後漢紀巻第十二 孝章皇帝 元和三年 86年

春 太尉鄭弘の死

  • 三月丙寅、太尉の鄭弘が薨去した。丁卯、宗由が太尉となった。
  • 鄭弘は字を巨君といい、会稽山陰の人。曾祖父の代に斉から山陰に移った。博士の焦貺に師事し、門下は数百人いた。明経に挙げられようとしたとき、貺の妻が「鄭生には卿相の才がある。この推挙にふさわしい」と勧め、貺もそれに従った。
  • 楚王英の謀反事件で天下の名士が誣告されたとき、河東太守だった焦貺も楚の事件に連座し、護送の途上で病死した。妻子は詔獄に繋がれ、何年も拷問を受けた。旧知の者はみな姓名を変えて災いを避けたが、鄭弘だけは髪を剃り鑕を負って貺の無実を訴え出た。帝は感じ入って怒りを解き、家族を放免した。
  • 弘は貺の柩と妻子を陳留まで送り、葬儀を済ませてから郷里に帰り、郷嗇夫となった。太守の第五倫が管内を巡視して弘に民政の得失を尋ねたところ、その答えが明晰だったので大いに感心し、督郵に抜擢した。孝廉に挙げられ、次第に尚書僕射に昇った。
  • 帝が、三河・三輔から尚書・御史・孝廉・茂才を選び、他郡からは選ばないようにしたいと尋ねたとき、弘は「虞舜は姚墟に出、夏禹は石紐に生まれた。二聖がどうして三輔から出ましょうか。陛下はただ有司に明確に命じて人材を得させればよいのです」と答え、帝はこの言を善しとした。
  • 当時、烏孫王が子を入侍させてきたので、帝はその使者に返礼すべきかを弘に尋ねた。弘は「烏孫は先に大単于に攻められ、陛下は小単于を遣わして救わせたのにまだ賞していません。今、烏孫に返礼すれば、小単于は恨むのではありませんか」と答えた。帝は弘の議を侍中の竇憲に諮ったところ、憲は「礼には往来があり、易には往いて復らざるはなしとある。天地の道理です」と答えた。帝は結局烏孫の使者に返礼し、小単于は憤って金城郡を攻め、太守の任昌を殺した。
  • 帝が「先に君の議に従わなかったが、果たしてこの通りになった」と言うと、弘は「竇憲は姦臣です。少正卯のような行いがありながら、まだ誅されていません。陛下は先にどうしてあの者の議を用いられたのですか」と答えた。
  • 弘は大司農を経て太尉となり、しばしば竇憲の権勢が強すぎ、海内で権を振るっていることを痛切に上奏した。憲はこれを容れられず、弘が奏事を漏らしたと訴え、弘は詰責されて印綬を没収された。骸骨を乞うたが許されず、病が重くなると上書した。
  • その上書は概ね次のようなものである。自分は田舎者で無学、寸功もないのに大恩を蒙って三公に登り、夜中も足を折る戒めを恐れてきた。愚かで薄才ゆえ国家に益もなく、身を殺しても責めを果たせない。だからこそ付和雷同せず竇憲の姦を指摘したが、機密が漏れたとされ、言えば災いが身に及んだ。竇憲の悪は天地に貫き、毒は八方に流れ、暴虐は四方に聞こえ、海内は疑い惑い、賢愚を問わず憎んでいる。憲はいかなる術で主上を惑わすのか。流言が飛び交うのは嘆かわしい。田氏が斉を簒い、六卿が晋を分けた例は漢にとって遠い話ではなく、はっきり見て取れる。陛下は天子の尊位にあって万世の祚を保つべきなのに、累卵の危うきを顧みず讒佞の臣を信じ、存亡の機を計らない。自分は病弱で命は旦夕に迫るが、死んでも忠を忘れない。願わくは陛下は堯舜のような君となり、四凶の罪を誅して人と鬼の憤りを晴らしてほしい、と。
  • 帝は上奏を見て太医を遣わして弘の病を診させた。弘は臨終に際して賜り物をすべて返し、妻子には葛巾と布衣で葬り、素木の棺に納めるよう命じた。
  • もともと弘は第五倫に吏として推挙された身であり、のちに二人とも三公になったので、当時これを栄誉とした。

何敞の諫言と孔僖の獄

  • この頃、続けて凶作だったにもかかわらず、諸王はみな京師に留まり、賜与が過分であった。太尉掾の何敞は太尉の宗由に説いた。礼では一穀が実らなければ衣服を減らし膳を撤し、五穀が実らなければ祭祀をやめ乗馬を放牧に出す。天下に飢寒の者があれば自分のせいと考えるべきだ。近年は水害と旱害で民は収穫を得られず、辺境や外域では妻子を捨てて路頭に迷い、内地でも公私ともに窮している。今こそ節約すべき時なのに、恩沢のもと賜与は度を越し、臘の賜与で王侯以下に国庫を傾けていると聞く。明君は制度に従って賜い、忠臣は限度をわきまえて受けるものだ。三公の位は重く責めも深く、上は綱紀を正し下は民を安んずべきで、無難に過ごすだけでは済まない。まず自ら正して手本を示し、受けた賜与を返上し、そのうえで得失を陳べ、王侯を封国に帰らせるよう条奏すべきだ、と。
  • 孔僖と崔駰はともに春秋を学んでいた。呉王夫差の故事を語っていたとき、僖は書物を置いて「これこそ龍を描こうとして描けず、かえって狗になった類だ」と嘆じた。駰は「昔、孝武皇帝が天子となったのは十八歳のとき。聖なる道を篤く信じ先王を師とし、五六年の間は文帝・景帝に勝るとまで称された。しかし後には放恣となり、以前の善を忘れた」と言った。僖は「書物にはそういう例が多い」と応じた。
  • 隣室の書生・梁郁が遠くから話に加わり、「武帝もまた龍を描いて狗になった口か」と言った。僖と駰は黙って答えなかった。郁は怒って恨み、密かに上書して、駰と僖が先帝を誹謗し世事を風刺していると告発した。事は有司に下され、駰は出頭して詰問を受けた。
  • 僖は上書した。誹謗とは、事実がないのに虚偽の罪を着せることをいう。孝武の政治の善悪は漢の史書に日月のごとく明らかであり、事実をありのまま述べただけで虚偽の謗りではない。帝王が善を行えば天下の善はそこに帰し、善からざれば天下の悪もそこに集まる。いずれも自ら招くことで、他人を責められない。陛下の即位以来、政教に過ちはなく徳沢も加わっており、それは天下がともに見ている。臣らがどうして風刺などしましょうか。仮に言ったことが正しければ朝廷が改めるべきことであり、正しくなければ王者が包容すべきことである。陛下がその根本を推し量らず私憤を逞しくすれば、臣らが死んだのち天下は見方を変え、これによって陛下の心を推し量るでしょう、と。
  • 帝はもともと罪に問う気はなく、駰らの意図も分かっていたので、僖の上奏を得ると「問うな」と命じた。
  • 僖は学才によって郎となり、東観で校書し、図讖は聖人の書ではないと上言した。崔駰の子の瑗、瑗の子の寔もみな才と文で名を顕した。

冬 西羌の侵入

  • 冬十月、西羌が張掖・隴西・金城を侵した。護羌校尉の傅育が兵を率いて討った。