春 曹褒、漢礼を撰定する
- 春正月の詔。自分は不徳の身で祖宗の大業を受け継ぎ、朝夕慎み畏れているが先王の業を顕せずにいる。漢は王莽の弊害に遭って礼は壊れ楽は崩れ、旧例を踏襲しているものの経典に合わないものが多い。その理由を知る者は天下にどれほど遠いことか、という趣旨であった。
- 曹褒は嘆じて「昔、奚斯は魯を頌し、考甫は殷を詠んだ。忠を尽くして主君の美を顕すのは、仁に当たっては譲らぬということだ。なぜためらう必要があろう」と言い、再び上疏して礼を制定すべき意義を陳べた。
- 事は三公に下されたが上奏がないままだったので、帝は「諺に、道端で家を建てれば三年経っても完成しないという」と言い、曹褒に南宮の東観で礼の条目を整理させた。旧儀に依り五経を参照し、讖記で検証して、天子から庶人に至るまで百五十篇にまとめさせた。
曹褒
- 曹褒は字を叔通、魯国薛の人。父の曹充は建武年間に博士となり、封禅・七郊・三雍・大射・養老の礼儀を議定した。明帝の即位に際し、充は「漢家は再び天命を受けたのだから封禅の事があるべきだ。礼楽は崩れ絶えて後嗣の法とはならない。五帝は互いに楽を襲わず、三王は互いに礼を襲わなかった。大漢は独自の礼楽を制定すべきだ」と上言した。
- 褒は若い頃から度量が大きく、少年時代から父の学を伝えた。とりわけ礼の事を好み、常に叔孫通が漢のために儀を制したのを慕い、昼夜研究に没頭して、そばに人がいても気づかないほどだった。
- 孝廉に挙げられて郎に任じられ、陳留の圉令に遷った。他郡の盗賊五人を捕らえたとき、上官の馬厳は県に命じて殺させようとした。褒は「人の命を絶つ者は天もその者を絶つ。皋陶も盗みに死刑を定めなかった。昔、管仲は盗人に出会ってこれを公の場に引き上げた。今、上意を受けて殺すのは天心に逆らい、人の意に従うだけで、罰が重すぎる。この者たちを全うさせて自分が罪を負えるならそれが望みだ」と言い、ついに殺さなかった。厳は褒を軟弱だと奏上して免官させたが、百姓は号泣して見送った。
春夏 辺境と刑政
- 三月、護羌校尉の傅育は羌の賊を追って塞外へ出た。
- 夏四月丙子、天下の死罪の囚人の死刑を一等減じ、辺境の守備に徙すこととした。
- 廷尉の郭躬が上疏した。聖恩によって天下の死罪を減じ辺境を守らせるのは、辺境を充実させると同時に人命を重んじるためである。死を免れて生に就き、老弱の家族と再会できて喜ばない者はない。ところが丙子以後に罪を犯した者が非常に多く、重刑に当たるはずである。すでに獄にあった者は更生の恩を蒙ったのに、後から捕らえられた者だけが死刑を受けるのでは不公平である。書に「王道は蕩蕩として偏なく党なし」とある。大恩を等しく及ぼして民に示すべきだ、と。帝はこれを善しとし、ただちに詔してすべて赦した。
- 郭躬は字を仲孫、潁川陽翟の人。父の郭弘は寇恂らの時代に決曹掾となり、弘が裁いた案件では罪に問われた者も恨まなかった。獄を治めること三十余年、郡中で称えられ、東海の于公に比された。躬もまた法に明るいことで知られ、次第に尚書・廷尉に昇った。その判断は憐れみを旨とし、罪を免れた者が非常に多かった。法文の適用が重すぎるもの四十余件を条挙して奏上し、廃止させた。
- 躬の弟の子の郭鎮も知られ、のちに廷尉となって封侯された。子孫も家業を継ぎ、名理をもって重んじられ、三公になった者一人、廷尉になった者八人、刺史になった者二十余人を出した。
夏 三公の交替と瑞祥をめぐる議論
- 六月戊辰、司徒の桓虞が策書によって免じられ、司空の袁安が司徒に、光禄勲の任隗が司空となった。
- 元和以来、鳳凰・麒麟・白虎・黄龍・鸞鳥・嘉禾・朱草・三足烏・連理木などの異が数百件も現れ、数え切れなかった。皆これを福祥と呼び、瑞応と考えた。
- 何敞は太尉宋由の府に辟召されており、宋由と袁安に言った。瑞応は政治に応じて生じるものだ。昔、海鳥が魯に止まったとき臧文仲がこれを祀り、君子はそしった。鴝鵒が巣を作ったのは陽を奪う兆しであり、孔子は麒麟を見て泣き「わが道は窮まった」と言った。その後、季氏が君を追い出す変事が起こり、孔子は両楹の間に棺を置く夢のとおり亡くなった。今、尋常でない鳥獣や品物が一つや二つでなく現れているのは、鳳が屋根に舞い怪しい草が庭に生えるような事態で、よく見きわめねばならない、と。宋由と袁安は敢えて応じなかった。
秋 巡幸と阜陵王の復位
- 秋七月、斉王の劉晃が母に不孝であった罪で蕪湖侯に降格された。
- 壬戌、罪のない囚人については辺境の守備を減免させた。
- 八月、九江に行幸した。戊子、湘に行幸して沛献王を祭った。九月、彭城と寿春に行幸し、阜陵侯の劉延に寿春で行幸に合流するよう詔した。
- 帝は延とその妻子を見て痛ましく思い、詔を下した。周は千八百国を封じ、その半分は姫姓で、王室の支柱とした。自分が江淮を巡狩したのは阜陵で王と会うためだったが、王の志気は衰え体つきも昔と違っており、恐れを覚えた。そこで阜陵侯を再び阜陵王とし、四県を加増して以前と合わせて五県とする、と。阜陵は低湿なので都を寿春に移させ、銭千万と安車一乗を加賜し、夫人と諸子にも差をつけて賜与した。
冬 北匈奴討伐の議
- 冬十月、北匈奴が鮮卑に討たれ、降伏してくる者が十余万に及んだ。
- 南単于が上言した。北虜が分裂し人民が離散している今こそ兵を出して北庭を破り、南北の兵を一国にまとめ、漢家に永久に北方の憂いをなくさせるべきだ。自分は愚かで浅慮、兵も少なく外内を防ぐには足りないので、執金吾の耿秉、度遼将軍の鄧鴻、辺境諸郡の太守と力を合わせ、天の時に乗じ聖帝の威神によって一挙に平定したい、と。
- 帝は許そうとしたが、尚書の宗意が上疏した。匈奴は北方に居住し、砂漠に隔てられ、礼儀を賤しみ衣食も風俗も異なる。天が別に生んだ一種族である。漢の興起以来、幾度も兵を発して攻めたが、得るところは常に被害を償うに足りなかった。呼韓邪単于が藩臣となったときも、中国は迎送の労で疲弊した。光武皇帝は自ら甲冑の苦難を経験して天地の道理を深く弁え、匈奴が降ってきたのを機に単于として立て、羈縻して養い、辺民を休息させた。それから四十余年になる。今、鮮卑は威霊に従って北単于以下万を数える首級を挙げ、中国は座したまま功を収めて百姓はその労を知らない。漢の興起以来の功業でこれ以上のものはない。ここで南単于を塞外に帰すのは、虎を檻から出すようなものだ。必ず兵を起こして利を求め、内では漢を頼りにし、その事態は次第に広がる。急がずともよいのに費用をかけ、やむを得ぬ事情もないのに万全の計を捨てて、必ずしも得られぬ功を求めるのは、賢明とは思えない、と。
- 帝は執金吾の耿秉に諮り、秉は聴くべしと答えた。しかし出師の前に帝は病に臥した。