後漢紀巻第十四 孝和皇帝 永元十三年 101年

秋冬 減税と朝貢

  • 九月、詔していわく、水旱が順調でなく蝗や螟が発生した。天下の田租をすべて半減し、被災者は免除する。貧民に貸した種籾や食糧は取り立てない、と。
  • 十月、安息国が獅子と大雀を献上した。

班超の帰還願い

  • 西域都護の班超が上書して交代を願い出た。太公望は斉に封じられたが五代にわたり周に葬られたと聞く。狐は死ぬとき丘の方に頭を向け、代の馬は北風に身を寄せる。周と斉はどちらも中原にあり千里の隔たりでさえそうなのだから、まして万里の絶域にいる小臣が故郷を慕わずにいられようか。蛮夷は壮者を畏れ老人を侮るのが生まれつきである。自分は寿命が尽きようとしており、いつ倒れて魂が捨て置かれるかと恐れている。私利を営むつもりはないが、後世に自分が西域で朽ち果てたと言われるのを恐れる。酒泉郡まで到れとは望まない、ただ生きて玉門関を入り、辺境の威を外に示したい。老病で衰えきり、死を覚悟して盲言する。まず子の班勇を献上物に随行させて塞内に入れ、自分の存命中に勇に中原を見せておきたい、と。
  • 超の妹の班昭も上書した。兄の西域都護超は身を捧げて国に尽くし、功をもって報いてきた。陛下の御威光により砂漠の地で務めを果たして三十年になる。肉親も妻子も生きたまま互いを知らず、当時の同僚はみな死に絶えた。超は七十になり老衰して病み、杖にすがって歩く。力の限り大恩に報いようにも年の暮れに追われ、寿命は尽きた。蛮夷の性は道理に背き老人を侮るから、悪心の芽を開き反乱の心を生じさせかねない。それなのに公卿大夫はその場しのぎばかりで先を慮らない。もし急変があれば超の体力は心に追いつかず、上は国家が代々築いた功を損ない、下は忠臣が力を尽くした甲斐を無にし、栄誉を辱に変えてしまう。痛ましいことである。だからこそ超は万里の彼方から誠を尽くして窮状を訴え、首を伸ばして三年も待っている。超は自分に訣別の手紙を送り、もう会えぬかもしれないと言ってきた。壮年の力を砂漠で忠孝に費やしながら、老いさらばえて曠野に捨てられるのは憐れむべきである。もし救われぬまま超の身に変事があればどうなるか。趙母や衛姫が先に願い出て許された故事に倣い、超の家が恩恵を蒙れれば幸いである、と。
  • 上書が奏上されると帝はその言葉に心を動かされ、超を召還して校尉の任尚を後任とした。超は都に着いて射声校尉を拝したが、数か月で没した。朝廷は惜しんで葬礼の贈り物を厚くした。子の班勇は後に西域で功績をあげた。

班超と任尚の問答

  • 先に任尚は超に書を送り、君侯は外国に三十余年、自分のような小人がその後を継ぐのは任が重く思慮が浅い、教えを乞いたいと述べた。
  • 超は答えた。任君はたびたび要職に就いており、班超の及ぶところではない。どうしてもと言うなら愚見を申そう。塞外の官吏や兵士はもともと孝子順孫ではなく、みな過失を償うために屯所に配された者たちである。蛮夷は獣の心を持ち、なつけにくく動揺しやすい。今、君の性格は厳しく性急だが、澄んだ水に大魚は棲まない。将軍たる者、小さな過ちは大目に見て大綱を握るだけでよい、と。
  • 尚は側近にひそかに、班君から奇策を授かると思っていたが、言うことは平凡だったと漏らした。しかし尚は後に辺境の禍に遭い、超の言葉どおりになった。

史論(袁宏曰)

  • 古の天下を有つ者は他を制御しようとしたのではなく、安静を貴んだ。自らを修めてから外に求め、内を治めて外に手を出さず、小から大へ、近から遠へと及ぼした。木に根があり枝に葉があるように、王畿が固ければ九服は安らかで、中国が充実すれば四夷は自ら服属する。
  • 唐虞の盛世、徳沢の厚さをもってしても正朔の及ぶ範囲は五千里にすぎず、その外は羈縻するだけで領有しなかった。三代は国を建てても遠征を動かさず、岐・邠や江淮の間は旧俗のままにさせ、北の原野や遼海の地では異族の服装も改めさせなかった。それでも礼冠をつけて南面し王と称し、君臣は泰然として領域が狭いとは思わなかった。だからこそ天下は安らかで、国家は長く続いた。
  • 秦漢に至って領土を広げ、古代の三倍五倍にもなった。それでも天下を見渡して心が満たされず、西は諸国に通じ東は海外を攻略した。その結果、土地は広くとも威令は行き届かず、境は遠くとも教化は同じくならず、災禍が重なった。これは当代の君主が死後の名声を求め、有為の人が貧賤に甘んじられなかったための過ちではないか。こうして域外の事業が興り、僥倖を狙う者が集まった。
  • 聖人の政治は英才を貴んで天下を安んじ、人材を集める。僥倖の徒は王者の制度が排除するものである。班超の功績は驚嘆に値しないわけではないが、中国を益するものはなく、せいぜい四夷を服させるにとどまった。だからこそ王道の採らないところなのである。

冬 司徒の交代と魯恭

  • 戊辰、司徒の呂蓋が老病で退官した。十二月丁丑、光禄勲の魯恭が司徒となった。
  • 魯恭は字を仲康といい、右扶風平陵の人。父は武陵太守で在官中に没した。当時恭は十二歳、弟の魯丕は七歳で、昼夜泣き叫んで道行く人まで悲しませた。郡の役人からの贈り物は一切受けず、喪の作法は礼にかない、郷里の人々は感嘆した。
  • 十五歳で弟とともに太学に住み、博士について学び、門を閉ざして講誦し仲間とつるまなかった。兄弟は名を知られ、学ぶ者の宗と仰がれた。扶風から礼を尽くして何度も招かれたが辞退し、母に強く促されてやむなく応じた。同門で従う者が前後の道にあふれた。
  • 恭は新豊で教授を始めたが、弟の丕がまだ若く名を成させたいと思い、常に病を口実に仕えなかった。丕が方正に挙げられてからようやく郡吏となり、太尉の掾に召され、中牟令に転じた。
  • 民の李勉が母に訴えられたので、恭は召し出して責め、父母の恩徳を説き聞かせた。勉は恥じ入って悔い改めて帰った。
  • 恭の政治はもっぱら徳による教化で、刑罰に頼らなかった。ある亭長に牛を返すよう命じたが従わず、三度命じても返さない。恭は涙を流して、徳化が行われないのだと言い、印綬を解いて去ろうとした。掾吏たちが泣いて引き止め、亭長はすぐ牛を返して獄に出頭し罪を受けた。恭は寛大に放免して問わなかった。これによって官吏も民も敬い信じ、だれも欺こうとしなくなった。

中牟の三異と魯恭の登用

  • このころ天下に蝗害があったが、中牟の境内だけには入らなかった。河南尹の袁安は事実でないのを疑い、部下の掾の肥親を派遣して実地に調べさせたが、すべて報告どおりだった。
  • 恭が肥親に従って畦道を歩き、桑の木の下に座っていると、雉が飛んできてそばに止まった。かたわらに子供がいたので、親が雉を捕らないのかと尋ねると、子供は雉は今ひなを連れていると答えた。親は黙って立ち上がり、自分はあなたの落度を調べに来たのだが、虫が境を犯さないのが第一の異、教化が鳥獣に及ぶのが第二の異、子供に仁の心があるのが第三の異である、府の掾が長居するのは賢者を煩わせるだけだと言った。
  • 府に戻って袁安に報告し、安はその治績を称えた。この年、県庁の庭に嘉禾が生え、安は詳しく上奏した。賢良方正を推挙せよという詔が下ると、恭は中牟の人の王方を推薦した。天子は方を召し、公車で礼遇して、公卿が推した賢者と同じ扱いをした。
  • 今上が即位すると恭は召されて博士・侍中となり、帝が郊廟に出るたびに常に陪乗し、帝は振り返って諮問した。政治について民に益することがあれば、恭は何ひとつ隠さず答えた。