は明哲で天命を承け位を継ぎ、途中で傾覆の変に遭われたが、潜龍の徳に応じ、やがて雲に乗って高く昇り天位に落ち着かれた。大任を降す時には必ずまず苦しめるというとおりである。艱難を身をもって経験されたから人の情を知り、万機を一貫して処理して疑うところがない。
  • 本来なら神々の応と民の称賛を受けるはずなのに、陰陽は調和せず災異がしばしば現れる。天の道は遠いが成敗は見やすい。近い世の鄭氏・蔡氏・江氏・樊氏・周広・王聖はみなその実例である。恭倹で慎む者は必ず福を受け、奢侈で諂う者はほとんど誅戮を免れない。前の事を忘れないのは後の事の師である。
  • 情が本性に勝って流されたまま帰りを忘れるのは、不肖の者に限らず中程度の才の者もみなそうである。大賢でなければ義を思うことができず、過ちが重なって罪となる。前を見て後を顧み、鏡に照らして自ら戒めるなら、どうして凶事に陥ろうか。
  • 貴顕の寵臣は皆が仰ぎ見る存在で、その僭越は上下ともに知っている。善を褒め悪を戒める心は誰でも同じだから、怨嗟の声が四海に溢れ、神明が禍を降す。
  • 近年、雨が常に足りない。洪範にいう「僭れば常に日照りとなる」である。群臣が奢侈にふけって規範を見失い、下から上を圧して凶兆を早めているのではないかと恐れる。
  • また先年、都で地震があり地面が裂けた。地が裂けるのは権威が分かれる兆し、地が震えるのは民が乱れる兆しである。君は静をもって唱え臣は動をもって和し、威は上から出て下に移らないのが礼の正しい姿である。
  • 君主に倦む心があり、制を自ら握りきれず、情に流されて割り切れないまま、威を人と共にしておられるのを恐れる。威は分かってはならず、徳は共有してはならない。洪範にも、臣下でありながら福を作し威を作し玉食する者があれば、その害は汝の家に及び汝の国に凶をもたらす、とある。
  • 天の監視は明らかで、粗いようで漏らさない。災異が人に示されたことは前後幾度にも及ぶのに、改められた跡がなく、過去の悔いを繰り返している。聖人でなければ過ちなしとはいかない。
  • どうか陛下は見聞きされたことをよく考え、古に照らし旧法に従い、刑と徳の大権を天子の裁断以外から出さぬようにし、怒りを抑え欲を塞ぎ、事は礼制に依られたい。礼制が整えば奢侈と僭越は止み、事が道理に合えば凶事はなく、そののち神聖の徳が満ち、災いは至らなくなる、と。

讖緯批判と張衡の事績

  • 張衡はまた、劉向父子が秘書を校定し諸家の書を整理したときにも讖書は存在しなかった、讖書は哀帝・平帝の頃に現れたもので、いずれも虚偽の徒が世に取り入るために作ったもので信ずるに足りないとして、上書し、讖は用いるべきでないと述べた(この前後、原文に脱落がある)。
  • 張衡は字を平子といい南陽鄂の人。和帝の世に尚書郎となった。当時は太平が長く続き、王公から庶人まで身分の制を越えぬ者がなかったので、二京賦を作って諷した。
  • 精緻で文才があり、天文と陰陽の術数に長じていたので太史令に遷った。

地動儀と渾天儀

  • 張衡は地動儀を作った。銅製で直径八尺、酒樽のような形。蓋を合わせ、山・亀・鳥獣の文様で飾った。
  • 樽の中に中心の柱があり、八方に道が通って機関が仕掛けてある。外側には八方に龍の頭があって銅の丸を銜え、その下で蟾蜍が口を開けて受ける。歯車仕掛けはすべて樽の中に隠され、蓋をかぶせると継ぎ目もなく一体に見える。
  • 地が動くと、その方角の龍の機構が働いて丸を吐き、蟾蜍が受けて音が響く。人はそれで気づいて龍の機構を調べ、残る七つが動いていなければ地震の起こった方角が分かる。符節を合わせるように的中したので、以後、地が動けば史官が記録に方角を書き留めた。見る者はみなその精妙さに感嘆した。
  • また渾天儀を作った。
  • 張衡は楊雄の太玄経を深く称え、崔瑗に語った。太玄経を見ると楊子雲は陰陽の数を尽くしている。単なる記伝の類ではなく実に五経に比すべきもので、漢が天下を得て二百年目の書である。著作の出る時期は必ず一つの時代に現れる定まった徴である。太玄は四百年後に興るだろう、と。そして自らの思索を尽くしてその意味を推し量り、さらに人に陰陽の事を論難させた。
  • 久しくして河間相として出た。その著述はみな世に伝わった。

王龔の危機

  • 九月、太尉の王龔が病で罷免された。
  • もともと王龔は宦官の専横を憂え、上疏してその罪を挙げ、罷免して追放すべきだと述べていた。宦官は食客に匿名の弾劾文を作らせて王龔を罪に陥れようとし、太尉王龔は速やかに自ら弁明せよという詔が下った。
  • 従事中郎の李固が大将軍梁商に説いた。王公は身を修め節を励んできたのに讒言の害を受けている。三公は尊重される地位で、旧典では大罪でなければ軽々しく訊問しない。王公は沈着で内に明るく、もし万一のことがあれば朝廷は忠良を害したという汚名を負う。善人が患難にあれば飯を食う暇も惜しめというのだから、その難を救うべきである、と。
  • 梁商は従い、王龔は免れることができた。
  • 王龔は字を伯宗といい山陽高平の人。安帝の時に司隷校尉となり、都は粛然として、天下に高明の名があった。
  • かつて龔の夫人が没したとき、龔は子らとともに杖にすがって喪に服した。同じ頃、山陽太守の薛勤は妻を亡くして哭さず、納棺に臨んで、幸い若死にではない、何を恨もうかと言った。議者は双方ともに譏った。