後漢紀巻第七 光武皇帝 建武十五年 39年

春二月 馬武の処分

  • 二月、大司馬呉漢が馬武らを率い、雁門・代郡・上谷の民を中山に移して胡の侵入を避けさせた。この際に馬武が軍吏を殺した。詔により馬武は妻子を連れて封国に赴くよう命じられたが、馬武は自ら京師に出頭した。天子は封戸五百を削り、改めて楊虚侯とした。
  • 馬武は酒好きで遠慮なく直言した。帝の前で酔って同列の者を面と向かって非難し、その長所短所を言い立ててはばからなかったが、帝は好きにさせた。
  • 帝がかつて功臣と宴を開き、順に「諸君がこの時勢に出会って朕と巡り合わなかったら、何をしていただろうか」と尋ねた。鄧禹は「臣は学問をしましたので、郡の文学くらいでしょう」と答えた。帝は笑って「なんと謙遜な。お前は鄧氏の子で志も行いも整っているのだから掾や功曹にはなれる」と言った。
  • 順に答えて馬武の番になると、「臣は武勇で世に出ましたから、守尉となって盗賊の取り締まりを督したでしょう」と答えた。帝は笑って「盗賊にならずに自力で亭長になれれば上出来だ」と言った。

史論(袁宏曰・通塞)

  • 長寿と夭折、困窮と栄達は生まれつきの分であり、得失や悲喜は万物の情である。分の観点から見れば、帝王と庶民、竹柏と朝菌の違いなど言うに足りない。情の観点から語れば、一度目をかけられることとちょっと貶されること、道で親しく語り合うことと馬を解いて贈ることでさえ、喜びや悲しみの種になる。まして大きな事柄ならなおさらである。
  • 造化とともに移り変わり、哀楽に心を動かされない者が達節の人である。それ以下の者は現世の枠内にあるので、得れば喜ばずにいられず、失えば悲しまずにいられない。
  • 得失の大きなもので天下の誰もが共通に感じるのは、通じるか塞がるかである。しかし才の高い者は通じてよいはずなのに宝を抱えたまま埋もれ、徳の薄い者は低い地位にとどまるべきなのに卑しい者が位を盗む。つまり通塞は巡り合わせで出会うものであって、幸不幸を期待して定めることはできない。
  • 君子は時流の勢いに乗って山のような功を立て、日月の余光に乗じてささやかな事業を成すこともある。その時代に功と美名を残しても、なお千載一遇の巡り合わせを喜ぶのである。
  • 一方で、版築に従事した者、釣りをしていた者、すだれを織っていた者、包丁を執っていた者のように、才を箱にしまい込んだまま胸の内ごと朽ち果てた者は数えきれない。
  • 楽毅が燕の昭王に出会い、屈原が楚の懐王に仕え、白起が秦王に用いられ、范増が項籍に仕えた例は、最後はいずれも挫折したものの、一度は志を伸ばした。彼らを通塞を語る例とするには足りない。白髪で門番をしたまま溝に転がって死ぬ者と、どれほどの差があろうか。
  • 鄧禹ほどの才、王佐の謀に比すべき人物が、翼を畳み鱗を収めて文書仕事の間に沈んでいた。それは謙遜のせいではなく、まさに勢いがそうさせたのである。それが雲雨に出会って竜門に躍り上がるや、呉漢のような者でも天下を成す構えを作り上げ、馬武のような者までも鸞鳳と並んで飛んだ。こう見てくると、先に言った通塞とはまさにそういうものではないか。

四月 皇子の封建

  • はじめ担当官が皇子を封ずることを願い出たが天子は許さず、数年にわたり強く請われてようやく従った。
  • 四月戊申、皇子の劉輔を右翊公、劉英を楚公、劉陽を東海公、劉康を済南公、劉延を淮陽公、劉荊を山陽公、劉衡を臨淮公、劉焉を左翊公、劉京を琅邪公に封じた。
  • この日、天子は李通の功を思い、李通の末子の李雄を邵陵侯に封じた。

史論(袁宏曰・封建)

  • 『書』は「万邦を協和す」と称え、『易』は「万国ことごとく寧し」と言う。諸侯の制度は上古に始まり、その起源を知る者はいない。試みに言うなら、百人が集まって乱れないのは、散らばるか、一人を主として立てるかである。主があれば治まり、主がなければ乱れる。分けて主を立てれば諸侯の形ができ、統べて君臨すれば王者の権が定まる。
  • しかし分けて主を立てても筋道を整えねば安らかにならず、統べて君臨しても全体を統率せねば安定しない。筋道を整える方法は官を設け職を分かち万物の能力に応じることにあり、全体を統率する道は至公無私で天下と欲を共にすることにある。
  • ゆえに帝王が事を起こすには必ず万国を建てて親族と賢者を樹て、百官を置いて多くの才を配する。自分だけのものとせず、天下と享受を共にし、その力を分けて民の事を済うためである。
  • 『周礼』では天子の田は方千里、公の田は方五百里、侯・伯・子・男と順に減じてこれを五等と呼ぶ。天下を富有していても、直接治めるのは王畿に過ぎず、諸侯は一国に臨むだけで政令刑罰は封域を出ない。だから事務は簡素で才は余り、任は軽くて事が滞らない。
  • 諸侯が朝聘するのは職務を報告し賦を納めて礼敬を尽くすためであり、天子が巡狩するのは風俗と教化を観察して善悪を知るためである。民に功徳のある者には領地を加え位を進め、不善の者には九伐の制を明らかにする。
  • そのため世襲の禄を受ける者はその富を保って場当たりの心配をせず、実績を積んで職を報告する者は礼を尽くすことに努めて出世の計略を立てない。だから信義が明らかになり教化が成り、名分と器物が安定して風俗が淳朴になる。これを百代に及ぼしうる長続きの道である。
  • 唐虞から三代に至るまで、文と質は互いを受け継ぎ、増減はあっても諸侯の制度は保たれて改められなかった。世を長く保ち民を育てた根拠は遠くここにある。
  • やがて王の威令が振るわなくなり、諸侯が法度を破り、官は秩序を失い民は生業を移した。それでも多くの国が互いに支え、大小が牽制し合ったので、強大な国も一時の勢いを独占できず、豪傑の士も気炎を振るう場がなかった。
  • かつて周室が弱まり政教が衰えたとき、桓公と文公が王室を戴き、この二国が頼りであった。王室を憂えて勤めれば諸侯は慕って従い、驕り高ぶれば九国が離反して来朝しなかった。楚は長江・漢水を恃み、秦は崤山・函谷を拠り所とし、内心では九鼎を望み天子の位を狙ったが、周室を憚り斉・晋を恐れて、八百年を経てようやく周は庶人に落ちた。列国が支え合い、根が深くて抜きがたかった実証ではないか。
  • 戦国の世になると志は併呑にあり、国を伐ってその民を貪り、邑を得ればそこに私腹を置くようになって、郡県の萌芽が生じた。
  • 秦は天下を得ると周の弊害だけを見て五等の爵を廃し、郡県をそのまま用いた。天下の珍宝を傾けて一身の欲に供し、四海の政務を一人の耳に集めた。だから財が余っても天下は怨みを分かち、政が理にかなわず四海は離反した。
  • 高祖は帝位に就くと秦の失敗に鑑み、肥沃な地を分けて子弟を封じ、将相の功臣には租税を与えるにとどめ、郡県の官はそのまま改めなかった。土地を分け民を配ったのは親戚に限られ、爵を班ち労に報いるのは功臣・賢者に及ばなかったが、それでも宗室の堅さに頼って諸呂の難を折ることができた。まして万国に親族と賢者を併せ立てたならなおさらである。
  • 文帝の時、賈誼は、天下を安んじたければ諸侯を多く建てて各々の力を弱め、天下の勢いを身体が腕を使い腕が指を使うようにするのがよい、そうすれば諸国の君に異心はなくなり、輻が集まるように天子に帰命する、と説いた。文帝は従わず、ついに呉楚の乱が起こった。
  • これに憤って懲りた結果、諸侯を大いに恐れ、恩を推し及ぼす形で国を分割し、事にかこつけて邑を削った。枝葉が落ちれば根も従って枯れる。そのため王莽が恩と道義にことよせ、譲位の形式を踏んで帝を称するのが、いともたやすくなった。
  • 光武が中興して天下を回復し、旧来のものを失わなかったが、封建については前代の制度をそのまま踏襲した。諸侯を縛る網は日ごとに密になり、末世には衰えて弱くなり、宗室は罪に問われるのを恐れ、同姓は庶民に押しのけられ、一人が腕まくりすれば天下を乱せるようになった。
  • こう見てくると、五等の制は年月を経るほど長続きし、君臣は代々受け継いで動かない。天子が安泰でなくとも諸侯までが失政とはならず、一国が治まらなくとも天下は乱れない。だから王朝交代の変はあっても、土崩の勢いには至らない。
  • 郡県の制では禍乱がむしろ多い。君に定まった民がなく、尊卑が入れ替わって区別なく、去来はまるで旅人のようで、人は一時の功績に励み、家は場当たりの計を立てる。政務は王府に集中し、権力は京師に集まる。天子一人が賢明ならその政治は天下に及ぶが、天子が暗愚なら匹夫でも神器を狙う。だから宮中が乱れれば天下が沸き立ち、朝廷の綱がひとたび緩めば全土が兵に苦しむ。
  • この安定と危うさの分かれ目は古今を通じて明らかなのに、歴代の君主は誰も作り変えられなかった。天下が乱れないことを望まずして、それが得られるはずもない。ああ、帝王の道はよく鑑みねばならぬ。

兄弟の追尊と墾田調査

  • 癸丑、兄の劉縯を斉武公、劉仲を魯哀公と追尊した。
  • 盧芳が匈奴から高柳に入った。左馮翊蓋延が没した。
  • このころ天下の耕地の申告に虚偽が多く、民は不満をこぼしていた。諸郡がそれぞれ役人を派遣して報告させた。帝が陳留の役人に会ったとき、その文書の下に添え書きがあり、「潁川と弘農は追及してよい、河南と南陽は追及してはならぬ」と書いてあった。
  • 帝が問いただすと、役人は長寿街で拾ったものだと偽った。東海公の劉陽が帳の後ろにいて、役人は郡の指示を受け、耕地を基準に民を比較しようとしたのでしょう、と言った。帝が、それならなぜ河南・南陽は追及してはならぬと書くのか、と難じると、劉陽は、河南は帝都で側近が多く、南陽は帝の郷里で近親が多い、だから田宅は追及できないという意味です、と答えた。
  • そこで役人を追及すると、まさに劉陽の言うとおりだと白状した。これにより帝はますます劉陽を重んじた。