春二月・牟融の死
- 春二月庚辰、太尉の牟融が薨じた。天子は深く惜しんで自ら喪に臨み、贈物は手厚かった。当時、融の長男は郷里に帰っており、他の子は幼かったので、天子は喪礼に不備が出ることを恐れ、太尉の掾吏に作法を教えさせた。
第五倫の寛政論
- 光武は治世に励み、孝明は吏務を好み、その気風が互いに励まし合って風俗はやや苛酷になっていた。司空の第五倫は、政治教化の本は寛和を先とすべきだと考えていた。天子が即位して寛容を尊び恕することが多かったので、倫は上疏して褒め称えつつ諷諫した。
- その趣旨は次のとおり。陛下は即位して寛やかに下に臨み、賢良を挙げ度量の広い者を選んでおられ、その聖明は群下の及ぶところでない。しかし詔書が下るたびに寛和を務めながら政治は厳しいままで緩まず、節倹を望みながら奢侈が止まないのは、咎が風俗の弊にあり臣下がその任に堪えないためである。
- 政をなして三年で成り、一世を経て仁が行われると聞く。光武皇帝は王莽の後を承けて厳しく猛々しい政をなし、それが風俗となった。だから郡国が推挙するのは事務に長けた者ばかりで、俗吏は寛博な人材の選には応じない。
- その身が正しくなければ命令しても従われない。人は上の行いに従い、その言葉には従わない。だからこそ身をもって教えることが説かれるのである。
- 今、仁賢で節倹な者を数人進めるだけで風俗は自ずと変わる。形が真っ直ぐなら影は曲がらないからである。
- 自分がかねて寛和を行いたいと願うのは、書物に秦が酷急によって亡び王莽も苛法によって自滅したと記されているからで、大いなる戒めと考えている。
- 陰陽が和せば年は豊かになり、君臣が心を一つにすれば教化が成る。刺史・太守以下、初めて任命されて京師にいる者や、道すがら洛陽を通る者は、すべて召見すべきである。広く四方の事情を知ることができ、その人となりも見極められる。
- 上書して事を述べる者で意に合わない者があっても、郷里に帰らせるだけにして過度に怒らず、寛にあることを明らかにすべきである。
夏四月・立太子と封建
- 夏四月戊子、皇子の慶を皇太子に立てた。天下に爵二級、三老・孝悌・力田に三級、鰥寡孤独で貧しく自活できない者に粟五斛を賜った。
- 己巳、靈壽王の恭を彭城王、常山王の炳を淮南王、汝南王の暢を梁王とした。
- 辛卯、皇子の伉を千乗王とし、あわせて平春王を立てた。
- 癸卯、車騎将軍の馬防を順陽侯、衛尉の馬廖を潁陽侯、執金吾の馬光を親汲侯に封じた。馬廖らは封を受けると上書して位を譲り、天子は許した。皆特進の待遇で邸に帰った。
- ここに至って竇氏が初めて貴くなった。
第五倫の竇憲への警告
- 司空の第五倫が上疏した。その趣旨は次のとおり。
- 今は歴代の弊が積もり、人民も小賢しくなって皆邪道に走り、正道を守れない。虎賁将軍の竇憲は后妃の親として宮中に出入りし、年は盛んで志も美しく、へりくだって善を楽しむ。これは士を好む気風である。
- しかし貴戚のもとに出入りする者は大方みな瑕疵があって州県から禁固された者で、貧に安んずる節を守らず、ひたすら出世を求めて苟くも得ようとし、互いに煽り立てて浮ついた評判が雷のように高まる。驕慢が生ずるのはここからである。
- 三輔の議者は、貴戚を洗い清めるのは二日酔いを醒ますのに酒を用いるようなものだ、とまで言う。険しく勢いに走る徒は近づけてはならない。
- 願わくは陛下と中宮が厳しく竇憲に命じ、門を閉ざして自ら守り、みだりに士大夫と交わらせず、芽のうちに防ぎ形のないうちに慮り、憲に永く福禄を保たせ、君臣が和やかに交わって少しの隙もないようにされたい。
第五倫の人柄
- 第五倫の志は公に奉ずることにあり、事を述べるのに隠すところがなかった。子らが時に諫めて止めようとすると、叱って追い払った。上奏のたびに自ら草案を書き、掾吏に見せなかった。
- 民が上申書を出せばそのまま封じて上呈し、自分は任が重く憂いが深く奇策も出せず、吏民が自分を責める言葉が多いので併せて封じて奉る、と言った。その無私はこのようであった。
- ただし度量にやや欠け威儀を修めなかったので、これによって軽んじられた。
夏の人事と桓虞
- 甲戌、司徒の鮑昱を太尉、南陽太守の桓虞を司徒とした。
- 桓虞は字を仲春といい、左馮翊萬年の人である。初め魯令となったが父母が老いたため官を去り、両親が没してから仕えた。しだいに昇って南陽太守となり、賢者を表彰し悪を退け、名と実を照らし合わせて調べたので、豪族の吏は不正を働く余地がなく、民は喜んだ。建武以来の太守で名声において虞に及ぶ者はなかった。三公となってからはとくに際立った政績はなかった。
馬太后の崩御と賈貴人への厚遇
- 六月癸丑、皇太后馬氏が崩じた。
- 秋七月壬戌、明徳皇太后を葬った。
- 八月甲午の詔の趣旨は次のとおり。賈貴人は先帝に仕えて宮中で労苦し、建初の後は近親として長楽宮に仕え、朝夕の看護を怠らなかった。今、貴人に赤綬・安車一駟・永巷の宮人二百・御府の雑帛二万匹・大司農の黄金千斤・銭二万を賜う。早くに皇太后と別れたが、幸いにまた子としての道を承け、心は離れがたく、その恩は昊天のように極まりない。
- 賈貴人は南陽の人で、明徳馬后の姉の子である。選ばれて入宮し貴人となり、章帝を生んだ。馬后には子がなく、母としてこれを養った。
- 明帝は馬后に、人は必ずしも自ら子を生む必要はない、ただ養い方が行き届かないことが心配なのだ、我が子のように愛せば愛敬も実の親と同じになる、と語った。そこで馬后は帝を遇し、帝は養育の恩に感じて馬氏を外家と称した。それゆえ舅氏としての寵は蒙らなかった。
史論(袁宏曰)
- 剛健に独り運行するのは乾の徳であり、柔和に順い従うのは坤の性である。教えを定める者はこれに本づき、男には自ら決して行う道があり、女には三従の義がある。
- 君は尊く専らを用いるゆえに、人の子は父に爵を加えない。柔を履み順に体するゆえに、国君はその母に礼を厚くすることができる。これが古の道である。
- 賈氏に称号を与えることはできても、名称の極みまでは尽くさなかった。典籍に照らすと、これは春秋の義とは異なる。
是秋・白虎観の会議
- この秋、儒者を白虎観に集めて五経の異同を議論させる詔が出た。これを『白虎通』という。