後漢紀巻第十四 孝和皇帝 永元九年 97年

春三月 済南王康の死と何敞の諫言

  • 三月癸巳、済南王の劉康が没し、安王と諡された。康は法度を守らず賓客と広く交わっていた。かつて、康が中郎将の張陽・董臣を使って州郡の悪知恵の働く連中(顔忠・劉子産ら)を招き寄せ、図書をもとに謀反を企てたと告発する上書があった。担当官は処罰を奏上したが、明帝は近親であることから徹底追及に忍びず、阿・隰陰・東・胡陽・安徳・西平昌などの県を削るにとどめた。
  • 康は財貨を蓄え宮室を造営し、奴婢は千人あまり、厩の馬は千頭あまり、田地は八百頃を超えていた。
  • 傅となった何敞が上疏して諫めた。要旨は次のとおり。諸侯の道は節度を守ることこそが忠であり、それでこそ社稷を保ち民を和ませられる。管仲は九合の功があったが、孔子はその器量の小ささを譏った。奢侈で君主に擬え、礼を知らなかったからである。大王は皇室の骨肉で藩国の尊位にあり、率先して天下の手本となるべき立場にある。王侯の車服や儀礼には国家の定めた等級があり、これを踏み越えてはならない。飾りが過ぎれば実質が枯れ、外形が勝てば人が滅ぶ。国を治める者は道徳仁義を本拠とすべきで、宮室を飾り厩を馬で埋めることが尊さではない。楚の章華台、呉の姑蘇台を建てた国はいずれも滅び、斉の景公は千駟の馬を持ちながら民に称えられなかった。大王はしばしば諸邸に遊び、出入りに節度がなく、夜明けや夜更けにまで及ぶ。これでは未然の禍を遠ざけ、後世に示す法とはならない。恭倹を修め古制に従い、法で自らを律し、礼で下を導き、奴婢を減らし乗馬の費用を削るべきである。薬酒は口に苦いが病に効き、直言は耳に逆らうが行いに益がある、と。
  • 康は敞を礼遇したが、行いを改めることはできなかった。

夏五月 外戚陰氏

  • 皇后の父の陰綱を防侯に封じた。綱は上疏して位を辞退し、特進侯として邸宅に退いた。綱の弟の鳳・謁は郎中に、子の軼は黄門郎に准じる待遇となった。
  • 陰氏は建武以来、外戚の縁で代々卿・校尉を務め、外では禁兵を統率し内では側近に侍り、賞賜と恩寵によって当代随一の重きをなしていた。

秋 竇太后の崩御と尊号論議

  • 七月、蝗の群れが都の上空を飛び過ぎた。
  • 閏月辛巳、皇太后の竇氏が崩じた。太尉の張酺は司空・司徒とともに、前漢の呂太后の先例に倣って竇太后の尊号を貶め、敬陵に葬らないよう上奏した。同調する百官も多かった。
  • 帝は自ら張酺に返答した。礼において臣下が主君の親を貶める道理はない。皇太后の一族は法度を守らなかったが、太后自身は常に身を慎み減らそうとし、十年にわたり自分に仕えてくれた。その恩を欠くに忍びない。前代の上官太后の例に従い、最後まで礼を尽くす義に従え、議論を蒸し返すな、と。
  • 丙申、章徳竇皇后として葬った。

辺境と人事

  • 隴西の羌が塞を侵したので、執金吾の劉尚が三万騎を率いて撃破し平定した。
  • 九月甲申、司徒の劉方が罪を得て自殺した。

梁貴人の追尊

  • 和帝を生んだのは梁貴人だったが、竇后が自分の子として引き取り、この事実を隠していた。貴人は梁竦の娘である。
  • 永平の初め、竦の兄の陵郷侯梁松が事件に連座して辺境へ流され、後に本郡への帰還を許された。竦は門を閉ざして出ず、経書数篇を著して『七序』と名づけた。班固はこれを見て、かつて孔子が春秋を作って逆臣どもが恐れたように、梁竦が七序を作って位を盗み禄を貪る者が恥じ入る、と称えた。
  • 竦は財を惜しまず施しを好み、財産を残さなかった。兄嫁の舞陰長公主は梁氏一族に広く施し親疎の序を保ったが、竦だけは別格に敬い、衣服や品物も他と分けて贈った。竦は自分だけで享受せず、常に一族と分かち合った。
  • 竦は都で育ち、父兄の代から学者たちと交わったので郷里に帰るのを好まなかった。大志を抱き、高所から遠くを望むたびに、大丈夫たるもの生きては侯に封ぜられ死しては廟に祀られるべきで、詩書があれば自ら楽しむに足る、州郡の勤めは人を疲れさせるだけだと嘆じた。
  • 竦には二男三女があり、長男は棠、次が翟、長女は憑、あとの二人が貴人となった。馬太后が良家の子女を選んだ際、貴人は姉とともに入宮して帝の寵を得、和帝を生んだ。竦は喜びを抑えられず舞陰長公主と語らううち、罵り合いの中で言葉が漏れて竇氏の耳に入った。竇氏は皇太子の外戚の名を独占しようとして梁氏を憎み、失脚させようと大逆の罪を着せ、詔によって郡県が竦を取り調べ、竦は獄中で死んだ。家族は舞陰公主のもと新野に置かれ、使者が監視した。貴人と姉は憂いのうちに死に、その葬礼も欠けたままだった。

梁氏名誉回復の経緯

  • 竇后が崩じると、舞陰公主の甥の梁扈が従兄の梁擅を遣わして三府に上申した。春秋の義では母は子によって貴くなる、それが漢家の旧典である。今、梁貴人は自ら帝を生み育てながら尊号を受けていない、と。
  • 太尉の張酺だけが梁擅に会って詳しく問い、これは三公の職務であり梁氏の福でもあると答えた。蝗害の件で参内した折、酺は梁擅の上申を帝にすべて伝えた。帝は、葬礼に欠けたところがあるのを酺は知らないと思っていた、と言った。
  • 酺は、陵に長史を置いて祭祀の礼を加え、外戚の諸叔父を登用して親を親とする道を明らかにすべきだと答えた。帝が義においてどうかと問うと、酺は答えた。春秋の義があり、漢家にも前例がある。梁氏と竇氏はともに名族で、河西を守り忠によって封を得た家柄である。竇憲兄弟は謀反を企て、太后への非難が天下に満ちた。一族の死者は梁氏より多い。外戚を親しみ尊顕するのは道理にかなう、と。
  • 帝は、君でなければ朝廷のためにこう言う者はいない、恩は大家の事であり、世評が騒がしいのは君も知るとおりだと述べ、酺の言を深く容れた。

梁憑の上書と追尊

  • ちょうどそのころ貴人の姉の梁憑が上書した。妹の貴人は後宮に入り先帝の厚恩と寵を受けて陛下を生んだが、竇憲兄弟の讒言で父の竦は牢獄に冤死して遺骨も葬られず、母と幼い弟は万里の彼方に流され、自分ひとりが逃れて草野に隠れ、いつ命を落として訴える術も失うかと恐れ続けた。陛下が万機を統べ、憲兄弟がみな誅されて海内が落ち着き、ようやく息をつけたので、死を覚悟して申し上げる。父はすでに冤死して生き返らず、母は七十歳で遠く絶域にあり生死も知れない。母と弟を本郡に戻し、竦の遺骨を葬らせてほしい。文帝が立って薄氏が栄え、宣帝が継いで史氏が復興したと聞くが、自分たちには薄氏・史氏と同じ縁がありながら外戚の恩恵に浴していないのが悲しい、と。文面は痛切をきわめた。
  • 帝は心を打たれて悟り、中常侍と掖庭令に取り調べさせたところ、憑の申し立てはすべて裏づけられた。
  • 甲子、梁貴人の柩を承光宮に移し、皇太后を追尊して恭懐と諡し、西陵に葬った。
  • 帝は別に梁憑を引見した。憑がすべてを語ると帝はむせび泣き、憑を宮中に留めて連日帰さず、財物と邸宅を賜り、ひと月ほどで資産は千万に上った。憑は平素から行いが正しかったので、梁貴夫人の称号を加え、憑の夫を引き立てて羽林佐監とした。
  • 梁竦には親愍侯の諡を追贈し、中謁者を遣わして都に柩を迎えて改葬し、東園の画棺と玉匣を賜って西陵の傍らに葬り、帝自ら臨席して送った。竦の妻子も都に呼び戻した。
  • 清河王の劉慶は、梁貴人が竇氏の讒言に遭って葬礼を欠いたことを、涙ながらにも口に出せず、常に私室でひそかに祭っていた。梁太后の改葬に際して、慶は上書して貴人の墓に参ることを願い出て許され、生前に養うことはできなかったが最後に祭祀を奉じられた、これで願いは果たされたと喜び悲しんだ。

張酺の引退願いと退けられた辞意

  • 太尉の張酺が上疏して引退を願い出た。帝は中黄門を遣わして病を見舞い珍味を贈ったが、酺は重篤だと言い張った。
  • 詔にいわく、君主が明らかでないため民が困窮している、朕は君と憂いも責任も共にしている、どうして退いてよかろうか、二度と言うな、と。
  • 当時、酺の子の張蕃が郎として侍講していた。帝はさらに蕃に詔した。陰陽が調わず、朝廷は公を頼りにしている。病にかこつけて退き、自分だけ潔白でいるなら、誰が朕と心を同じくするのか。公に望むことではない、と。
  • 酺は恐懼して参内して謝し、そのまま職務に戻った。
  • 酺が三公になったとき父はまだ健在で、酺が昇進するたびに父は田舎から出てきた。ある年の暮れの臘の日、公卿たちが朝を終えてそろって酺の父のもとを訪れ、酒を献じて酺の長寿を祝い、歓談は日が傾くまで続いた。当時これを名誉なこととした。

冬 三公の交代と張奮の礼楽の上疏

  • 十月癸卯、光禄勲の呂蓋が司徒となった。
  • 十一月丙寅、司空の張奮が老病を理由に退官した。壬申、太僕の韓稜が司徒となった。
  • 張奮は退いた家から上疏した。上を安んじ民を治めるのに礼に勝るものはなく、風俗を改めるのに楽に勝るものはない。揖譲して天下を治めるとはまさに礼楽のことで、先王の道はここに極まる。礼楽が興らなければ刑罰は当を得ず、民は身の置き所を失う。漢は天命を受けた以上、礼楽を制定すべきで、図讖にも明文がある。先帝は聖徳をもって遠く先例を鑑み、常に礼楽を心にかけたが、多くの儒者は理解できず異論ばかり唱えた。自分は代々輔弼の任にありながら漢の礼楽が定まらないのを憂えている。寿命は尽きようとしているが、死ぬ前に礼楽の制定を見たい、と。帝はこれを善しとした。