後漢紀巻第十六 孝安皇帝 元初六年 119年

春 大規模な地震

  • 正月乙巳、京都と三十二の郡国で地震があり、水が湧き出し、城郭や家屋が壊れ、人が圧死した。
  • 三月庚戌、はじめて国の北で六宗を祀り、儀礼は太社に準じた。

夏・秋・冬の災異と侵入

  • 夏五月、京師が旱に見舞われた。
  • 七月、鮮卑が塞内に侵入した。
  • 冬十二月戊子朔、日蝕があり、八の郡国で地震があった。

西域をめぐる論議と勇の献策

  • この年、北単于が車師後部王とともに敦煌長史の索班を攻めて殺し、そのまま北道一帯を支配し、太守の曹宗を追い払った。
  • 曹宗は索班の恥を報じるため匈奴を撃つ兵を請い、あわせて西域を取り戻したいと願い出た。
  • これに対し勇(原文「司空司勇」)が議した。辺境は中国の唇歯であり、唇が亡べば歯が寒いのは道理である。先帝は将に命じて征伐させ、年月を重ねてようやく西域が内属し辺境が安んじた。曹宗は当時の情勢を測らず、自らの敗北の負い目から荒外に兵を挙げて功名を求めようとしている。これは禍の始まりであり、兵を唱えれば患いは量りしれない。今は府庫が充実しておらず、遠く出師すれば後続が絶える。それは遠夷に弱さを示し、海内に短所をさらすことになる。許すべきではない、と。
  • そのうえで、敦煌郡にはもともと営兵三百人がいたのだから今これを復置し、西域長史を楼蘭に駐屯させるべきだと述べた。楼蘭は西のかた焉耆・亀茲に当たるので、一か所に居ながら広い範囲を制することができる、と。
  • 公卿はみな勇の議に従い、勇を西域長史とした。
  • まもなく勇は鄯善と車師前部王の兵を発して後部王を撃ち大破し、後部王を捕らえた。匈奴の使者も捕らえ、索班が没した場所に連れて行って斬り、首を洛陽に伝えた。