春 辟雍の大射と大赦
- 二月、西海郡を修めた。
- 三月戊辰、帝が辟雍に臨んで射礼を行い、天下に大赦した。
夏 鄭衆の封侯と宦官の専権の始まり
- 六月、中常侍の鄭衆を列侯に封じた。竇氏討伐の謀を賞したものである。
- 衆は南陽の人で、明帝のとき慎み深さを買われて太子の家に仕え、章帝の即位で中常侍となった。竇憲が権を専らにして内外の者が群がり寄ったとき、衆ひとりが取り入らず一心に王室に尽くした。竇氏が誅されると大長秋に昇り、天子は常に国事を相談した。宦官の専権はこの鄭衆に始まる。
陰皇后の廃位と鄧皇后の擁立
- 辛卯、皇后の陰氏を廃した。以前、后は外祖母の鄧祀とともに呪詛を行っていた。詔によって中常侍の張禛と尚書の陳襃が掖庭で徹底的に取り調べた。父の陰綱は自殺し、兄の陰軼らは合浦に流され、后の母と二人の叔母は日南に流され、鄧祀ら内外の親族はみな免官のうえ本郡に帰された。
- 冬十月辛卯、鄧氏を皇后に立てた。后は鄧訓の娘である。
- 訓は家庭内の躾が厳しく、息子たちが目通りしても席を与えなかったほどだが、后のことだけは大小を問わず必ず相談した。弟の鄧邠が、日ごろ息子たちとも話さないのにどうしてかと問うと、訓は、この娘は他の子らの及ぶところではない、必ずわが家の益になると答え、非凡な子と見ていた。
鄧氏の家系
- かつて鄧禹は創業の功臣として臣下第一の位にあり、常に、自分は百万の軍を率いたが少しも民を犯さず、みだりに一人も殺していない、子孫は必ず大いに栄えるだろうと言っていた。
- 鄧訓は謁者として石臼河の工事を担当した際、うまく手を打って数千人の命を救い、弟の邠に、千人を活かせば子孫に封があると聞くが本当だろうかと語った。
- 訓には五男三女があり、長男は鄧隲、以下、京・悝・弘・闓。長女は燕、次が綏(すなわち后)、次が容である。
鄧皇后の幼少と修養
- 后が五歳のとき、祖母が髪を切ってくれたが、老人は目がかすんで后の額を傷つけた。后は痛みをこらえて言わず、額一面が傷ついた。左右が不審がって尋ねると、后は、大夫人が慈しんで髪を切ってくださったのに老人の心を傷つけるのがしのびず、我慢したのだと答えた。
- 姉の燕が早くに没して遺腹の娘の娥が乳飲み子で残された。后は十二歳で、娥が幼くして孤児になったのを哀れみ、自ら育てたので、一門から敬われた。
- 叔父の邠や兄たちと語るとき、常に祖父の禹が布衣から創業を助けた時のことを尋ねた。邠は、若いころから家業を興して郷里に名を知られ、時運に会って策を持って身を投じ、四方を征伐して天下を平定し、功成った後は家に籠って身を慎み、寡婦となった姉に礼を尽くして仕え、子孫を厳しく律し、光武帝の崩御に遭って悲しみのあまり血を吐き、それがもとで病を発して没したと語った。后はそのたびに嘆息して涙を流し、徳を立てる苦労はここまで至るのかと言った。
- 后は後に学問に志して経書に通じ、家事を顧みなかった。母が咎めて、女は文字が読めれば足り、孝経ひとつ通ずればよい、今、女の仕事をしないで、大きくなって博士にでも挙げられるつもりかと言った。后は重ねて母の意に背きたくなく、昼は針仕事をし夜は経伝を読んだ。一族は后を「諸生」と呼んだ。
- かつて人相見の蘇大が一家をひととおり見たが、后のところで大いに驚き、これは成湯の骨相である、貴きこと言葉にできないと言った。家の者は内心喜んだが、言い広めはしなかった。
貴人としての振る舞い
- 后は身長七尺二寸。十六歳で選ばれて掖庭に入り貴人となった。陰后に仕えて朝夕慎み深く、同輩に接するにも常に自分を抑えて下手に出たので、ついに帝の寵を得た。
- 帝が病むたびに、母や兄を宮中に入れて医薬を見させ、日数の制限も設けなかった。しかし后は、外戚が長く宮中に留まれば、陛下には私情に偏るとの譏り、自分には身内びいきで足るを知らぬとの謗りが生じ、上下ともに損なわれる、本意ではないと述べた。帝は、他人は何度も入れることを栄誉とするのに鄧貴人はかえって憂う、まことに及びがたいと言った。
- 貴人たちは競って着飾ったが、后だけは彩り豊かな衣を求めず、質素な衣を用いた。陰氏と同じ装いになるとすぐ着替え、同じ服になるのを避けて正統の后を立てた。帝は、徳を修める苦労とはこれほどのものかと感嘆した。
- 帝が政事を問うたびに謙遜して答えず、陰后が先に述べるようにさせ、やむを得ないときにだけ答えた。陰后は背が低く、立ち居振る舞いに作法を欠くことがあり、左右は口を覆って笑ったが、后だけは沈んだ面持ちで、自分の落度のようにかばい隠した。陰后と並ぶときは真っ直ぐ立たず、座れば身を屈めた。心を砕いて身を低くする姿勢は徹底しており、帝はいよいよ后を重んじた。
- 后は進見のたびに病を理由に退き、帝の側近たちには、帝には世継ぎが多くないから広く恩恵を施して子孫を得るべきだと常々語り、その言葉は真情がこもって顔にも表れた。
陰后との確執
- 陰后はもともと嫉妬深く、后の寵が篤いのを見て策を巡らせて陥れようとした。帝が病んだとき、陰后は、自分の思いどおりになった暁にはみな根絶やしにしてやると言った。
- 后は一族に禍が及ぶのを恐れ、涙ながらに言った。節を尽くして陰后に仕え、これ以上ないほどにしたのに、ついに報われず天に罪を得ようとしている。祈る先もない。婦人には殉死の作法はないが、越姫には死をもって示す志があった。死ねば上は帝の厚恩に報い、次に一族の禍を解き、下は陰氏に人豕の悪名を負わせずに済む、と。そして薬を飲もうとしたが、宮人が救い止め、ちょうど使いが来て陛下の病が癒えたと偽って告げたので、后は信じて思いとどまった。
- その後、宮人が陰后の巫蠱の一件を告発した。后は涙ながらに救おうとして手を尽くした。
- 陰后が廃されてから、帝は嘆じて言った。皇后の尊位は帝と一体で宗廟を承け天下の母となる、誰がこれに当たれよう。ただ鄧貴人のみ徳が後宮に冠絶し、その位を輝かせられる、と。
后の質素と外戚の抑制
- 陰后の時代には、諸家が四季の献上に奢侈を競い、器物はみな金銀で飾られていた。后は玩具の類を好まず、珠玉には目もくれず、諸家への季節の贈り物も紙と墨を用意して心を通わせるだけだった。
- 后は宮中に入ってからは五経・諸子百家・図讖を博く読み、読まないものがなく、易と陰陽占候に通じ、まれに見る才だった。
- 帝が后の兄たちに官位を与えようとするたび、后は誠意を尽くして固く辞退し、自らを抑えることを心がけた。そのため鄧隲は帝の在世中、虎賁中郎将を超えることがなかった。隲が虎賁郎だったとき、京・悝・弘・闓は黄門郎だった。京は早世し、騎都尉の印綬を追贈された。
韓稜の死と後任
- 丁酉、司空の韓稜が没した。大司農の徐防が司空となった。
- 稜は字を伯師といい、潁川舞陽の人。幼くして父母を失い、孤児の弟と暮らした。成人すると数百万の家財を従兄弟に譲り、郷里から高く評価された。郡に仕えて功曹となった。
- 太守の葛興が病んで正気を失うと、稜が補佐して数年、政令に落度がなかった。興の子が命令書を出して官吏を異動させようとしたとき、稜は封じたまま返して従わなかった。訴えが起こり、稜が興の病を隠して郡政を独占したとされ、再び官吏となる道を絶たれた。後に禁令が解けて司空府に召され、次第に昇って尚書令に至った。機密の任にあって忠言をたびたび呈し、良吏を登用した。章帝は稜が国を憂えて家を忘れ、朝夕怠らないのを賞して、たびたび賜り物をした。
- このころ郅寿と陳寵もともに尚書で、いずれも才能を認められていた。帝は三人に宝剣を賜り、自ら名を書きつけた。韓稜には龍泉、郅寿には漢文、陳寵には鍛成。論者は、稜は思慮が深く謀があるから龍泉、寿は文才があって明達だから漢文、寵は素朴で内に人を救う心があるから鍛成を得たのだと評した。
- 徐防は字を謁卿といい、沛国銍の人。謹厳で風采があった。初め郎となり、明帝が見て非凡と認めた。尚書郎に取り立てられ、台閣に十余年いて一度も過失がなかった。次第に少府・大司農に昇り、諸事に励んで赴任先ごとに実績を残した。