後漢紀巻第十三 孝和皇帝 永元四年 92年

春 袁安の死

  • 春正月、亀茲王が子を遣わして貢献した。
  • 三月、司徒の袁安が薨去した。当時、天子は幼弱で外戚が権を擅にしており、安は朝会のたび、また朝廷で国事を議するたびに、慷慨して涙を流さないことがなかった。天子から朝中の大臣に至るまで皆安を頼りにしていたので、病没すると朝野は痛惜した。
  • 初め安の妻は早く亡くなり郷里に葬られた。安は臨終に遺令して、宰相の位を占めた身は山陵に陪葬すべきで旧墓に骨を帰すことはできない、もし母が先に祖先の墳墓にいるのなら、鬼神に知覚があれば留まって供養すべきだし、知覚がなければ改葬の煩いも無用だ、と述べた。諸子はこれに背かなかった。
  • 子の袁賞は車騎校尉、袁京は属郡の太守、袁敞は司空となった。袁京の子の袁湯は三公・輔弼の位に至った。

周栄

  • 初め袁安は廬江の周栄を辟召し、語り合って大いに器量を認め、大きな議論のたびに参与させた。竇憲を弾劾する上奏をしたとき、憲の食客の徐齮が周栄を脅して言った。あなたは袁公の腹心となって大夫たちを排し、竇氏に当たっている。刺客が今にも来る。備えておくがよい、と。
  • 栄は「自分は江淮の孤独な書生。先帝の大恩を蒙って宰相の属官に列した。竇氏に害されるならまさに本望だ」と答え、常に妻子に、急に横死しても殯や納棺はするな、この取るに足りぬ身をもって朝廷を目覚めさせたいのだ、と言い聞かせていた。
  • 竇氏が敗れると、栄は召されて顕官となり、尚書・郡守に至った。孫の周景は太尉に至った。

夏 丁鴻の封事と災異

  • 四月丁丑、太常の丁鴻が封事を上った。
  • その趣旨。日は陽の精で、満ちて欠けることがなく君の象である。月は陰の精で、満ち欠けに定まりがあり臣の表である。だから日食は陰が陽を凌ぐこと、月が盛んなのは下の者が驕り満ちることを示す。変異はいたずらに生じるのではなく、それぞれ同類に応じて起こる。
  • 遠く往古を見、近く漢の興起以来を見ても、傾き危うくなる禍はこれによらぬものはない。三桓が魯を専らにし、陳氏が斉を擅にし、六卿が晋を分け、呂氏が漢を覆し、哀帝・平帝の末には宗廟が血食を絶った。いずれも権柄を失い、勢いを人に貸した結果である。だから周公ほどの近親でも、その徳がなければその勢いを行使することはできない。
  • 大将軍の竇憲は身を慎んで自ら節し、僭越はしていない。しかし天下の遠近はみなその意向を恐れて承け、大小の者が風になびくように影のごとく従っている。寵愛が極まれば驕りが生じ、その徴は天に現れる。隠し諱もうとしても、神は象を垂れて示す。近ごろ月が満ちて欠けないのは、大臣が驕り満ちていることの応である。陛下がまだ悟らないので、天は重ねて誡めを示し、日食が起きたのだ。まことに畏れ慎んでその禍を防ぐべきである。
  • 詩に「天の怒りを畏れ、あえて戯れ遊ばず」とある。岩を削り崖を断つ水も細い流れから始まり、雲を突き日を蔽う大木も毫末から起こる。前の事を忘れないことが後の事の明鏡である。この大きな変異に因って過失を正し、天意にかなうようにすべきだ、と。帝は深くこれを納れた。
  • 丙辰、京師で地震があった。

竇氏の横暴と誅滅

  • このころ竇氏は驕り高ぶり、威は海内を震わせた。任用した者はみな名都大郡に配され、勢いに乗じて税を取り立て、争って賄賂を贈り、州郡は風になびくように従い、天下は騒然とした。競って小民を侵し、財物を掠奪し、亭を襲い吏を殴り、婦女を略取し、暴虐は日に日に激しくなって百姓は苦しんだ。
  • また勝手に辺境諸郡へ檄を送り、突撃騎兵で弓に巧みで財力ある者を徴発させ、二千石の官は威を畏れて送らざるを得なかった。司徒の袁安、太尉の任隗および有司がたびたび弾劾を奏したが、いずれも握りつぶされた。
  • 初め、憲の娘婿である射声校尉の郭挙と衛尉の鄧疊、その母と兄が禁中に出入りして不軌を謀っていた。帝は次第にこれを察し、清河王の劉慶と事を図って、慶に外戚伝を探させ、さらに宦官の鄭衆と密かに謀った。衆は速やかに誅すべきだと勧めたが、帝は「憲は外にいる。変事が生じかねないから、今は駄目だ」と言った。
  • この月、憲が京師に還った。帝は太后のことを慮って璽綬を厳重に守らせた。
  • 庚申、帝は北宮に行幸し、公卿百官に詔して執金吾に南宮と北宮を警固させ、詔して憲の大将軍の印綬を没収し、憲を冠軍侯に封じ、竇篤・竇景・竇瓌はみな封国に赴かせた。郭挙と鄧疊は下獄して誅された。
  • 帝は太后のことがあるので獄を徹底させることを望まず、憲らには目付役となる相を選んでつけ、これによって追い詰めた。憲・篤・景はみな自殺し、一族は免官されて本郡に帰された。

張酺の上疏と何敞・班固の免官

  • 河南尹の張酺が上疏した。その趣旨。竇氏の事件は理官に下し、天下とともにその罪を公平に定めるべきだ。そうしなければ後世が実情を知りえなくなる恐れがある。
  • 竇氏の盛時には群臣は皆おもねり、遅れることばかり恐れて、憲を伊尹や呂尚に、鄧夫人を文王の母になぞらえていた。ところが陛下が雷電の怒りを発すると、皆その罪は誅しても足りないと言う。前後でどうしてこれほど食い違うのか。幸い聖朝が明達でその是非を分けている。
  • 夏陽侯の竇瓌はかつて光禄勲であったが、臣と会うたびに節を励まし忠を尽くそうという心があり、賓客を取り締まって法を犯させたことがない。王政には三たび赦す義があると聞く。だから蔡叔が流言したとき、周公はその根本を推し量って誅したのだ。瓌の爵を関内侯に落として京師に還し、忠を尽くして比陽主を養わせ、優遇して厚い徳を示すのがよい、と。
  • 帝は酺の言に感じ、瓌を長沙侯に移した。
  • こうして何敞と班固は免官されて家に帰った。敞は子の代から瓌と親しく、固は竇氏に党していたからである。
  • 初め班固は子供を教育せず、その子らは固の権勢を笠に着て法度を守らず、吏民は苦しんだ。洛陽令の种競が外出した際、固の家奴が車列を犯し、奴は競を罵り辱めた。競は大いに怒ったが竇憲を畏れて事を起こせず、恨みを胸に納めていた。憲の賓客がみな捕縛されると、競はこれに乗じて固を捕らえ、固はついに獄中で死んだ。詔が下って競は責められ、担当者は極刑に処された。

班彪と史書の批評

  • 班固は字を孟堅、班彪の子である。初め世祖が竇融に、西州にいた頃の上奏文はいつも誰と練ったのかと尋ねたところ、融は「みな班彪の作です」と答えた。世祖はかねて彪の名を聞いており召そうとしたが、彪はちょうど茂才に挙げられて令となり、病で免じられた。その後、三公の招きにも病と称して去り、また司徒掾から望都長となった。歴任した二県ではいずれも吏民に愛された。
  • 彪は才が高く文史に専心した。司馬遷の史記は太初以後が欠けており、その後、好事家が多少その事を綴ったが、多くは鄙俗で史記を継ぐに足りなかった。そこで彪は前人の遺事を採り異聞を貫いて後伝数十篇を作り、前の史書を斟酌してその誤りを正した。その概略は次のとおりである。
  • 唐虞三代、詩書の及ぶ範囲では代々史官がいて典籍を司った。諸侯の国にもそれぞれ史があった。だから孟子は「楚の乗、晋の檮杌、魯の春秋、その事は一つだ」と言った。定公・哀公の間、魯の君子・左丘明はその文を論じ集めて左伝三十篇を作り、また異同を撰して国語二十篇と称した。これにより乗や檮杌の事は埋もれ、左氏と国語だけが世に顕れた。
  • また黄帝以来春秋の時代までの帝王・公侯・卿大夫を記録した世本十五篇がある。春秋の後、七国が並び争い、秦が諸侯を併せた時期には戦国策三十二篇がある。漢が天下を定めると、大夫の陸賈が当時の功業を記して楚漢春秋九篇を作った。
  • 孝武の世、太史令の司馬遷は左氏・国語を採り、世本・戦国策を刪り、楚漢と列国の事に拠って、上は黄帝から下は獲麟まで、本紀・世家・列伝・書・表あわせて百三十篇を作った。ただし十篇は欠けている。
  • 遷の記述は、漢の初めから武帝までは功業をよく記している。しかし経伝から摘み取り、数家に分散した事をまとめた部分は粗略が多い。多聞広博を功にしようとするあまり、論議は浅く篤実でない。学術を論ずれば黄老を崇めて五経を軽んじ、貨殖を叙すれば仁義を軽んじて貧窮を恥とし、游俠を尊べば節を守る者を賤しみ俗世の成功を貴ぶ。これが大きな弊害で道を傷つけるものであり、極刑に遭った咎でもある。
  • とはいえ事を述べるのに巧みで、弁じても華美に流れず、質朴でも野卑にならず、文と質が釣り合っている。良史の才というべきである。もし遷が五経の法に依り、聖人と是非を同じくしていれば、ほぼ理想に近かっただろう。
  • 百家の書でさえなお手本とすべきものがある。まして左氏・国語・世本・戦国策・楚漢春秋・太史公書は、今の人が古を知り、後の人が前代を見るための手立てであり、聖人の耳目である。欠かすことはできない。

班固と漢書

  • 班固は九歳で文を作り、五経百家の言で究め尽くさぬものはなかった。学問に定まった師をもたず、章句や訓詁にこだわらず大意に通じるだけだった。情が深く、長所をもって人に驕らなかったので、皆に重んじられた。二十歳の頃に父を失った。
  • 固はこう考えた。唐虞三代は詩書の及ぶ範囲で代々典籍があり、堯の盛時にも典謨の篇があってこそ百王に冠たる徳とされた。漢は堯の運を承けて帝業を建てたのに、六代目にしてようやく史臣がその功徳を追述し、私に本紀を作って百王の末に編み、秦や項羽の列に混ぜてしまった。しかも太初以後は欠けたままである、と。
  • そこで前の記録を採り、聞いたところを綴って漢書を著した。高祖に始まり孝平と王莽の誅に終わる十二代二百三十年、その行事を総括し、五経を貫き、上下に通じて全百篇である。
  • まだ完成しないうちに、明帝の初め、固が私に史記を改竄していると上書する者があった。詔で固は京兆の獄に収められ、家中の書はすべて没収され封じて奉られた。当時、扶風の人・蘇朗が図讖について偽りを述べて下獄し死んだ事件があった。
  • 固の弟の班超は郡に誣告されたことがあり、関に赴いて上書し、固の著述の意図を詳しく陳べた。ちょうど郡も固の書を封じて奉ったので、天子は大いに感心し、召して校書の部署に付け、蘭台令史に任じた。睢陽令の陳宗、前の長陵令の尹敏、司隷従事の孟異とともに世祖本紀および世祖功臣・平林・新市・公孫述の伝二十八篇を作って奏上した。
  • 帝はそこで改めて前の書を完成させた。永平年間から精を研ぎ思いを積むこと二十余年、建初年間にその書は成った。世はこれを大いに重んじ、学者で諳んじない者はいなかった。
  • 郎となってからは親近を受け、賞賜と恩寵は厚かった。章帝は文章を好んだのでいよいよ寵遇され、たびたび禁中に入って読書し、時に連日夜に及んだ。巡狩のたびに賦や頌を献じ、朝廷に大きな議があると固に御前で難問させた。しかし位は郎を超えなかった。
  • 固は学に篤志で著述を務めとしたが、権勢ある寵臣に付会し、文章で身を通そうとする傾きがあった。その叙事は激越でも奇矯でもなく、卑屈でも高ぶりでもなく、豊かでいて雑駁でなく、詳しくて体をなし、読む者を飽きさせない。これも良史の才である。ただ、死節を排し正直を否として、苟くも身を全うすることを通達とするのは、名教を傷つけるものである。史遷の作は皆その父の司馬談に功を推し、班彪もその謀を序して挙げているのに、固がその功をすべて自分のものとしたのは、勝ちすぎというべきではないか。

秋冬 三公の交替

  • 竇氏が廃されると、天子は以前の議論を振り返り、袁安の忠を嘉し、宋由が正しくなかったことを知って、策書で由を免じた。秋七月己丑、太尉の宋由は罪あって自殺した。
  • 八月、司空の任隗が薨じた。字は仲和、任光の子である。初め任光は信都で世祖を助けて侯に封ぜられ、光が薨じると隗が爵を継いだ。
  • 隗は黄老を好み、清静で欲が少なく、功臣の子でありながら行いが衆と異なるとして虎賁中郎将に抜擢され、次第に九卿・三公に昇った。玄黙にして直を守り、名誉を求めなかったが、内面の行いは仁義に適っており、世人はこれに服した。帝もかねて重んじていた。竇憲が政を専らにしたとき朝臣は誰も逆らわなかったが、隗は袁安とともにたびたび異議を唱えて抗した。そこで天子は隗の忠を追慕し、子の任屯を歩兵校尉に抜擢した。
  • 辛丑、大司農の尹睦が太尉となった。太傅の鄧彪が老病で罷めたので、睦が代わって尚書の事を録した。
  • 冬十月己亥、宗正の劉方が司空となった。