春・四路からの匈奴出撃
- 春、天子はかねての議に従い、奉車都尉の竇固、駙馬都尉の耿秉、太僕の祭肜、渡遼将軍の呉常にそれぞれ一万騎を率いさせて匈奴を撃たせた。
- 竇固は敦煌の崑崙塞から出て南呼衍王を撃ち、塞外一千五百里、蒲類海に至って白山を破り、呼衍王を敗走させて十余級を斬った。
- 耿秉は張掖の居延塞から出て匈林王を撃ち、沐楼山に至って六百里余りを進んだが水草が全くなかった。捕虜が、匈林王は北へ移って水草を追ったと述べたので、耿秉は軽騎で追おうとしたが、都尉の秦彭が止めて引き返した。
- 祭肜は南単于の左賢王信とともに朔方の鬲闕塞から出て、涿邪山の温禺犢王を撃つべく塞外九百里余りまで進んだ。小山を見つけたとき、信に、これが涿邪王山だと誤って教えられ、何の戦果もなく帰還した。
祭肜の憤死
- この戦役では耿秉に功があり、呉常は罪に問われ、祭肜も下獄のうえ免官となった。祭肜は剛直厳格な性格で、行軍中に信と折り合わず、そのため信に誤導されたのである。
- 祭肜は功のなかったことを恨み、出獄して数日で血を吐いて死んだ。子には、使命を果たせず小さな功も立てられず恥じて死ぬ、道義として賞賜を受けるべきではない、お前たちは兵馬を携えて辺境に赴き、先陣に立って死を尽くすことを願い出て私の心にかなうようにせよ、と言い残した。
- 子の逢が上疏して父の遺言を伝えると、天子はちょうど祭肜を重く用いようとしていたところだったので、これを聞いて長く嘆息した。
- 子の参は車師攻撃に従軍して功を立て、遼東太守に昇った。烏丸・鮮卑は祭肜を慕い続け、京師に朝するたびにその墓に立ち寄って拝し、天を仰いで号泣した。
祭肜の人物と経歴
- 祭肜は字を次孫といい、潁陽の人である。幼くして父を失った。更始の頃、天下は大いに乱れ盗賊が横行して人家の煙も絶えたが、祭肜は常に墓のかたわらにあって哀悼を尽くした。賊は通りかかるたびに、死をも恐れず号泣する姿を見て、誰も手を出さなかった。
- のち従兄の祭遵に従って世祖に仕えた。世祖は祭肜を黄門郎として常に側近に宿衛させた。祭遵が子なくして薨じると、世祖は悼んで祭肜を偃師長とし、祭遵の墓の近くで四季の祀りをさせた。襄賁令に移り、いずれの任地でも実績を挙げた。詔書で励まされ、秩を一等進められ縑百匹を賜った。さらに遼東で功績を挙げ、北辺に名を知られた。
- 祭肜は勇気が人並みはずれ、三百斤の弓を引いた。恩と信義に厚く権謀にも長けたので、士卒は争って力を尽くした。
- 永平の初め、胡や夷が帰属して辺境に騒乱がなくなったので、辺兵をすべて解き、祭肜を召して太僕卿とした。祭肜は遼東に十余年いて十金の蓄えもなく、天下がその清廉を知っていた。任命の日、銭百万・馬三匹・衣服・刀剣、さらに家財の器物まで一つ残らず賜った。
- 天子は祭肜を見るたびに感嘆して重任を託せる人物だとし、かつて側近に、太僕は自分の防禦の柱だ、と語った。
班超と鄯善
- 竇固が白山を破ったとき、従事の郭恂と仮司馬の班超を西域に遣わした。班超が鄯善に着くと、鄯善王の広は手厚くもてなしていたが、ある日から急によそよそしくなった。
- 班超が官属に、広の礼遇が以前に及ばないのに気づいたかと問うと、胡人が長く一定でないだけで他に理由はあるまいと答えた。班超は、賢者は兆しの現れる前に見抜く、まして兆しはすでに現れている、これは必ず北虜の使者が来ていて疑いを生じさせているのだ、と言った。
- そこで接待役の胡人を呼んで、匈奴の使者が着いた日になぜ告げなかったのか、と不意を突いて問うと、胡人は恐れて、着いてすでに三日、ここから三十里の所にいると答えた。
- 班超はその胡人を閉じ込め、率いていた吏士三十六人を集めて酒宴を開いた。酒がまわると激しい調子で、諸君は自分と共に絶域にあり大功を立てて富貴を得ようとしている、今、虜の使者が着いてわずか数日で広の礼遇は絶えた、もし鄯善が我らを捕らえて匈奴に引き渡せば、骸は捨てられて豺狼の餌になる、どうするか、と語った。皆は、すでに危地にある以上、生死は司馬に従うと答えた。
- 班超は、虎穴に入らずんば虎子を得ず、こちらが人を図るのであって人に図られはしない、今の策はただ夜に虜の使者を囲んで火を放ち、こちらの人数を悟らせず驚かせて皆殺しにすることだ、この虜を滅ぼせば鄯善は肝を潰し、功は成る、さもなければ捕らわれて悔いても及ばない、と述べた。皆が従事と相談すべきだと言うと、班超は怒って、従事は文書の吏だ、これを聞けば必ず恐れて謀が漏れる、漏れて鄯善に呑まれれば死んでも益なく、壮士とは言えない、と言い、一同は同意した。
- 班超は夜に吏士を率いて急襲し、十人に鼓を持たせ残りは武器と弩を執らせた。風上から火を放ち、鼓を打って大声を上げると虜は驚いて逃げた。班超は自ら三人を斬り、吏士は数十級を斬り、残りは皆焼死した。
- 翌日、郭恂に告げると郭恂は大いに驚き、内心では班超が功を独占することを恐れた。班超は、もともと掾と共に任を受けた一体の事だ、掾が行かなかったからといって独占する気はない、大小の禍福は共にする、と言った。郭恂は喜んだ。
- 班超は鄯善王の広を召して虜の使者の首を示し、国中が震え上がった。班超は漢の威徳を告げ、今後は北虜と通じるなと言い渡した。広は頭を下げ、漢に属して二心はないと誓った。
班超の于闐平定
- 班超は塞に帰り、虜の使者の首を奉じて竇固のもとに参上した。竇固がその前後の功を奏上すると、詔で班超を司馬とし布二百匹を賜い、于闐国への使者に立てた。
- 吏士を増やそうとしたが、班超は従来の三十六人だけを率いたいと願い出た。于闐は大国で遠く、万死を賭して功を立てようというのだから、数百人を連れて行っても強さの足しにはならず、不測の事があればかえって足手まといになる、というのがその理由であった。
- この頃、于闐王の広徳は車師を破ったばかりでその王を生け捕りにしており、匈奴は使者を派遣してこの国を監視していた。
- 于闐の風習は巫を信じ、迷うことがあれば巫に決めさせた。班超が着いて数日、広徳は匈奴の使者が国内にいるため礼を尽くさず、態度も定まらなかった。折しも巫が、神が怒っている、なぜ漢に向かおうとするのか、匈奴に属せ、漢の使者の馬を急ぎ取って神に供えれば怒りは解ける、と告げた。
- 広徳は国相の私来比を遣わして、馬を貰い受けて神に供えたいと申し入れた。班超は、馬は渡そう、巫を自分で来させて受け取らせよ、と答えた。まもなく巫が来ると、班超は吏に命じて捕らえさせ、その首を斬った。私来比も捕らえて数百回鞭打ち、巫の首を持たせて広徳を責めさせた。
- 広徳は班超が先に鄯善で虜の使者を誅したことを聞いており、その貢を受け入れていたので恐れおののき、兵を挙げて匈奴の使者五十余人を攻め殺して班超に降った。班超は王に厚く賜って鎮撫し、そのまま于闐にとどまって冬を越した。
班超の疏勒工作
- これより先、亀茲王の建は匈奴に擁立され、その威勢を背景に疏勒を破ってその王の忠を殺し、有力な臣を誅して左候の兜題を立て疏勒を治めさせていた。
- 班超は広徳に駅伝を出させて自ら疏勒に赴いた。兜題の治所である盤囊城まで九十里の地点で、吏の陳憲らを降伏の説得に遣わし、兜題はもともと疏勒の出身ではないから、降らなければ実力で捕らえよ、と命じた。
- 陳憲は兜題に会うと降る意思がなく、しかも手勢が少なく備えのないのを見て取り、進んで兜題を捕らえ縛った。側近は皆驚いて逃げ、二人を残して見張らせ、陳憲は駆けて班超に報せた。
- 班超はすぐ赴き、疏勒の掾吏を残らず集めて、亀茲は匈奴のために疏勒を撃ち、お前たちの貴人を皆殺しにして兜題を立てた、兜題はお前たちの本来の種族ではない、今、漢の使者が来て旧王の血筋を立て、お前たちの害を除こうというのだから恐れることはない、と告げた。一同は喜んだ。
- 班超は旧王の近親を探し、その兄の子の榆勒を得て立て、名を忠と改めさせた。国中は大いに喜んだ。
- 班超が忠と官属に、兜題を殺すべきか生かして帰すべきかと問うと、皆殺すべきだと答えた。班超は、殺しても事の益にはならない、亀茲に漢の威徳を知らせるべきだ、として縄を解いて帰した。
- これによって疏勒は亀茲と怨みを結び、ひたすら漢に心を寄せた。盤彚城を固め、忠は疏勒城に拠った。
班超の人物
- 班超は字を仲升といい、班彪の末子である。豪放で小さな作法にこだわらなかったが、内々の行いはきわめて慎み深かった。
- 家が貧しく、雇われて書写をしていたが、あるとき筆を投げ捨てて嘆じ、男子たるもの傅介子や張騫のように絶域に功を立てて封侯を得るべきだ、いつまでも刀筆の仕事などしていられようか、と言った。同席の者は笑い、超の小僧に壮士の志が分かるものか、と言った。
- 道で人相見に会うと、君はただの書生だが、相法では万里の外で封侯すべき相だと言われた。理由を問うと、君は燕のような顎に虎のような首、飛んで肉を食う相だからだ、と答えた。
秋・淮南王の謀反と諸事
- 秋七月、淮南王の延が謀反し、阜陵王に移されて二県を食むこととなった。
- 九月丁卯、死罪の囚徒のうち大逆無道でない者は死一等を減じ、辺境の守りに移すよう令した。
北海王睦の死と人物
- 北海王の睦が薨じ、敬王と諡された。睦は若くして学を好み、世祖に器量を認められた。天子が皇太子であった頃、しばしば宴に侍り、内では席を並べて談論し、外では車を同じくして遊観するほど親しく遇された。
- 当時はまだ法網がゆるく、諸国も賓客と交わることができた。睦は千里を遠しとせず知識人と交わり、徳望ある名儒でその門を訪れない者はなかった。睦は謙虚に身を低くして礼をもって接したので、名声は非常に高まった。
- 王となってから法禁がいよいよ厳しくなると、睦は賓客を謝絶して音楽に心を委ねた。
- 年末に使者を遣わして京師に朝せしめる際、睦は使者を呼び、朝廷が自分のことを問うたら何と答えるかと尋ねた。使者が、大王は忠孝慈仁で賢者を敬い士を好むと、臣は取るに足らぬ身ですがありのままにお答えします、と言うと、睦は、それは私を危うくする、それは自分の若い頃の売り込みの振る舞いだ、と言い、爵位を得てからは志が衰え、歌舞や女色を楽しみ犬馬を好んでいる、と答えよと命じた。使者は命を受けて赴いた。名声を抑え隠し、機微を深く見抜くことはこのようであった。
- 睦の父の靖王興が薨じたとき、睦は財産をことごとく弟たちに譲り、車馬・衣服・珍宝も意に介さなかった。人が捕らわれるようなことがあれば金帛を出して身柄を贖った。
- 文章をよくし、隷書に巧みで、『春秋指義終始論』および賦・頌数十篇を著した。病が重くなると、帝は駅馬を走らせて詔し、睦に草書の書簡十首を書かせた。