後漢紀巻第十六 孝安皇帝 永寧元年 120年

夏四月 皇太子の冊立

  • 丙寅、皇子の保を皇太子に立て、天下に大赦した。
  • 公卿以下に金帛を賜り、天下の男子にそれぞれ段階を設けて爵を賜った。
  • 鰥寡孤独や重病で自活できない者に一人あたり粟三斛、貞婦に帛一匹を賜った。

諸王の冊立と劉萇の処分

  • 己巳、済北王の子の劉萇を楽城王に、河間王の子の劉翼を平原王に立てた。
  • 劉萇は驕り淫して度を失い、冀州刺史がその罪は不道に当たると弾劾した。
  • 尚書侍郎の岑宏が議して述べた。聖人でなければ過ちがないということはありえない。だから王侯の世子には生まれたときから賢明な師傅を立てて訓導させ、目に悪しきを見ず耳に悪しきを聞かせないようにするのであって、それでこそ社稷を保ち、高明のまま終わることができる。
  • 劉萇は幼少から蕃国に育ち、内には庭訓もなく外には師傅の道もなかった。血気盛んな年頃に急に栄爵を受け、些細なきっかけから過ちを生じ、ついに不義に陥った。
  • 周官には親族を議して罪を減じる法があると聞く。劉萇を殺さず、無辜を害してはいない以上、譴責すべき非があるだけで赫々たる大悪はないのだから、租賦を削り減らして過ちを改め心を革め道に向かわせるべきである、と。
  • 詔により劉萇は臨湖侯に貶された。

史論(袁宏曰)

  • 昔の王侯は、自分で衣を着られるようになれば宰が服を整え、歩けるようになれば相者が導き、口がきけるようになれば行人が言葉を伝えた。閑(防ぎ)には礼があり、輔けには実質があった。
  • 幼いうちからこれに習い、長じても改めなければ、和睦の性は教化とともに淳厚になり、淫僻の心は生じる余地がない。
  • 逆に放任して師保を置かず、嗜欲のままにさせて禁じなければ、性気が出来上がってしまってからでは変えられず、情意が流れ蕩れて取り戻せない。だから凶徳に動かされて国を滅ぼし身を亡ぼすことになるのである。

秋以降 日蝕・羌の侵入・人事

  • 秋七月乙丑、日蝕があり、酒泉太守がこれを報告した。
  • 六月、羌が張掖を侵した。
  • 十一月、司徒の劉愷が持病のため策免され、太常の楊震が司徒となった。