後漢紀巻第十二 孝和皇帝 章和二年 88年

春 章帝の崩御と幼帝の即位

  • 春二月壬辰、帝は章徳殿で崩御した。遺詔で、寝廟を建てず光武帝の先例に従うよう命じた。
  • その日のうちに太子が即位した。年は十歳。太后が朝政に臨んだ。

史論(袁宏曰)

  • 太后が朝政に臨むのは古の制ではない。易に「地の道は成すことなく、代わって終わりを全うする」といい、礼には婦人の三従の義がある。とすれば后妃の務めは、天を敬んで承け、中饋を慎み務めることに尽きる。
  • ゆえに人の母としての尊さがあっても国に令することはできず、必ず臣子に従うところがある。それが柔の性である。男女の別は自然の理であり、君臣が相談し諮るのは物事の通じる道筋である。
  • 多くの官司がそろって職を分担し、必ず君に伺ってから事を行う。だから朝会や饗宴の礼があり、膝を進めて意見を問う場がある。これは内と外の分であって、同一にはできない。
  • 古の王者は必ず四方の門を開き四方の耳目を広げ、賢者を親しく用いて意見を聴いた。天下の才を通じさせ、公平無私を万民に示すためである。
  • ところが母后が朝政に臨めば必ず母方の一族が権を専らにする。賢者を遠ざけて親族を立てようとしてのことではなく、号令を取り仕切る者が外戚に託されるからで、これは天の与えた分をたがえ、私をもって民を教えることになる。政治の乱れはここから始まり、家の教えが盛衰に関わってくる。
  • 百官を建て廃れた官を修め、冢卿を置いて重責を委ねるべきである。王が薨じて君が幼いときは、百官が執務し、みな己を抑えて冢宰の指示を仰いだ。それによって公道が大いに明らかとなり、人は自ら役割を果たし、上下ともに職務に励んで、名分と器物の秩序は固まった。これが三代の道である。

春 章帝の埋葬と輔政体制

  • 三月癸卯、孝章皇帝を敬陵に葬った。
  • 庚戌、太后の詔。皇帝は幼年で孤独のうちに喪に服しており、自分がしばらく徳政を助ける。先例を守る時期には必ず内輔が要る。故太尉の鄧彪は三たび譲ってその徳はいよいよ高く、海内が仁と認めている。彪を太傅とし、関内侯の爵を賜い、尚書の事を録させる。百官は己を抑えてその指示を仰げ、と。
  • こうして侍中の竇憲が機密を掌握し、その三人の弟も並んで高位に列した。

竇憲の専権

  • 帝は幼く太后が朝政を執る中、竇憲は外戚として政を執り、経学の名声を得ようとして上疏した。天下の運命は天子にかかっており、その善は習うところによる。習慣が知恵とともに伸びれば功があり、教化が心とともに成れば忠の道が本性のようになる。昔、周の成王が襁褓の幼少にあったとき、周公が前に、史佚が後に、太公が左に、召公が右にあり、内外の政を聴いて四聖がこれを支えた。だから思慮に落ち度がなかった。孝昭皇帝は八歳で即位し、大臣が輔政するとともに、韋賢・蔡義・夏侯勝といった名儒を選んで禁中で詩書を授けさせた。今上は天与の資質があり厳しく躾けずとも成るが、至尊の徳をもって小臣と差し向かいで対するだけでは、聖心を発揚し輝きを増すことにならない。屯騎校尉の桓郁は少年の頃から学を受け、白髪になっても倦まず、経は人の師、行いは儒の宗である。かつて帷幄に侍して先帝に教授し、父子二代にわたって帝師となった。長楽少府として帝に経を授けさせるのがよい、と。
  • こうして桓郁は長楽少府となり、禁中で講じた。一年余りで太常に遷った。郁は二代の帝に授け、恩寵は極めて厚く、家業は伝わって太傅にまで至った。
  • 竇憲は性質が偏狭で気短く、しばしば自ら窮地を招いた。輔政の座に就くと威福を思うままにし、わずかな怨みも必ず報復した。
  • 以前、憲は尚書の陳寵を恨んでおり、喪事にかこつけて陥れようとした。黄門郎の鮑徳は憲の弟の竇瓌と親しく、陳寵が身を全うできまいと案じて瓌に説いた。寵は先帝に仕えて厚く任され、年月からいえば功労の報いを受けるべきであり、才能からいえば重用の賞を受けるべきである。些細な事柄で輔政の徳を傷つけてはならない、と。
  • そこで憲は寵を広漢太守として出した。寵は強きを抑え弱きを助け、訴訟をする者もいなくなった。かつて広漢の城南では鬼の泣く声が府中まで聞こえ、それが数年続いていた。寵が現地を調べると埋葬されない遺骨が多くあったので、嘆いて「もしやこれが原因か」と言い、県に命じて収斂し埋葬させたところ、泣き声はやんだ。
  • このころ斉の殤王の子である都郷侯の劉暢が、章帝の喪に駆けつけて上書し、返答を待っていたところ、竇憲は刺客を送って暢を殺させた。
  • 太尉掾の何敞は自ら出向いて変事の状況を調べたいと願い出たが、太尉の宗由は許さなかった。敞は強く主張した。春秋では三公を宰といい、統べないものはないという意味である。暢は宗室の近親で封土を受けた藩臣であり、国の喪に駆けつけて上書し、返答を得ぬうちに城内で殺害された。国の綱紀を犯し、列侯を勝手に殺す罪は大逆に次ぐ。しかも法を執行すべき吏は誰も追捕しようとしない。明公は宰相の位にありながら、これも顧みないのか。四方がこれを聞いて京師をどう言うか。昔、陳平は宰相について「外は四夷を鎮め、内は諸夏を撫し、卿大夫にそれぞれふさわしい地位を得させる」と言った。今、列侯が私的に殺されるのは撫するとはいえず、京兆尹が職務を放棄しているのはふさわしいとはいえない。綱紀が損なわれた責任は小さくない、と。そして車を駆って出発した。司徒と司空もこれを聞いて急いで掾吏を派遣した。
  • 詔書は暢の弟の劉陽を疑い、御史を斉に遣わして取り調べさせようとした。尚書令の韓稜は、姦悪は京師にあるのだから近くを措いて遠くを問うべきではないと考えた。詔書で稜を派遣しようとしたが、稜は頑として従わなかった。のちに事件が発覚すると、憲は誅殺を恐れ、匈奴討伐を自ら願い出て、その功で死を贖おうとした。

夏 旱害

  • 夏五月、京師が旱害に見舞われた。

冬 匈奴出兵と諫争

  • 冬十月、侍中の竇憲が車騎将軍となり、執金吾の耿秉とともに三万騎で匈奴を征討することになった。
  • 司徒の袁安は諸公卿とともに朝堂に参じて諫めた。今、国家の財政は不足しており、匈奴は辺塞を侵していないのに、軍を疲れさせて遠征し、砂漠越えの苦難を冒し、万里の彼方に功を求めるのは社稷の計ではない。兵は凶器であり、聖王が重んじて慎んだものである、と。しかし容れられなかった。
  • 太尉の宗由は署名せず、公卿も次第に諫言をやめたが、袁安だけは司空の任隗とともに固く争い、前後十度余りも上奏した。それでも聴かれなかった。
  • この時、諫める者は非常に多く、尚書僕射の郅寿は下獄させられた。
  • 御史の何敞が上疏して諫めた。聖主は直言の路を開き、忌憚なく言わせる詔を下し、それでも下情が届かぬことを恐れて歌謡の言葉まで聴いたと聞く。だから天と人がともに応じ、福を無窮に伝えたのである。尚書僕射の郅寿が諸尚書と匈奴討伐を論じた廉で下獄させられ、大不敬として弾劾されたのを見た。寿は機密を預かる近臣であり、匡正輔弼を職務とする。朝廷に過ちがあっても黙って言わなければ義に背き恩に背くことになり、その罪こそ誅に当たる。今、寿は衆に逆らって正論を述べ、宗廟を安んじ国家の永福を図ろうとした。どこに私心があろうか。もし寿が誅されれば、天下は寿が忠直だったがゆえに誹謗の罪を着せられたと考えるだろう。和気を損ない陰陽に逆らうことになり、まことに認められない。だからこそ厳威を犯し、身の破滅も顧みず、死を賭して盲言するのは寿のためである、と。こうして寿は免官にとどまった。寿は郅惲の子である。
  • 竇憲はついに出師した。侍御史の魯恭が上疏して諫めた。天が人を愛するのは父が子を包むようなものだ。一つの物でも所を得なければ天気は乱れる。まして人ならなおさらである。だから民を愛する者は天下から愛される。夷狄は四方の異質な気であり、しゃがみ込んで無作法にふるまい、鳥獣と変わらない。中国に雑居させれば天の気を乱す。だから聖王が夷狄を統御するには羈縻して関係を絶やさぬ程度にとどめ、中国を損なうことをしなかった。今、辺境は幸い無事なのだから、仁を修め義を行い、無為を尊び、家ごとに人ごとに足りて産業に安んじさせるべきだ。人事が下で整えば陰陽は上で和し、その後には祥風と時雨が遠方まで覆い、夷狄は徳を慕って幾重にも通訳を介してでもやって来る。願わくは陛下は聖恩をとどめ、二将を召還し、士卒を休ませて天下の心に順ってほしい、と。
  • こうして竇氏の横暴は甚だしくなったが、司徒の袁安はそのつど弾劾を奏上した。帝は聴き入れなかったものの、権勢ある外戚も安を厳しく憚った。