春 高句麗の侵入と鄧太后の崩御
- 春正月、高句麗が玄菟を侵した。
- 二月辛亥、天下に大赦した。
- 三月辛巳、皇太后鄧氏が崩じた。癸未、大斂が行われ、大将軍の鄧隲を上蔡侯に封じた。丙子、和熹鄧后を葬った。
鄧氏一族の失脚
- そもそも天子は幼い頃から聡明との評判があり、そのため太后が帝位に立てたのだが、後には意に沿わないこともあった。
- 天子の乳母である王聖はそれを知っており、太后が長く政を返さないのを見て、廃立の意があるのではないかと恐れていた。中常侍・黄門郎の李閏も天子のために様子をうかがっていた。
- 太后が崩じると、二人は、鄧悝兄弟がかつて尚書の鄧防から帝を廃した先例の記録を取り寄せ、平原王を帝に立てようと謀っていた、と告げた。
- 五月庚申、有司が、もと執金吾の鄧悝、屯騎校尉の鄧弘、歩兵校尉の鄧闓は大逆無道であり、褒貶を明らかにするため爵土を追奪すべきだと奏した。
- そこで鄧悝の子の広宗、鄧弘の子の広徳らの爵位を剥奪し、宗族はみな免職されて本郡に帰された。
- 鄧隲は謀議に加わっていなかったとして沙羅侯に移封されたが、赴く途上で郡県に追い詰められ、鄧隲と鄧鳳は自殺した。広宗、鄧隲の従弟である鄧遵・鄧約もみな自殺した。ただ広徳の母だけは閻皇后と同腹であったため免れた。
- 楽安侯の鄧康は賢明で行いも正しいとして召され、太僕卿となった。
平原王翼の降格と密告者の恩賞
- 以前、河間孝王の子である蠡吾侯の劉翼が諸王子とともに京師に朝したとき、鄧太后は劉翼の人柄を気に入り、平原王に封じてそのまま京師に留めていた。
- 太后が崩じると、天子は劉翼が不軌を謀り帝位をうかがっていたとして、貶して再び蠡吾侯とした。
- 中常侍の李閏と江京を列侯に封じた。鄧氏の謀を暴いた賞である。
朱寵の弁護と鄧氏の名誉回復
- 大司徒の朱寵は鄧隲に推挙された人物であった。肉袒し棺を車に載せて上疏し、次のように訴えた。
- 和熹皇后の聖善の徳は漢の文母というべきものであり、兄弟は忠孝に心を一つにして国を憂え、宗廟に主が定まり王室はこれに頼った。功成って身を退き、国を譲り位を遜り、歴代の外戚に比べるものがない。積善の福を享け、謙約の報いにあずかるべき人々である。
- それを宮人の一方的な言葉によって処断したが、その事は信じるに足りない。鄧隲らの父母や一族の者が天寿を全うできず、亡骸が流離しているのは、天に逆らい人を損なうものである。みな帰葬させ、遺された孤児を厚遇して亡魂に応えるべきである。
- 安帝の初め、天災と疫病が起こり、百姓は飢饉で死者が相次ぎ、盗賊が群れ起こり、四夷が叛いた。鄧隲らは節倹を尊び力役をやめ、賢を推し能を進め、王室に心を尽くしたので、天下はこれによって再び安んじた。それが誅責されたのであり、事は暗く不明で、庶民の多くはその冤を口にしている、と。
- 天子はこれを聞き、また朱寵の言葉に心を動かされ、州郡に厳しく詔して、鄧隲らの遺骸を返し旧来の墓所に葬らせ、使者を遣わして中牢をもって祀らせた。従兄弟たちもみな京師に帰された。
史論(袁宏曰)
- 吉凶は人に由るが、存亡には地(身の置きどころ)が関わる。地を択んで身を処するからこそ君子は咎がない。
- 長く伸びた木の梢は必ず倒れる。勢いが極まるからである。勢いが極まれば患いを受け、全きものはない。
- とすれば、貴盛の極みこそ傾覆の起こるもとであり、外戚においてはとりわけ甚だしい。至公によって得た地位ではなく、長く政を切り盛りするからである。
- 人君の勢いは高く極まっているが、君を過ちのない地に置くから万人がこれを謀らない。人臣はそうではない。肩を並べて立ち、互いに一体である。天下の大権を操るのは万物の憎むところで、周公ですら狼狽したのだから、まして他の者はなおさらである。
- 寵愛を頼みに威を振るって傾覆を招くのは道理として当然だ。しかし心を推して善に向かいながら暗昧の誅を免れないのは、身を置く地が危ういからである。同じ死でも二者は違う。それは自ら処する道であって、いまだ地を択ぶ方法には達していない。
- 昔、楚人が三代にわたって君を殺し、王子捜を立てようとしたところ、捜は丹穴に逃げた。楚人は玉輿を持って迎え、薪をいぶして出てこさせた。だから王子捜は王となることが嫌なのではなく、王となることが自らの患いとなるのを嫌ったのだといわれる。
- とすれば外戚の患いは一身が焼け爛れるにとどまらず、歴代の貴寵で患いにならなかったものはない。何と哀しいことか。
清河王らへの追尊
- 戊申、有司が奏して清河王を孝徳皇帝、左姫を孝徳皇后、宋貴人を敬隠皇后と尊号した。
- 左姫は犍為武陽の人。父が事件に連座し、姫は姉妹とともに掖庭に入った。和帝が特に詔して宮人を諸王に分け賜ったとき、姫は清河孝王のもとに配された。美しい容色があり、王はたいそう重んじ、孝安帝を生んだ。
天子の親政と隠逸の招聘
- ここに至って天子ははじめて自ら万機を執った。
- 尚書の陳忠は、政を始めるにあたってまず天下の隠逸を招くべきだと考えた。そこで公車を遣わし玄纁の礼をもって南陽の馮良と汝南の周燮を招いたが、いずれも病と称して来なかった。
- 馮良は字を君卿という。若い頃に県の吏となり、尉に従って督郵を出迎えたとき、下働きの役を恥じ、車馬を壊し衣冠を破って跡を絶ち遠くへ去った。妻子は壊れた車と衣を見て猛獣に食われたものと思い、喪を発して服を着た。馮良は犍為に至って師に就き学業を受けること十余年、郷里に帰った。人目のない所にいても必ず身を正し、礼にかなわないことはしなかったので、郷里は師と仰いだ。賢良方正・敦朴に推挙されたがいずれも応じなかった。
- 周燮は字を彦祖という。詩書を篤く学び、法にかなわないことは口にせず、交わる相手も数人にすぎなかった。家庭内でも夫婦が賓客のように敬い合い、その感化は郷党に及んだ。孝廉・茂才に挙げられ、公車で二度招かれたが、いずれも就かなかった。
陳忠、諫言の道を広げるよう上書
- 天子が新たに政を聴き諫諍の道を開いたが、尚書の陳忠は、直言を旨とする者が人主に容れられないことを憂え、上書して帝の度量を広げようとした。
- その趣旨はこうである。人君は山藪のように大きく構えて切直の言を受け入れ、忠臣は蹇蹇の節を尽くして耳に逆らう誅を恐れない、と聞く。だから高祖は周昌の桀紂の喩えを許し、孝文は袁盎の人豕の喩えを嘉し、世宗は東方朔の宣室での諫めを納れ、孝元は薛広徳の自刎の諫めを容れた。
- 陛下は寛厚の徳を尊び、宋景の誠を推し、咎を自らに引き受けて群吏に諮問しておられる。事を言上した者が新たに採録され二台に列せられれば、人々は必ず風に靡くように争って切直を競うだろう。
- もし管を覗くような狭い見識でみだりに得失を陳べる者がいて、その言が苦く耳に逆らい事実に合わなくても、ゆったりと寛容に受け止め、四帝の遺緒に従うべきである、と。
秋以降 人事と災異
- 秋七月己亥、天下に大赦した。
- 八月甲子、もと司徒の劉愷を太尉とした。
- 九月戊子、天子が衛尉の馮石の邸に行幸した。馮石は宝剣と玉玦を献上した。天子は冬十二月丙申になってようやく宮に還った。
- 己丑、三十五の郡国で地震があり、城郭が壊れて人が圧死した。本志はこれを、安帝が不明であり、宮人と王聖が権を専らにしたことの応報だと解している。
- 鮮卑が玄菟を侵した。
三年喪の廃止と陳忠の反対
- 庚子、大臣が三年の喪を行うことを禁じた。尚書の陳忠が上疏して反対した。
- 昔、先王は孝によって天下を治め、親を愛することに始まり哀戚に終わった。天子から庶人に至るまで、尊卑貴賤を問わずその義は一つである。
- 人は生まれて三年たってはじめて父母の懐を離れる。先聖は情に基づいて節度を定めた。だから臣に大喪があれば君は三年その門に呼びかけないという。
- 周室が衰えて礼制が廃れると、蓼莪の人が詩を作って自ら傷み、「瓶の罄きるは、これ罍の恥」と詠んだ。子としての道を全うできないのは、上に立つ者の恥でもあるという意味である。
- 高祖が命を受け蕭何が制を作ったとき、大臣には寧告(喪の休暇)の規定があり、憂いを致す義にかなっていた。建武の初めは乱を収めた時期で国政が草創にあり、人倫もまだ厚くならず、三年の喪を行って顧復の恩に報いる者は少なかった。礼義の廃れはここから始まった。
- しかし仁の道は遠いところにあるのではなく、これを弘めればそこにある。籍田の制は太宗に起こり、孝廉の貢は孝武に始まり、郊祀の礼は元帝・成帝の時に定まり、三雍の序は永平年間に整った。大臣の送終の礼が今ここに整えば、聖なる功と美しい業績はまさにここに存する。
- 孟子に「老を老とし幼を幼とすれば天下は掌に運らすことができる」とある。陛下には高きに登って北を望み、甘陵を思う心をもって臣子の心を推し量っていただきたい。そうすれば海内の群生はそれぞれその所を得るだろう、と。
- 天子は従わなかった。
史論(袁宏曰)
- 古の帝王が教化を篤くし風俗を美しくし、民を率いて善をなさしめたのは、その自然に従い情を奪わなかったからである。
- それでも民には及ばぬところがあるというのに、まして礼を毀ち哀しみを止め、その天性を滅ぼしてよいはずがない。
冬 辺境の侵入
- 冬十月、羌が張掖・武威を侵した。
- 十二月、高句麗が玄菟を囲んだ。