春 丁鴻
- 春正月、永昌の夷が犀と象を献じた。
- 司徒の丁鴻は字を孝公、潁川定陵の人。父の丁綝は世祖に従って征伐に功があり、潁陽侯に封ぜられた。鴻は十二歳で太常の桓栄に師事し、十六歳で章句に通じ、布衣で荷を担ぎ千里を遠しとせずに異なる解釈を尋ね歩いた。だからその名を成すことができた。
- 初め、綝が帝に従軍していた頃、鴻は弟の丁盛とだけで暮らし、飢えと寒さに苦しんだ。帝は盛が国を委ねるに足る志をもつことを憐れんだ。綝が薨じて葬儀が済むと、鴻は喪服を墓のかたわらの庵に掛けて逃げ去り、盛に書き置きを残した。
- その書き置きの趣旨。自分は経書を貪って恩義を顧みず、生前は養わず死後も供物を捧げなかった。皇天も先祖も護ってはくれまい。身は大病を受け、上は藩屏となるに堪えず、下は封土を守るとも言えない。先に病状を上申し、爵封を弟に譲る旨を申し出たが、上書は握りつぶされて返答がない。謹んで身を捨て、良医を求めに行く。それでも癒えなければ永く溝や谷に骨を埋めるまでだ、と。
- 初め鴻は九江の人・鮑俊と親しかった。俊が東海で鴻に出会うと、鴻は狂を装って俊を知らぬふりをした。俊は足を止めて責めた。昔の伯夷や呉札は乱世に臨機の行いをしたから志を伸ばせた。漢には旧来の制度がある。春秋では家事のために王事を廃さないといい、衛の輒の子の例がある。今、兄弟の私情のために父が遺した滅びぬ基業を絶つのは、智とはいえまい、と。
- 鴻は感じ悟って涙を流し、嘆息して封国に還った。楊州で教授し、称えられた。鮑俊もまた上書して鴻のすぐれた行いを詳しく述べた。明帝は大いにこれを称え、詔して鴻を徴し、召見して『文侯之命』一篇を講説させ、御衣と綬を賜い、公車で廩米を支給して博士と同じ礼遇とした。まもなく侍中を拝し、魯陽侯に封を移された。
史論(華嶠曰)
- 論語は夫子が温良恭倹譲によってこれを得たと称し、譲を行いの第一に置いている。だから試みに論じてみたい。
- 孔子は「太伯は至徳といえよう。三たび天下を譲ったが、民は徳を称えるすべもなかった」と言った。孟子は「伯夷の風を聞く者は、貪欲な者も廉潔になり、気弱な者も志を立てる」と言った。とすれば太伯は「苟くも得ない」という姿勢から出たのであって、そもそも譲ることを意識してはいなかった。だからこそ太伯は賢人と称され、後の人が慕って倣った。
- しかし倣う者が出れば、激越で奇矯な行いが生まれ、取ることも与えることも妄りになる。鄧彪や劉愷が弟に譲って義の名を得、弟には不服のまま名声だけを享受させたのは、義において薄いのではないか。まして国の綱紀にかかわる場でそれを行い、将来の者に妄りな挙措をさせるとすればなおさらである。
- 古の君子は、言葉を立てるのは天下の迷える者を啓くためであり、行いを立てるのは一身を善くするだけでなく後世を訓えるためであった。
- 丁鴻の心を尋ねれば、その本は忠愛にあった。だからこそ最後には悟って義に従ったのである。これによって、彼の譲は他の数世の例とは違っていたと知られる。
春夏 人事と挙賢
- 二月乙未、司空の劉方が司徒に、太常の張奮が司空となった。
- 三月丙寅、賢良方正・直言極諫の士を各一人挙げさせた。
- 六月、初伏の日に関を閉じた。
秋 旱害と張奮の上疏
- 秋七月、京師が旱害に見舞われた。司空の張奮が上疏した。
- その趣旨。近年は続けて凶作で民の食は足りない。今また旱があり、秋の作物は育たず、陽気は尽きようとして日月は迫っている。国は民を本とし、穀を命とする。政の急務であり、憂いの最も重いものである。自分はとりわけ厚い恩を蒙り、力量に過ぎた職を受けて、朝夕憂え恐れている。上奏文では心を尽くせないので、中常侍を通じて口頭で得失を陳べたい、と。
- 帝はただちに引見し、翌日みずから洛陽の官寺に行幸して囚人を審理した。すると大雨が降った。
南匈奴の内紛
- 三月、南単于の安国は左賢王で次の単于となるべき地位にあった。当時、師子はしばしば軽装の兵で塞外に出て斬獲の功を挙げていたので、国中はみな師子を敬い、安国には付かなかった。安国はこれを内心の病とした。
- 匈奴の降人たちは、かつて塞外にいた頃たびたび師子に掠奪されたので、やはり師子を怨んでいた。安国は降人に計略を委ね、師子を図らせた。
- 安国が単于となり師子が左賢王となると、師子は安国の謀を察して密かに備え、会議のたびに召されても病と称して行かなかった。安国はいよいよ憤った。
- このとき中郎将の杜崇が安国のもとへ使いした。安国は心中不平で、上書して崇を告発した。崇は西河太守に命じてこれを差し止めさせ、安国は自ら訴えることができなかった。
- 崇は度遼将軍の朱徽とともに上言した。南単于安国は旧来の胡を疎んじ、新たに降った者を親しみ、左賢王の師子を殺そうとしている。西河・上郡の兵を徴して備えるべきだ、と。公卿の議は崇の意見を容れ、崇は郡兵を発した。
- 南単于は漢兵が動き出したと聞き、兵を挙げて師子を誅そうとした。師子はこれを聞いて衆を率いて曼柏城に入り、単于は包囲して攻め、殺傷はきわめて多かった。
- そこで杜崇と朱徽が兵を率いて向かうと、単于はその配下の胥都侯に殺され、師子が単于となった。
- やがて天子は杜崇と朱徽が匈奴を侵し騒がせたことを知り、二人を誅した。