春 元服と曹褒の礼制
- 春正月甲子、皇帝が元服した。儀式には新たに定められた礼が用いられた。京師にいる王公列侯には黄金、将・大夫・郎吏には帛、天下の男子には爵を差をつけて賜い、鰥寡孤独で自活できない貧者には帛一匹を与え、五日間の酺飲を許し、獄囚と亡命者には差をつけて贖罪を認めた。
- 曹褒を射声校尉に抜擢した。尚書の張敏は、褒が勝手に礼儀を制定して聖人の学術を乱したのだから削誅すべきだと奏したが、帝はその奏を握りつぶした。しかしこの後、人々は褒の制作を信用しなくなり、また礼儀そのものも移り変わっていったので、ついに施行されずに終わった。
史論(袁宏曰)
- 礼とは心を治め物事に規範を与えるもので、人の道に用いる。その本は愛と敬にあり、まことの心から自然に発して事業に現れる。聖人はその自然に因って人の性情を助け、節度と装いを設け、礼の器物によってこれを表した。そこから尊卑親疎の秩序が生まれ、推し広げ類を及ぼせば天地鬼神の事にまで備わる。
- 古の民は淳朴で、礼もきわめて簡素だった。素焼きの樽と手ですくう酒でも君や親への歓びを尽くせ、土のばちと土の太鼓でも鬼神への敬を致せた。誠をもって供えれば些細な物も重く、心から献ずれば蒲のような粗末な質でも薦められる。これが先王の制礼の本である。
- 中古には損益があって教えは文へ傾いた。金を鋳、土を練って棟宇の制は美しくなり、彩色を集めて衣裳の等級は明らかになり、音を諧えて金石の楽器は多彩になった。簡朴では務めを果たせないから物を備えて用に足し、質素では崇高を示せないから豊かにして事業を成した。これが先王の礼を用いる意である。
- 尊卑長幼の別は動かせないが、器物や服制は時に応じて変わる。小さくは凶作や飢饉に応じて典礼を変え、大きくは王朝交代に応じて礼を改める。用に随って適宜を得、民の目と耳を改めるためであり、これが先王の礼を変える趣旨である。
- ゆえに王者が興れば必ずまず礼を制し、時に応じて損益し、その後に風俗教化が従う。「殷は夏の礼に因る、その損益は知りうる。周は殷の礼に因る、その損益は知りうる」というのはこのことだ。
- 漢が興ったときは乱を収めるのに日も足りず、礼儀制度は欠けたままだった。賈誼は「君臣を立て上下を等しくし、綱紀に秩序を持たせ六親を和睦させるのは、天が設けたものではない。人が修めなければ壊れる。制度を定め礼楽を興すべきだ」と言い、諸侯が道に従い百姓が素朴になった後に、と儀の草案を作ったが、握りつぶされて行われなかった。後の学者である董仲舒・劉向の徒も礼楽の効用を語ったが、その制度を詳しく整えることはできなかった。
- 政治綱紀の礼も、哀楽や死葬の作法も、古とは異なってしまっている。それなのに礼を語る者は必ず古に証拠を求める。古はそのまま用いることができず、事にはそれぞれ適宜がある。だから人はめいめい自分の考えで行い、家ごとに礼が違ってしまう。事が起きてから治めようとしても得失の筋道を立てられないのは、礼が定まっていないことの弊害である。
- 曹褒父子が慨然と発憤したのは、時を得たといえる。しかし褒の撰したものは古式に依るところが多く、実際の運用に適さず、損益の道と食い違っていた。だから廃れて修められなかったのである。
冬 長安行幸と西域都護
- 冬十月、長安に行幸して園陵を祭った。詔して大将軍の竇憲を長安で車駕と合流させた。
- このとき尚書たちは憲に会うと、皆持ち物を置いて万歳を唱えようとした。尚書令の韓稜が「道を枉げて人に仕えるのは臣の身の立て方ではない。そもそも礼には、人臣に万歳を唱える制などない」と言ったので、左右は皆恥じ入ってやめた。
- 十二月、亀茲・姑墨・温宿の国がみな降った。そこで班超を西域都護、徐幹を長史とし、戊己校尉を再び置いた。ただ焉耆と尉黎だけは、以前に都護の陳睦を殺していたため内附しなかった。