後漢紀巻第七 光武皇帝 建武十六年 40年

交阯の反乱と天変

  • 春二月、交阯の女子である徴側・徴貳が反乱を起こした。九真・日南・合浦もともに賊となった。
  • 三月辛丑、日食があった。
  • 冬十月、盧芳が降伏し、代王に封じられた。

墾田不実の処罰と馬援

  • このころ、耕地の申告が虚偽だとして獄に下されて死んだ刺史・太守は十余人に上った。南郡太守劉隆も投獄されたが、帝は功臣であることを考慮して庶人に落とすにとどめた。
  • 帝がくつろいだ折に虎賁中郎将馬援に、先ごろ地方長官を多く殺しすぎたのが心残りだと語った。馬援は、死んだのは罪を得たからで多すぎるということはありません、ただ死んだ者は戻ってこないだけです、と答えた。帝は大笑した。馬援が時勢に順って相手に逆らわないのは、いつもこの調子であった。
  • 馬援は身の丈七尺五寸、眉は薄く鬚は立派で、博識で応対に慣れ、昔の言行や出来事を語るのが巧みだった。帝と昔の三輔の長老や里の豪傑について語り合うと、皇太子や諸王も飽きずに聞き入った。帝は馬援の知恵が並外れていることを知り、たいへん親しく重んじた。