後漢紀巻第十 孝明皇帝 永平十四年 71年

夏四月・楚王英の死と処置

  • 夏四月、もと楚王の英が自殺した。諸侯の礼で葬った。
  • 天子は中黄門を遣わして英の妻子を見舞い、楚太后を慰労した。英と謀った者はすべて釈放し、告発した燕広を折姦侯に封じた。

楚獄の拡大と寒朗の諫言

  • 英の獄が起こると、内は京師の諸侯に及び、外は州郡の豪傑に連なり、連座して死んだ者・流された者は千を数え、なお獄につながれている者が数千人いた。
  • 顔忠・王平の供述が隧郷侯の耿建、朗陵侯の臧信、灌澤侯の劉鯉、曲成侯の竇建にまで及んだ。獄を担当した御史の寒朗は、耿建らが顔忠と会ったことはなく、問い詰めても事実がなく王平に濡れ衣を着せられたもので、無実の者が多いと疑われる、と奏した。
  • 天子が、会っていないのになぜ名を挙げたのか、と問うと、寒朗は、不道の罪を犯した者が耿建らを引き合いに出して自らを弁明しようとしたのだ、と答えた。四侯に事実がないならなぜ釈放せず軽々しくつなぐのか、と問われると、調べても事実はないが、天下に彼らの姦を暴く者が出ることを恐れてまだ奏さなかった、と答えた。
  • 天子は、吏が両方に構えて言葉を巧みにしていると怒り、打たせようとした。寒朗は一言だけ述べて死にたいと願い出た。誰と共に上奏文を作ったかと問われ、自分一人で作ったと答えた。なぜ三府と議さなかったかと問われ、自分は一族滅ぼされると承知しており、多くの善良な人を巻き添えにしたくなかったからだと答えた。
  • なぜ族滅なのかと問われると寒朗は、一年審理しても姦状を突き止められず、しかも罪人のために弁じているのだから、自分に申し開きがないのは分かっており、族滅されても恨まない、と述べた。そのうえで、人を死地に陥れても咎めがないので、一人を調べれば十人が連座し、十人を調べれば百人が連座する、公卿は朝廷で得失を問われるたびに、天下の悪は禍が九族に及ぶものを陛下の大恩で本人だけに止めていただいた、と言うが、家に帰れば皆天井を仰いでひそかに嘆いており、口に出さずとも身振りでそれと知れる、皆が冤罪が多いと言いながら誰も言い出せずにいる、と述べた。
  • 今、耿建らに証拠がないのに殺せば道理が立たない、どうか心を留めて実情を明らかにし、罰せられる者が怨まず死ぬ者が恨まぬようにしていただきたい、私心あってのことではない、と結んだ。
  • 天子は深くこの言を容れ、自ら洛陽の獄舎に赴いて千余人を釈放した。すると天下に大雨が降った。

袁安の楚郡赴任と赦免

  • この時、楚の獄につながれた者は数千人にのぼり、天子が激しく怒っていたため役人の取り調べも厳しく、虚偽の自白をして死ぬ者が非常に多かった。そこで有司が難事を処理できる者を推挙し、袁安が楚郡太守となった。
  • 袁安は郡に着くと役所に入らず、まっすぐ獄に赴いて取り調べ、事実のない者を箇条書きにして奏上し釈放した。府丞や掾吏は皆頭を下げて反対したが、袁安は、もし処置が誤りなら太守が責めを負う、お前たちには及ぼさない、と言って別に奏上した。折しも天子も思い当たるところがあってすぐに許可し、四百余家が獄を出られた。

袁安の河南尹時代

  • ほどなく袁安は召されて河南尹となった。天子が謁見して楚の事件の審理と名簿について問うと、袁安は詳細に答えて漏らすところがなく、天子はその能力を認めた。
  • 天子が、もとはどの官から出たのかと問うと、袁安はもと書生だと答えた。天子は、尹は世襲の吏の出だと思っていた、書生とは意外だ、と言った。
  • 袁安は河南尹を十年つとめ、厳明と称されたが、罪を着せて人を取り調べることはしなかった。常々、士の学問は上は宰相を、下は牧守を望むもので、聖代に人の道を塞ぐのは尹のすることではない、と述べていた。配下は皆これを聞いて自ら励み、その名は朝廷で重んじられた。

袁安の人物と経歴

  • 袁安は字を邵公といい、汝南宛の人である。重々しく威厳があり、郷里に敬われた。
  • 県の功曹となり、檄を奉じて従事のもとへ赴いたとき、従事が県令への手紙を託そうとした。袁安は、公事なら駅伝がある、功曹に託すのは私事だ、として受け取らなかった。従事ははっと気づいてやめた。
  • 孝廉に挙げられて郎・謁者となり、陰平長・任城令を歴任し、赴任先の吏民は皆畏れつつ慕った。

夏五月の封爵

  • 夏五月、もと廣陵王荊の子六人を列侯に封じた。
  • 詔して、執金吾の魴は長年侍衛し、しばしば忠言を進めたとして、旧来の爵土を返上させたうえで楊邑侯に封じた。
  • 竇融の孫の嘉を安豐侯に封じた。