夏 燕然山の勒銘と竇氏の栄達
- 夏六月、竇憲と耿秉は朔方から塞を出て三十里進み、敵の首を斬って大きな戦果を挙げ、燕然山に銘を刻んで帰還した。
- ただちに憲は大将軍を拝し、武陽侯に封ぜられて食邑二万戸を与えられ、耿秉は筭陽侯となった。憲は辞退して受けず、軍を京師に還した。
- 竇篤が衛尉、竇景が執金吾、竇瓌が光禄勲となり、太后の母である比陽主を長公主に格上げして、比陽の湯沐邑二千石を加増した。
- 憲らは驕り奢って法度を守らなかったが、竇瓌だけは恭謙倹約で身を守った。
何敞の封事
- 尚書の何敞が封事を上った。その趣旨は次のとおりである。
- 忠臣が世を憂えて権臣をそしり、身を殺し家を滅ぼしてまでそうするのはなぜか。君臣の義が重く、情として抑えきれないからである。国が危うくなり家が凶事に向かうときは必ずその由来があり、はっきりと分かるものだから、見きわめねばならない。
- 昔、鄭の荘公は弟の段叔の禍を防がなかったため、後になって際限なく広がった。今、竇憲兄弟は朝廷で尊ばれ、百姓を虐げ、殺戮が満ちあふれている。人々は「段叔や州吁が漢に生まれようとしている」と言っている。
- 以前から便宜を上奏し得失を陳べてきたのは、憲らを妬んでのことではない。細く続く流れを断ち、しみ出る水をせき止めようとしたのだ。上は皇太后が文母の称号を損なわず、陛下に教えを誤ったという議論が及ばぬように、下は憲らがその福を保てるようにと願ってのことである。
- 奴僕の身分の者でも、上は主人の父を安んじ下は主人の母を全うしようと謀れば厳しい怒りを免れない。まして卑微な自分が愚かな忠を尽くそうというのだから、なおさらである。それでも累世の恩を蒙り、機密を預かる職にある身として、厚い徳を思えば我が身を忘れる。言えば必ず族滅されると知りながら、禍が来るのを黙って見ているに忍びない。だからこそ肝胆を書き写し、愚かな心情を申し述べる。
- 駙馬都尉の竇瓌は忠孝で主君を愛し、最もよく身を修めている。近ごろ瓌は自ら申し出て、家の権勢を抑え、身を退けて賢者に譲りたいと言っていると聞く。その意に従うべきである。それこそ宗廟にとって最善の計であり、竇氏にとっても大きな福である。
- 何敞の言葉は切実で率直だったので、憲らに深く怨まれた。済南王の劉康は光武帝の子で最も尊重されていたが、驕奢がはなはだしかった。そこで敞は済南王太傅に左遷された。
樂恢の死
- 司隷校尉や司空の蔡某、河南尹の王調、洛陽令の李阜らはみな竇氏の党で、憲の権勢を笠に着て法を枉げ、思うままに振る舞った。
- 尚書僕射の樂恢は蔡某らの免職を奏請した。表向きは京師の綱紀を清め、内実は外戚を締めつけようとしたのである。このために憲らに滅ぼされることになった。
- 竇瓌は常々恢を訪問しようとしたが、恢は先に人をやって断り、交際を絶った。憲兄弟は恢が自分たちと異なる立場を取るのを怒り、常に陥れようとした。
- 恢の妻は「古人には身を全うする道があった。なぜ言葉によって怒りを買う必要があるのか」と諫めたが、恢は「どうしてただ飯を食らって人の朝廷に立っていられようか」と嘆じ、上疏した。
- その上疏の趣旨。百王の失敗はいずれも陰が盛んで陽を凌ぎ、権が下に移り、大臣が朝政を専らにして勢いが公室から離れたことによる。君の徳が明らかであるのに臣下が隙をうかがい、君主が権柄を一手にして社稷が傾いた例はない。先帝は早く天下を去り、まして陛下はまだお若い。今、諸々の母方の伯叔が政を執り、外戚が朝廷に満ちているのは、王室を安んじ天下に範を示すやり方ではない。天地が交わらなければ生きとし生けるものは若死にし、君臣が序を失えば万民が災いを受ける。政治の失敗を救わなければ、その弊害は測り知れない。今の急務は、上は義によって自ら断ち、下は謙によって自ら分をわきまえることである。四人の舅氏が爵土を子孫に保ち、皇太后が永く宗廟に恥じずにいられるなら、それこそ上策である。
- 上奏は取り上げられなかった。恢は骸骨を乞い、詔で騎都尉に任じられた。憲は郡県に意を通じて恢を迫害させ、恢はついに毒を飲んで死んだ。天下はこれを聞いて皆、恨みに思った。
樂恢の人柄
- 樂恢は字を伯奇といい、京兆長陵の人。父が吏であった時、県令に罪を得て殺されようとした。恢は十二歳で県の役所の門外に伏し、昼夜を分かたず泣き続けた。令はその孝行を嘉して父の罪を赦した。
- 恢は博士の焦貺に師事した。貺が河東太守となると恢も任地に随ったが、庵に閉じこもって学問に専心し、掾吏と交わらなかった。のちに貺が事件で取り調べを受け、門下の書生はみな投獄されたが、恢は潔白であったので免れた。
- 恢は人となり廉潔で気概が強く、衡陽侯の陰就が聞き及んで礼を尽くして招いたが、まったく返事をしなかった。
- 杜陵の楊正はかつて恢を悪しざまに言ったことがあったが、恢はその楊正の子を孝廉に推挙した。
- 恢は潁川の安王と親しく、その安王が上書して巴郡太守の地位を得ると、使者を遣わして恢に手紙を寄越した。恢はそれを受け取らず、「主君に取り入って禄を求めるのは平生の操ではない」と答えた。旧悪を根に持たず、栄達のための交際を恥じるのは、いずれもこの類であった。
何敞の治績
- 何敞は済南王の傅となると、心を尽くして補佐し導いた。一年余りで汝南太守に遷った。
- 敞は俗吏が苛酷な取り締まりで名誉を求めるのを常々憎み、政治は寛大と調和を旨とした。立春の日には督郵を府に呼び戻し、改めて吏を遣わして属県を巡視させ、孝行を顕彰し仁義の人を挙げた。これによって郡中は和合し、百姓も感化されて、老母を養うために帰郷したり財産を譲り合ったりする者が数百人に上った。
秋 会稽山の崩壊
- 秋七月、会稽山が崩れた。五行志は劉向の説を引いて次のように述べる。山は陽であって君を表し、水は陰であって臣を表す。君の道が崩れ壊れて百姓が居場所を失う兆しであり、竇太后の摂政と竇憲の専権に応じた現象である。