後漢紀巻第九 孝明皇帝 永平七年 64年

陰太后の崩御

  • 春正月癸酉、皇太后陰氏が崩じた。
  • 二月庚申、光烈陰皇后を葬った。

宋均の直言と病没

  • 東海相宋均を召して尚書令とした。あるとき不審な事件があり、皇帝は激怒して尚書郎を召し捕らえさせた。尚書たちは皆叩頭して謝ったが、宋均だけは顔色を正して「忠臣は正しさを守るもの。どうして二心を抱きましょう。均は死んでも変えません」と述べた。皇帝はこれを聞いて良しとし、すぐ許した。
  • 司隷校尉・河南太守に遷り、政治と教化が大いに行き渡った。宋均が病むたびに民や古老は皆平癒を祈り、朝夕役所に来て容体を尋ねた。天子はまさに宰相に任じようとしたが、折しも持病が重かった。
  • 皇帝は召し入れて自ら病状を診た。宋均は皇帝を見て涙を流し「天は罪ある者を罰します。患いは日ごとに重くなり、二度と御側に侍ることはできません」と謝した。皇帝は深く心を痛め、銭三十万を賜った。宋均は家で没した。

宋均の吏道論

  • もともと皇帝は有能な官吏を好んで用いたが、その多くは暴虐で残酷であり、結局皆身を滅ぼした。
  • 宋均は朝廷から退出すると人々にこう語っていた。今の人材登用では隠れた人物や身分の低い者を得られず、ただ現職の長吏を得るだけだ。漢の盛時には京兆に趙広漢・尹翁帰・蕭望之、丞相には魏相・黄覇がいて、いずれも太平をもたらす政治を行った。今の二千石にはそうした人物がまったくいない。
  • 国家は法文に通じた吏を好み、それで悪事を止められると考えている。しかし法文の吏は欺き偽ることに慣れており、清廉な吏は自分一人が清いだけで民の益にならない。民の流亡と盗賊はそこから生じるのだ、と。
  • 宋均は自ら叩頭して諫争しようと思ったが、今は改められない、長引けばいずれ自ら苦しむだろう、そのとき言えばよいと考えた。言い出す前に司隷校尉に遷った。のちに皇帝はその言葉を聞き、追想して悲しんだ。

宋均の来歴と治政

  • 宋均は字を叔庠といい、南陽安衆の人。初め上蔡長となり、豪族や悪辣な者を摘発して誅したので、皆震え上がった。
  • 府から民の葬儀が制限を超えることを禁じる命が下ったが、宋均は督郵を派遣せず、そのため県が責めを受けた。宋均は「死者を送るのに制を超えるのは、行き過ぎた手厚さである。国に不義の民がいるのに、礼を過ぎた者を罰するのは、政治として真っ先にすべきことではあるまい」と述べた。
  • 九江太守に遷ると、五日に一度だけ政務を執り、掾吏をことごとく省き、督郵を府内に留め置き、諸曹には交代で休ませた。属県には事件がなくなり、民は生業に安んじた。

九江の虎害への対処

  • 九江には虎が多く、たびたび民を傷つけた。それまでは吏民を募って檻や餌を仕掛けて捕らえていた。
  • 宋均は言った。虎豹が山におり、黿鼉が淵にいるのは、それぞれの生き物の性がよりどころとするところである。江淮の間に猛獣がいるのは、江北に鶏や豚がいるのと同じことだ。今それがたびたび民の害となるのは、咎は貪欲で残酷な者が職にあるためである。吏に虎を捕らえさせるのは民を憂える根本ではない。今は貪欲な者を退け忠良な者を進め、落とし穴や餌を撤去し、以後は取り締まりを課すな、と。
  • その後、民の間では虎が皆去って東のかた長江を渡ったと語り伝えられた。
  • 北海王が没し、靖王と諡された。