後漢紀巻第十一 孝章皇帝 建初七年 82年

春正月・諸王の来朝と東平王蒼への礼遇

  • 春正月、沛王・東平王・中山王・東海王・琅邪王・広陵王・榆郷侯・東郷侯が来朝した。中謁者に乗輿の衣服と太官の珍膳を持たせ、蒼を郊外に迎えさせた。
  • この時、諸王の邸にはあらかじめ金帛や牀帳を賜って充実させ、車駕が自ら見回った。
  • 天子は蒼を先に到着させて特別の礼で遇そうとし、滎陽令に詔して、東平王が到着したらすぐ知らせよと命じた。折しも蒼が諸王とともに滎陽に到ったので、大鴻臚に節を持たせて郊外に迎えさせた。
  • 詔で沛王・東平王・中山王は拝礼の際に名を称されないこととし、天子が自ら答拝した。その寵栄は古の典礼に加えるほどのものであった。
  • 宮殿に入るたびに宮中の奥まで迎え入れ、廡下に降りて会した。天子が座しているとき皇后が奥で親しく拝したこともあり、蒼らは皆身を屈めて辞退し、落ち着かなかった。

東平王蒼の帰国

  • 一年余りして大鴻臚が諸王を帰国させるよう奏した。天子は蒼を留めようとし、その娘三人をいずれも公主とし、秘蔵の書物と図巻を賜った。
  • 有司が再び帰国を奏すると、天子は自ら書いて蒼に与えた。骨肉の情は天性のものである。かねて王を長く煩わせ、時が経ってしまったと思っている。大鴻臚の奏に署名しようとしたが筆を下すに忍びず、小黄門に授けた。心は離れがたく、痛ましくて言葉にならない、と。
  • 蒼が発つと天子は自ら送りに臨み、涙を流して別れた。さらに乗輿の御用の品・珍宝・車馬・銭布を賜り、その額は億万を数えた。詔で使者を遣わして起居を尋ねさせ、その使者は道に行き交った。

史論(袁宏曰)

  • 章帝が父兄を尊び親戚に篤かったのは、心の底から発したもので外から入ったものではない。三代の道といえどもこれに勝るものがあろうか。
  • 試みに言えば、足りなければ助け合い、助け合えば足り、足りれば求めることがなく、求めることがなければ疎遠になる。これが常人の性である。
  • なぜそう分かるのか。一日の食に糟糠さえ足りなければ、壺一杯の食べ物の贈り物にも隣人と親しくなる。足りないものを甘く感じるからである。王侯として貴く国家を富み持ち、声色の楽しみに浸って親戚を忘れるのは、余りある境遇に安んじるからである。
  • 足りない境遇にあれば壺の飯や豆の羹でも隣人を忘れず、余りある境遇に安んじれば天上の広楽があっても必ず親戚を忘れる。勢いがそうさせるのである。
  • ゆえに親戚をめぐる弊害は常に富貴の側にあり、貧賤の側にはない、と分かる。
  • 同じ木陰で憩えば親しく応じ合うのは一度の出会いの歓びであり、同じ親から生まれても離れて住めば互いに忘れるのは、接しないことの患いである。
  • 姿と心が通わなければ、兄弟親戚であっても胡と越のように隔たる。言葉と表情で交われば、道を異にする者の間にさえ慕う心が生ずる。
  • こう見ると、王侯貴人は余りある勢いに乗り、互いに接しない場所にいて思うままに欲するのだから、恩情が満ちて六親が和睦することは稀である。
  • 古の聖人はこれを懼れ、倹素の道を明らかにし謙恭の義を掲げた。富める者にその欲を極めさせず、貴い者にその高さを広げさせなかった。里の老人でさえ慈しみ合うのだ、まして兄弟においてはなおさらである。
  • 朝会でその儀を整え、宴でその親しみを深め、聘問でその意を通わせ、玉帛でその心を伝える。ゆえに欲は満たされないままに和愛が生じ、情意が交わって恩義が明らかになる。ああ、国家を保つ者はどうして親しまずにいられようか。

夏六月・太子の廃立と宋貴人の死

  • 夏六月甲寅、皇太子の慶を廃して清河王とし、皇子の肇を皇太子とした。
  • 初め宋貴人が寵を受けて太子の慶を生んだ。折しも竇后の寵が盛んで、心に貴人を憎み、外では兄弟に宋氏の些細な過ちを探させ、内では御者に貴人を見張らせた。
  • 貴人が病んで生の菟を欲しがり、実家に求めさせたことがあった。竇后はこれを呪詛のためだと誣告し、天子は信じた。貴人の姉妹を丙舎に移し、小黄門の蔡倫に取り調べさせた。竇后が取調官をそそのかし煽ったので、すべて巫蠱の事件に仕立てられ、暴室に送られた。二人の貴人は同時に薬を飲んで死に、あわせて濯龍に葬られた。
  • 貴人は扶風平陵の人で、その先祖は恵将軍の宋昌の後裔である。父の陽は栄達に恬淡で仕官を望まず、ひたすら親に仕えて和やかに養った。陽には娘三人があり、選ばれて掖庭に入った。下の貴人が太子の慶を生み、陽は議郎を拝した。
  • 二人の貴人が死ぬと陽は免ぜられて本郡に帰り、幽閉された。陽は人となりが仁厚で、当時、助命を請う者が多かったので免れることができた。

秋冬の行幸と功臣の後裔の顕彰

  • 秋九月、河内・魏郡に行幸した。辛卯、天下の囚人に差を設けて減刑する令を出した。
  • 冬十月、長安に行幸して園陵を祀った。天子は奉車都尉の韋彪を召して三輔の旧例を尋ねた。彪は答え終えたのち、旧都を巡視されるにあたっては先帝の功臣とその子孫を登用すべきだと述べた。天子は嘉して容れ、ただちに蕭何・曹参・霍光の後裔を列侯に封じ、彪を鴻臚卿に抜擢した。

韋彪の経歴

  • 韋彪は字を孟達といい、右扶風平陵の人である。高祖の韋賢、曾祖の韋玄成はいずれも丞相の位に至った。
  • 彪は父母が没すると三年間廬を出ず、痩せ衰えて骨と皮になり、数年の治療でようやく起き上がれた。その至行で知られ、孝廉に挙げられて郎中となった。教授を仕事とし、貧に安んじ道を楽しみ、栄達に恬淡であった。三輔では老儒から後学に至るまで彪を慕わない者がなかった。
  • 明帝が彪の名を聞いて詔で謁者を拝し、車馬と衣服を賜った。しだいに昇って尚書、魏郡太守となった。今上が即位すると病により再び議郎となり、左右中郎将・長楽衛尉に遷った。しばしば政事を述べたが、いずれも寛厚を旨とするものであった。
  • 彪は続けて上疏して引退を願い出た。天子は彪の礼譲を重んじて奉車都尉に任じ、秩を中二千石とし、賞賜と礼遇は親戚と同等であった。

韋彪の選挙論と晩年

  • この頃、上申する者の多くが、郡国の推挙が功績の順によらず、虚名を養う者ばかりが進むので、職を守る者はますます怠り吏の政務が衰えている、と言った。韋彪が議した趣旨は次のとおり。
  • 明詔は民を憂え労い、細やかに察して昼夜を措かず、恩を垂れて選挙に必ず人を得ようと務めておられる。国は賢を本とし孝を行いとする。孔子は、親に仕えて孝であるゆえに忠は官に移せる、と言った。ゆえに忠臣を求めるには必ず孝子の家に求めるのである。
  • 人の才と行いを兼ね備えることは少ない。だから孟公綽は趙・魏の家老としては優れていても滕・薛の大夫には向かない。
  • 忠孝の人は心の持ち方が厚きに近く、法術を鍛えた人は心の持ち方が薄きに近い。三代が直道をもって行われたのはここにあり、要はどう磨くかにかかる。
  • 士は磨かれずとも吏の職において行いがあり、優れた素質で高い者を家柄だけで取ってはならない。しかし要は二千石を選ぶことに帰する。二千石が賢明であれば、推挙は皆その人を得るのである。
  • ほどなく彪は再び病と称して家に帰った。布帛百匹・穀三千斛を賜った。彪は清廉倹約で施しを好み、俸禄や賜物を一族に分け与え、家に余分な財産がなかった。著書十二篇があり、『韋卿子』と号した。