後漢紀巻第七 光武皇帝 建武十七年 41年

春夏秋の諸事

  • 春二月乙未の晦、日食があった。
  • 夏四月、帝は滎陽・潁川・章陵に行幸した。
  • 六月癸巳、臨淮公の劉衡が没した。
  • 秋七月、廬江の費登らが反乱を起こし、虎賁中郎将馬援がこれを平定した。

冬十月 皇后の交替

  • 十月辛巳、皇后郭氏を廃し、陰氏を皇后に立てた。はじめ郭后は寵愛が衰えてしばしば怨みを抱いたので、そのために廃された。
  • 東門侯の郅惲が上書した。夫婦の間のことは父も子に、君も臣に求めることができない、まして臣が君に求めるなど臣のなしうるところではない、しかしどうか陛下、なしえぬ事に思いを致し、人倫の大本を乱して天下に社稷を論じる者を生じさせないようにしていただきたい、という趣旨である。
  • 帝はこれをよしとし、郅惲は自分の立場に照らして君主の心を量っており、私情によって天下を軽んずることが決してできないと分かっているのだ、と述べた。

陰皇后とその一族

  • 陰后は南陽新野の人。更始元年に世祖が宛で后を娶り、北の洛陽へ向かうにあたって后を新野に帰そうとしたが宛にとどまった。宛では味方が少なく、陰氏・鄧氏など郷里の豪族はよく身を退いた。建武の初め、后を育陽から迎えて貴人とした。
  • 帝は后の性格が寛大で仁愛に篤いので皇后に立てようとしたが、后はそのたび辞退し、自分は大位にふさわしくないと述べた。当時、郭后が太子劉疆を生んでいたので郭后が立てられた。后が東海王劉陽を生むに及んで寵愛はいよいよ厚くなった。
  • 后の性格は情け深く、十歳で父を亡くし、そのことに話が及ぶたび必ず涙を流した。帝は常々、肉親を亡くして数十年たってもその話になると涙する者は珍しい、と言った。
  • 后の父の陰隆に宣恩侯の爵と諡を追贈し、兄の陰識を侍中として元庶侯に封じた。陰識の弟の陰興を期門僕射とし、陰興の弟の陰就は父の爵を継いで改めて新陽侯に封じられた。

  • 陰識は字を次伯という。斉武王のとき一族と賓客を率いて副将となり、世祖に従って征伐し戦功を重ねた。封戸を増そうとしたとき陰識は辞退した。天下は定まったばかりで功のある将帥は多い、自分は幸いに後宮とのつながりで賞賜が十分ある、これ以上爵邑を加えれば、外戚が賞を受け一般の者が功を数える形になり、天下に示せない、というのがその理由である。帝はたいそう立派だと評価した。

  • 陰興は字を君陵といい、人並み外れた腕力の持ち主だった。帝の供をするときは常に小さな覆いをかざして風雨を防ぎ、泥道や狭い所は自ら歩いて渡った。帝の行幸先には必ず先に入って宮を検めた。日ごろは広く五経を読み、故実を調べた。

  • 賢者を尊び士にへりくだり、広く政治の得失を求め、善を献じ非を正し、後進を推挙した。人に施すことを好んで交際も広かったが、門前に無頼の徒はいなかった。張宗らとは仲がよくなかったが、有用な人物だと知るとその長所をたたえて登用させた。逆に張汜の一派は陰興と親しかったが、華やかで実が乏しいと見て、私的に財を与えるだけで最後まで推薦しなかった。そのため世間は彼の忠実さを称えた。
  • 邸宅を建てるにも材木は粗末で、雨風がしのげればよいとした。常々「豊かな家の戒め」を口にし、徳を修めなければ高い台や広い館があっても宿屋同然だと言った。
  • 帝がかつて陰興を封じようとして印綬を目の前に置いたとき、陰興は封国を辞退した。先陣を切って敵陣を破った功もないのに一家から数人が領地を受ければ天下の不満を招く、自分は陛下と皇后の恩沢をこのうえなく受け、富貴は極まっており、これ以上加えられない、というのである。帝はその辞退が真剣なのを見て志を曲げさせなかった。
  • 皇后が理由を尋ねると、陰興は答えた。后は書物をお読みにならないのか、「亢竜悔いあり」とは身の程を知らぬ者に多く見られることだ、外戚の家が謙譲を知らなければ、娘を嫁がせるにも権勢を頼んで貴人に嫁がせ、嫁を迎えるにも公主を望むようになる、自分は心底不安である、富貴には限度があり足るを知らねばならない、驕り奢ればますます世間の非難を浴びる、と。皇后はその言葉を喜び、一族のために地位を求めて政治に干渉することをしなかった。

  • 陰就は剛強で道理に従わず、しばしば地位を笠に着て人を見下した。扶風の人井丹は気概の高い士で、諸王や貴人が代わる代わる招いても誰も招き寄せられなかった。陰就は自分なら呼べると考え、諸王をだまして銭二万を出させ、人を介して井丹を招いた。

  • 井丹はやむなく陰就のもとに赴いた。麦飯と野菜が出されると、井丹はそれを押しやり、君侯ならうまい物を出せると思って寄っただけだ、これは何のつもりかと言った。陰就は改めて豪華な料理を用意した。
  • 陰就が立ち上がると左右が輦を進めた。井丹は笑って、桀が人を車代わりにしたと聞くが、これのことかと言った。座中は色を失い、誰も言い返せなかった。陰就はすぐ輦を下げさせ、一日談論して井丹は帰った。その名声の高さゆえ、陰就らも機嫌を損ねることを恐れた。井丹もまた生涯仕官しなかった。
  • 明帝の初め、陰就は少府となった。子の陰豊が酈邑公主を娶ったが、公主は驕慢で嫉妬深く、陰豊もまた気短く狭量で、ついに公主を殺した。陰豊は誅殺され、陰就は自殺し、家族は本郡に送り返された。

張湛の引退

  • 郭后が廃されると、太子太傅の張湛は病と称して退き、太中大夫となった。帝は張湛を大司徒にしようとしたが、張湛は朝堂に出て座ったまま小便を漏らし、重病だと言い張った。結局任用されず、家で没した。
  • 張湛は字を子孝といい、右扶風平陵の人。立ち居振る舞いは必ず礼にかない、人目のない部屋にいてもその態度を崩さず、家庭内でも厳格な君主のようであった。三輔の人々は彼を手本と仰いだ。成帝・哀帝のころ二千石となり、王莽の時代には郡守や都尉を歴任した。建武の初めに左馮翊となり、礼と教化を整え善悪を明らかにして、政治教化が大いに行われた。
  • 休暇で平陵に帰るとき、県の門を望んで車を降りた。主簿が、明府は地位も徳も重いのだから自らを軽んじるべきでないと諫めると、張湛は、礼では公門で車を降り路馬に敬礼する、孔子は郷里では慎み深くしていた、父母の国では礼を尽くすべきだ、と答えた。
  • 張湛が召されて馮翊を離れるとき、旧任の長官は必ず後任に政務を引き継ぐものだと言われたが、張湛は、あなたは徳によって進み、私は罪によって退くのだ、と述べ、そのまま立ち去った。
  • 張湛はいつも白馬に乗っていた。帝は例外的な政令があるたびに、「白馬先生がまた諫めに来るぞ」と言った。

諸公の王への昇格と鳳凰

  • 壬午、左馮翊公を中山王に移し、諸国の公をみな王とした。
  • この年、鳳凰が潁川郡に五度集まり、多くの鳥が列をなして従い、その広がりは数頃の地を覆い、七十日間とどまった。