春正月 東平王蒼の死
- 春正月壬辰、東平王の劉蒼が薨去した。以前から蒼が病床にあったとき、章帝はその容態を案じ、街道に駅馬を配置して病状の増減を逐一報告させていた。訃報が届くと帝は悲嘆を抑えきれなかった。
- 帝は東平国に詔して、蒼が建武年間以来に奉った上奏文と、蒼の作った詞賦をすべて書き写して封じ、一片たりとも欠かさぬよう命じた。
- 司空の第五倫は、帝の哀悼が止まないのを見て、東海王の先例にならい自ら喪事の監督にあたりたいと願い出た。東海王のときは天子の礼が用いられたが、旧来の制度では三公が地方へ出向く例はなかったため、帝は大鴻臚に節を持たせて喪事を監督させることにした。
- 諸王・公主・京師の諸侯にはすべて東平王の葬儀に参列するよう詔が下された。哀策の文では、王が王室のために勤め、先代から策命を受けて藩屏となり明徳を慎んだことを讃え、天が仁者を奪って一人残された自分の孤独を嘆いた。
- 有司に命じて鸞輅の車と龍旂九旒、虎賁百人を追加で賜い、諡を献王とした。
秋 班超の西域経営
- 秋、班超が将兵長史となり、徐幹が司馬となった。
- 衛侯の李邑が烏孫への使者として派遣され、于闐まで来たところで、西域の事業は成功の見込みがないと上奏し、班超について「愛妻を抱えて子を可愛がり、外国で安楽に暮らして本国を顧みる気がない」と激しく誹謗した。
- これを聞いた班超は、自分は曾参ではないのに三度の讒言を受けたようなものだと嘆き、世に疑われることを恐れて妻を去らせた。帝は超に二心のないことを知っており、詔で李邑を責め、烏孫の侍子を送って京師へ帰らせる役目を邑に負わせた。
- 徐幹は「邑はあなたを誹謗して西域の事業を潰そうとした。詔を口実に引き止め、別の官吏に侍子を送らせるべきだ」と勧めたが、超は「それは了見が狭い。誹謗されたからといって追い返すのでは、心にやましくない者のすることではない。一時の快意にすぎず忠臣の態度ではない」と退け、邑をそのまま送り出した。
- 疏勒王の忠が背いて烏即城に立て籠もったため、班超は府丞の成大を新たに疏勒王に立てた。その後、忠は偽って降伏を申し出、前非を許されれば新王を討つと言ってきた。超は謀略と見抜きながら承知したふりをし、忠が軽騎三百を率いて訪ねてくると、密かに兵を伏せて待ち受け、酒宴の最中に吏に命じて忠を捕らえ斬り、その一党を攻めて大破した。
冬 巡幸と古文学の奨励
- 冬十二月、帝は陳留・梁国・淮陽・潁川に行幸した。
- 戊申、詔が下った。五経は分かれ、聖人の世から遠ざかるにつれて章句と伝説では正しい義を得がたく、先師の道が失われて微言が絶えることを恐れる。そこで諸儒に古文尚書・毛詩・穀梁・左氏伝を学ばせ、学を明らかにして聖人の趣旨を汲み取らせよ、というものである。
古文諸学の来歴
- 古文尚書は孔安国に出る。武帝の世に魯の恭王が孔子の旧宅を壊して宮殿を広げようとした際、古文の尚書・礼・論語・孝経など数十篇が出てきた。恭王が宅内に入ると琴瑟や鐘磬の音が聞こえたので驚いて工事をやめたという。孔安国は孔子の後裔で、その書をすべて得た。古文尚書は伏生の伝えたものより六十篇多く、安国がこれを献上した。
- 毛詩は魯の人・毛萇に出る。子夏の伝えたものと自称し、河間献王がこれを好んだ。
- 穀梁は瑕丘の江公が魯の申公から受けたもの。武帝の時、董仲舒が公羊をよく説き、江公は弁舌が不得手で議論に負けたため穀梁の学は衰えた。ただ衛太子だけが穀梁を好んだ。宣帝は即位後、衛太子が穀梁を好んだと聞いて穀梁を修める者を求め、沛の人・蔡子秋を得て公羊家と並べて説かせた。帝は穀梁を善しとし、のちに蕭望之ら大儒が朝廷で両家の異同を論じた際も穀梁に従う者が多く、穀梁学は再興した。
- 漢初には張蒼・賈誼・張敞がみな春秋左伝を修め、賈誼は左氏の訓詁を作った。御史の張禹は蕭望之と同僚で、しばしば左氏を望之に説き、望之もこれを善しとした。翟方進・賈誼・劉歆がそろって左氏の学を伝えたので、左氏を語る者は賈誼と劉歆を本とする。
- この四つの学は世に伝わっていたが、建武の初めに左氏博士を立てる議が起こったとき、范升らが左氏をそしって立てるべきでないと論じ、左氏学は廃された。のちに郎中の賈逵に左氏の大義を明らかにさせ、逵はさらに古文尚書が経伝や爾雅とよく合致することを述べた。こうして古文尚書・毛詩・周官にも弟子が置かれ、学ぶ者が広がった。
賈逵
- 賈逵は字を景伯といい、右扶風平陵の人。身の丈八尺二寸。二十歳で五経と左伝を暗誦し、穀梁や諸家の説にも通じ、深い理解をもって人の師たりうる学者と評された。
- 明帝の時に郎となり、班固とともに書物の校訂にあたった。章帝は古学を好み、逵を白虎観に召して左氏伝を講じさせ、その説を善しとした。
- 逵の母が病んだとき、帝は逵の貧しさを気にかけ、校書の例では下賜が多すぎるとして銭二十万を潁陽侯の馬防に託して届けさせた。逵は辞退して、母の重病と貧窮を述べ、伯夷が孤竹の国を去って首陽に行ったような境遇だと語った。恩遇はこれほど厚かった。
- のち衛士令に遷った。逵は学才が広く、その著述は学者の宗とされたが、放縦で小節を修めなかったため当時の非難を受け、高位には至らなかった。
史論(袁宏曰)
- 堯舜は賢者に位を譲り、夏の禹と殷の湯は子に授けた。夏后氏は賞して罰せず、殷人は罰して賞せず、周人は両方を用いた。殷人は親等が尽きれば通婚し、周人は百世を経ても通婚しない。長子を立てるのが三代の典なのに文王は伯邑考を廃して武王を立てた。君主や親に逆心を抱けば必ず誅するのが周の制なのに、春秋では君を殺した賊が一度諸侯と会盟しただけで天下に列している。これらはみな聖王の間の食い違いである。
- なぜ異なるのか。それは出会った時代が違うからである。碁打ちの思考は一局に尽きるが、聖人の明は天下に及ぶ。一局の形勢が同じでない以上、天下の事が前例をそのまま踏襲できるはずがない。
- 廃興を記したものを典謨、歌謡を集めたものを詩頌、吉凶を擬議したものを易象、制度を記したものを礼儀、名跡を編述したものを春秋という。経籍とは先聖の足跡を写し取ったものにすぎない。聖人の跡が右のように異なるのに、後の学者がこれを一律に揃えようとしても無理である。
- ゆえに、詩の失は愚、書の失は誣、易の失は賊、礼の失は煩、春秋の失は乱といわれる。よく見きわめねばならない。聖人が先代の礼を残し六籍の文を兼ね備えたのは、見聞を広め心を練り、古今の道に通じさせるためであった。
- 今や聖人の世から千年近くが過ぎ、風俗も民情も治め方も何度も変わった。漢初の諸儒は春秋の解釈だけでも異同があり、その後は書や礼の伝が次々に現れて是非の議論は数え切れない。六経の道を詳しく知ることはできても、政治の実際は際限なく移り変わってしまった。
- 昔、仲尼が没して微言は絶え、七十子が世を去って大義は乖離した。太史公談はこれを整理して六家とし、班固はこれを敷衍して九流を明らかにした。その由来を見れば、いずれも聖王の道の支流が分かれてそれぞれ一家の説をなしたものである。
- 物には必ず宗があり、事には必ず主がある。治道が広く行きわたり、明らかにするところが分かれていても、その綱要を挙げれば必ず帰着するところがある。司馬談の議論は道家を統とし、班固の論は儒家を高しとする。二家の説のどちらが正しいかは決しがたいが、私はこう考える。
- 多くの官司を統べうるのが君主の道である。心が動いても私意によらず、虚心で変に応じ、作為をしない。天下の事をすべて一人で処理すれば精神は内に尽き、禍乱は外に起こる。だから目の明るい者に見させ、耳の聡い者に聞かせ、能ある者を使う。この三者に任せれば、自ら思慮を巡らさずとも至り、作為せずとも治まり、精神は平静で万物はおのずと所を得る。これが道家の大旨であり、君主の統御術である。
- 一方、人を愛するとは車服を計り美食を厚くすることではない。訓典に導き、正しい性を助け、義の方向へ入れ、邪な物から遠ざけることである。仁であればその通達を願い、愛すればその救済を願う。仁愛が極まれば天下を兼ね善くする。
- そうであれば、多くの官司が広く教化を宣べるのは物に通じる方法であり、これが儒家の考えである。先王の教化の道は、極みにあっては玄黙にして契を司り、通じ行われるときは仁愛によって教化する。道家はその本を明らかにし、儒家はその用を語るのだ。
- 大道が行われれば仁愛はまっすぐ達して傷つけるところがないが、不足するときは差異を抑えて並べ立てる。万物の惑いの多さを憂えて四時に順わせようとしたところから陰陽家が生じ、天下の紛擾を懼れて名分を正し真に帰そうとしたところから名家が起こり、衆寡が互いに侵すのを見て法制を立て殺伐を止めようとしたところから法家が興り、国の奢侈と疲弊を慮って節倹を示そうとしたところから墨家が出た。いずれも時に応じた足跡であって、まとめて治のためのものである。
- 後世の論者はそれぞれ一家の理を敷衍して天下の法としようとする。儒と道でさえ紛糾するのに、まして他の四家においてはなおさらである。棺椁を作れば厚葬の弊が生じ、速やかに朽ちよと言えば死体を捨てる患いが起こる。聖人の言葉の跡によって枝葉の弁説をなす者は数えきれない。ゆえにこれ以上は略して論じない。