春・彭城行幸と諸陵祠祀
- 春二月庚子、天下の亡命者に差を設けて贖罪を認めた。
- 彭城に行幸して楚王の館に泊まり、天子は激しく嘆き悲しみ、左右の百官も痛ましく思った。
- 三月、琅邪および魯に行幸して孔子と七十二弟子を祠り、東平・定陶に行幸して定陶恭王を祠った。
夏四月・皇子の封建
- 夏四月、皇子の暢を汝南王、建を千乗王、羨を陳留王、衍を下邳王、昞を常山王、長を濟陰王に封じ、重喜王の黨を樂城王に移した。
- 天下の男子に爵三級を賜い、民に五日間の酺(酒宴)を許した。
張酺の太子輔導と上疏
- 天子は越騎校尉の桓郁と郎中の張酺に皇太子の経書を授けさせ、二人は朝夕に侍講して経学を勧めた。この頃、太子の家は贅沢に傾いており、張酺はそのたびに正面から諫めたので、大いに憚られた。
- 平陽公主が薨じた。太子と同母の姉妹で、太子の哀しみようは礼を越えていた。張酺は太子の挙措は礼の度に合うべきだと考えて上疏した。
- その趣旨は、皇太子は仁厚寛明で発言も格調高く、常人の及ぶところではない、今、平陽公主が薨じ、悲しみが心底から発して痩せ細るほどで、情の深さは世にまれである、自分は浅学で大局は分からないが、名高い儒者や徳行の高い者を選んで師傅に充て、起居を問う日には太傅に宴を賜って徳ある言葉を広め聖徳を成すべきである、侍中の丁鴻は仁があって謙譲で政務に通じ、謁者の費惲は資質が篤実で法度を守っているから、二人を側近に侍らせれば必ず微妙な意を引き出し徳を広めるだろう、というものであった。
- 乙巳、天下に大赦した。
冬十一月・太白の変と星官の書
- 冬十一月乙卯、太白が月に入った。その占いでは、大将が殺され、三年のうちに君主が崩ずるという。
- 志にこう述べられている。昔、庖犧氏が天下に君臨したとき、仰いでは天の象を観、俯しては地の法を観た。天地が位を設けて星辰の運行の度数が備わったのである。易に「天は象を垂れ、聖人はこれに則る」とある。
- 星官の書は黄帝に始まり、高陽氏は南正の重に天を、北正の黎に地を司らせた。唐虞の時代は伏犧氏がこれを掌り、夏には昆吾、殷には巫咸、周には史佚があり、いずれも職掌として成敗を予見し当時の政治を助けた。
- 秦は詩書を焼いて民を無知にし、六経の典籍は灰燼に帰したが、星官の書だけは損なわれずに残った。漢が興ると司馬談父子が代々重黎氏の後裔であることから天官書を著し、班固も漢書を編んで天文志を設けた。
- 乙巳、天下に大赦した。匈奴が河西を侵した。