春正月 大赦と北方の平定
- 正月甲申、天下に大赦した。
- 耿況と耿舒が彭寵の邑である軍都を取った。そこで況を隃靡侯、舒を牟平侯に改封した。
- 祭遵と耿弇が張豊を撃つと、豊の功曹が豊を捕えて降った。もともと豊は方士を好み、方士から、あなたは天子になるはずだ、と言われ、袋に石を入れて豊の肘に付けさせ、この石の中から玉璽が出ると言われて信じ込み、それで反したのだった。誅されるに臨んで祭遵の掾がその石を割って見せると、豊は、死ぬのも当然だ、と嘆いた。
- 帝は耿弇に彭寵を防がせた。弇は上疏して、大軍がまだ集まらぬうちは独りで進めません、また一族はみな上谷におり、京師には骨肉の親がありません、洛陽に戻りたい、と願い出た。帝は、将軍は身を挺して国に尽くし、功績はとりわけ著しい、何を嫌い何を疑って召還を求めるのか、方略に努めて功業を成せ、と返答した。
- 耿況は弇が召還を求めたと聞き、末子の耿国を入侍させた。帝はこれを黄門侍郎とした。
桓譚と宋弘
- 以前、帝が司空の宋弘に博識の士を尋ねたところ、弘は沛国の人桓譚を、才学と博識はほぼ劉向・揚雄に及ぶ、と推薦した。召されて議郎・給事中となった。
- 帝が譚に琴を弾かせ、賑やかな曲を奏させたので、譚は宴に侍るようになった。宋弘はこれを聞いて大いに憤り、譚が退出するのを見計らって朝服のまま府に坐っていた。帝が譚を召し、譚が来ると席も与えずに責め、自分がそなたを推薦したのは道徳をもって国を輔けさせるためだ、それが今たびたび鄭の俗楽を進めて雅・頌を乱している、正しい者のすることではない、自ら改められるか、さもなくば罪に問う、と言った。譚は頭を下げて長らく謝罪し、ようやく帰された。
- のちに群臣を集めて音楽の宴を開いたとき、帝が譚に弘の姿を見せると、譚は落ち着きを失った。帝が怪しんで問うと、弘は席を離れ冠を脱いで、譚は自分が推薦した者ですが、忠をもって主君を導けず、朝廷に鄭声を喜ばせてしまいました、先に召して責めたのは自分の罪です、と謝した。帝は弘に謝して譚に衣服を戻させたが、以後は給事中を務めさせなかった。
桓譚の上疏(政治の要)
- 当時は天下が創業の途上で政治の体制が定まっておらず、譚は退けられた身で時務についての上疏を差し出した。
- 国の興廃は政事にあり、政事の得失は輔佐にある。輔佐が賢明なら俊才が朝廷に満ちて政治は時務にかなうが、輔佐が明らかでなければ議論は時宜を失い、施策の過ちが多くなる。国政を執る君主はいずれも教化を興し善政を立てようとするが、結果が異なるのは輔佐の賢愚の違いによる。
- 善き者は世の風俗を見て教えを施し、失敗を見て防止策を立て、威と徳を交互に興し、文と武を交互に用いる。そうしてはじめて政治が時にかない、動揺する民も安定する。
- 昔、董仲舒は治国を琴の調律に喩え、狂いが小さければそのまま合わせられるが、大きく狂えばいったん解いて張り直すほかない、と言った。しかし張り直しは行いにくく、大衆の意に逆らう者は身を滅ぼす。ゆえに賈誼は才ゆえに追われ、晁錯は智ゆえに死んだ。優れた能力があっても、前例を恐れて誰も語ろうとしない。
- また法禁を設けても天下の悪をすべて防げるものではなく、また万人の望みすべてに合うものでもない。おおむね国に便利で事に有益であればそれでよい。
- この上書は取り上げられなかった。
桓譚の再上疏(讖緯批判)
- 当時、天子は讖緯を深く信じており、譚はもとよりこれを好まなかった。また功賞が薄いために天下が速やかに定まらないと考え、重ねて上疏した。
- 先の献策には詔答がなく、憤りに堪えないので、あらためて過ちを申し上げる。天道や性命は聖人でも語りにくく、子貢らですら聞くことができなかった。まして後世の浅薄な儒者に通じられようか。古の図書を集めて増補し飾り立て、孔子に託して讖記と称し、君主を欺く者がいる。これは抑えて遠ざけるべきである。
- 世が安らかなら道術の士を尊び、難があれば甲冑の臣を貴ぶと聞く。いま聖朝は祖先の系統を復興して民の主となられたが、四方にはまだ帰服しきらぬ者がある。これは権謀が十分でないからだ。
- 陛下の人の用い方を拝見するに、弁士には酈食其や随何のような優れた策謀がなく、将帥には韓信や呉起のような勇智と用兵の練達がない。降った者に大恩や重賞を与えて後から来る者を誘うことがなく、あるいはその財物を奪い、召し出しを行い、また疑いためらって年月を重ねても解決しない。
- 古人の言葉に、誰もが取ることは知っていても、与えることによって取ることを知らない、とある。陛下がもし爵禄を惜しまず士大夫と分かち合われるなら、招いて来ない者はなく、説いて解けないものはなく、向かって開かないものはなく、討って勝てないものはない。そうすれば狭いものを広くし、遅いものを速くし、失ったものも取り戻せる。
- これによって帝はいよいよ譚を喜ばなくなった。
桓譚の人となり
- 桓譚は字を君山という。抜群の才があり、広く書物を読んで見ないものがなかった。章句や訓詁の学はやらず、いずれも大意に通じた。しばしば劉歆・揚雄と疑問を検討し議論したが、譚の見解には歆・雄も口を挟めなかった。
- 音楽と琴を好み、性格は飾らず細かな身の処し方にこだわらなかったので、そのために名誉を損なうことが多かった。俗儒の高遠な議論が時務に切実でないのを常々嫌い、そのため排斥された。
- 哀帝・平帝の間、位は郎に過ぎなかったが、王侯貴人はみな交わりを願った。王莽の摂政から簒奪に至る間、諸儒は競って徳を称え符命を作って媚びたが、譚だけは黙して語らず、官は楽大夫に止まった。
史論(袁宏曰)
- 桓譚のように疎遠で身分の低い者が、たびたび君主の心情に触れようとするのは、やはり難しいことだ。
- 君主の心に触れることの難しさには八つある。性質に順逆があること、思慮に異同があること、感情に好悪があること、事柄に隠すべきものと顕すべきものがあること、用いられ方に屈伸があること、謀りごとに内外があること、知恵に長短があること、心づもりに興廃があること、である。
- 順えば喜び、逆らえば怒る。同じなら喜び、異なれば驚く。好めば親しみ、嫌えば疎んじる。過ちは隠したがり、善は顕したがる。屈した者は恥じることが多く、伸びた者は怒ることが多い。言葉は内に伏せられ、志は外に散る。長所は必ず誇り、短所は必ず惜しむ。愛するものは興そうとし、憎むものは廃そうとする。これらはみな君主の側の事情であって、必ずしも天下の正しさではない。ところが臣下が君主に進言するのは、必ず天下の正しさに拠る。それゆえこの八つの間で禍福が分かれるのだから、よく見極めねばならない。
- 一人が行い万人が議論するのは、君主が頼るところであると同時に嫌うところでもある。百姓に心があるのを一人が制するのは、百姓が頼るところであると同時に畏れるところでもある。その君主の嫌うところに触れてその心に入ろうとするのは、天下でもっとも難しい場所に踏み込むことだ。たとえ胸中に害を招かずとも、安らかではいられない。
- ゆえに道を心得た君主は自らの立つ位置を知り、万物が敢えて触れようとしないことを知っている。だから情を柔らげ、己を虚しくして本心を開き、臣を引き出して言い尽くさせ、常に言葉が届かぬことを恐れる。まして臣を抑えつけ弾劾して、自ら口を閉ざさせるようなことがあろうか。
- 三代より前は君臣が和やかで唱和に隔てがなく、見るに足るものであった。五霸や秦漢に至るとその道は乱れ、君臣の関係は人を身構えさせるものとなった。志ある士が苦心して当代の君主の器量を測り、その喜ぶところを迎えてその心に逆らわないようにするのは、事を成し功を挙げて民を大きく庇うためである。とはいえ、それで一時の務めは果たせても、高尚な道からはるかに遠ざかっていることは否めない。
夏四月 呉漢の東方平定
- 夏四月、呉漢が五校の賊を撃ち、東郡まで追い、平原でこれを破った。
- 鬲県の五姓が反して守長を追い出した。諸将は、朝に鬲を攻めれば夕方には落とせる、と言ったが、漢は怒って、鬲の城下に近づく者は斬る、鬲を反かせたのは守長の罪だ、と言い、郡の牧・守・長に檄を回して守長を斬ろうとした。諸将はひそかに、五姓を撃たずに守長を斬るのか、とささやいた。
- 漢が五姓に使者を送り、守長が不埒であり、五姓の財物を奪うのは賊の掠奪と変わらぬ、すでに捕えて処断した、と伝えると、五姓は大いに喜んで相率いて降伏した。諸将は、戦わずして人の城を落とすのは我々の及ぶところではない、と言った。
- かつて夜に賊が漢の軍を襲い、陣中が動揺したことがあったが、漢はどっしりと臥したまま動かなかった。漢が動かないと聞いて軍中はみな持ち場に戻った。漢は精兵を選んで夜襲をかけ、大破した。
- 当時、泰山の豪傑が張歩と兵を連ねていた。漢は帝に、陳俊でなければ泰山を安んじられません、と言上した。そこで俊を泰山太守・行大将軍事とした。張歩がこれを聞いて兵を出し嬴の地で俊を迎え撃ったが、俊がこれを大破し、続けて諸県を攻め落として泰山を平定した。
五月 盧奴行幸
- 五月、帝が盧奴に行幸した。もともと帝は彭寵を征討しようとして盧奴を過ぎたところで引き返した。
- 諸将が呉漢に、敵が破れていないのに帝が帰るのはなぜか、と問うと、漢は、陛下は兵事に明るい、引き返すのは必ず意味がある、と答えた。帝は諸将に、狡猾な賊が魏郡に出て背後に回っている、だから戻るのだ、と告げた。
六月 王霸の垂恵の戦い
- 六月、帝が譙に行幸した。王霸と馬武が垂恵を攻めると、蘇茂が兵を率いて救援に来た。馬武は戦って不利となり霸に救援を求めたが、霸は営を閉じて出なかった。
- 軍吏が抗議すると、霸は、賊兵は精鋭で数も多く、味方の兵は怯え、馬武の軍は挫けて退いている、これは敗北の道だ、いま門を固く閉ざして救わぬと示せば、武の軍は追い詰められて戦意が倍になる、賊が疲れたところを精兵で衝けば勝てる、と説いた。
- 果たして賊が大挙して出て、長時間の合戦となったところで、霸が精騎を出してその背後を撃ち、賊はみな敗走した。
- 蘇茂が再び戦いを挑むと、兵士たちは、賊は先に破れたのだから今は撃ちやすい、と言った。しかし霸は、蘇茂は遠くから救援に来ており、糧食が長期の滞陣に足りない、だから挑戦して一挙の勝利を得ようとしているだけだ、いま営を閉ざして兵を休めれば勝利は完全なものになる、戦わずして人の兵を屈するのが最善の策だ、と言った。
- そこで門を閉ざして堅く守り、兵をねぎらった。城中からたびたび挑発してきたが霸は動かず、蘇茂は結局兵を引いて去った。
秋 彭寵と朱浮
- 秋八月、帝が寿春に行幸した。馬武と劉隆が李憲を舒に包囲した。
- 彭寵が薊を囲み、朱浮は守りきれず単騎で京師に逃げ帰った。尚書令の侯霸が、浮は彭寵の罪をでっち上げて幽州を混乱させ、節に殉じて難に死ぬこともできず寵と対立しました、罪は死に当たります、と弾劾したが、帝は赦した。
冬 秦豊・田戎の平定と江南
- 冬十月、帝が宛に行幸した。朱祐と耿植が秦豊を包囲した。
- 岑彭と傅俊が田戎を夷陵で撃ち、戎は敗れて蜀へ逃げた。彭は積弩将軍の傅俊を江南に、偏将軍の房兖を交州に遣わし、詔書を触れ回って国家の威徳を説かせた。そこで交州牧の鄧讓、蒼梧太守の社稷、交趾太守の楊光――いずれも更始が任用した者――がみな上書して貢献し、江南の郡県もまた使者を通わせるようになった。
- 十二月、帝が黎丘に行幸した。秦豊が不遜な言を吐いたと詔を下し、朱祐らが急攻した。豊は妻子を連れて祐に降り、檻車で洛陽に送られた。
- 大司馬の呉漢が朱祐を弾劾していわく、秦豊は狡猾で連年城を固く守り、陛下は自ら山川を越えて遠く黎丘まで至り、日月のごとき信を示された。それを豊は背いたのであり、天下の知るところだ。誅滅して百姓に謝すべきであった。祐はただちに斬って四方に示さず、詔命を廃して豊の降伏を受け入れた。将帥の任にあらず、大不敬である、と。帝は秦豊を誅したが、朱祐は罪に問わなかった。
是冬 馬援の来朝
- この冬、馬援が隗囂の使者として来た。
- 援は字を文淵、茂陵の人。長兄の況が最も名を知られ、河南太守・窮虜侯であった。況の兄の余は中壘校尉・致符子、次兄の員は増山連率で、いずれも二千石で封侯された。
- 援は幼少から大志を抱き、兄たちも非凡と見ていた。十余歳のころ、同い年の平陵の朱勃が韓詩を講じられたのに、援は文字が書ける程度で恥じ入った。況は援に、小さな器はすぐ出来上がる、朱勃の才は今日で尽きている、お前は大人になれば知謀に優れ、諸事は皆お前から教えを受けることになる、恐れるな、と言った。援は励ましのつもりだろうと思い、内心では信じなかった。
- 援は斉詩を数年学んだが章句の学に耐えられず、況に辞して辺郡で牧畜をしたいと申し出た。況は、お前は大才だから晩成すべきだ、良工は人に磨かぬ玉を見せぬものだ、しばらく好きにするがよい、と言った。支度が整わぬうちに況が死去し、援は喪に服して一年間墓を離れなかった。
- そのころ朱勃は試みに渭城の宰を務めていたが、援は、朱勃もいつかは自分を頼るようになる、と独りごちた。やがて援に大略ありと推薦する者があり、曹督郵となった。罪人を司命府に送る役目のときそれをみな逃がしてやり、そのまま北地に亡命して牧畜を業とした。
- 援の父はかつて牧帥を務め、兄の員を護宛吏としていたので、その旧知や賓客が多く従った。安定・天水・隴西の数郡を転々とし、豪傑が噂を聞いて集まり、賓客は常に数十人に上った。田畑と家畜は日ごとに広がり、羊は五、六千頭、馬は数百群、穀は万斛に及んだ。援は、およそ財を殖やす者は人に施してこそ貴い、そうでなければ守銭奴だ、と嘆じ、これを散じて兄弟や旧友を助け、長安に戻った。
- 王莽の末、盗賊が起こり、優れた人材を求めたので、原渉が潁川太守、援が漢中太守となった。着任したところで王莽が敗れ、兄の員も逃れ去り、増山とともに梁州に赴いた。
- そこへ隗囂が援を綏徳将軍に用いようとした。公孫述が蜀で帝を称し、囂はどちらに付くか決めかね、援を南に遣わして述を観察させた。
- 述はもとから援と旧知だったので、着けば手を取って迎えてくれるだろうと援は思っていた。ところが述は戟を並べた儀仗を仰々しく立てて援に会い、話も尽きぬうちに客館へ下がらせた。翌日、述は威儀を整えて百官を集め、援のために旧交の席を設け、腰をかがめて入場した。鸞旗・旄をつけた騎兵・警蹕、車馬や器物・衣服はいずれも華美で、賓客も甚だ多く、援を引き留めようとした。
- 援は、天下の雌雄はまだ決していないのに、公孫は口中の食を吐き出してでも駆け出て国士を迎え成敗を図ろうとせず、うわべを飾り立てて人形のようだ、こんな所に長く留まる価値があろうか、と言い、数か月で辞去した。囂のもとに戻ると、子陽は井戸の底の蛙で、みだりに尊大ぶっているだけです、東方に専心されるに越したことはありません、と告げた。
- そこで囂は援と拒蜀侯の国遊先に上表を持たせて京師に遣わした。着いてまず尚書のもとへ召され、しばらくして中黄門一人が案内した。宣德殿で援が拝礼すると、帝は大笑して、卿は二人の帝の間を渡り歩いた、卿に会うのは大いに気恥ずかしい、と言った。
- 援は頭を下げて謝し、いまの世は君が臣を選ぶだけでなく、臣もまた君を選びます、と述べ、自分は公孫述と同県で幼少から親しかったが、先に蜀へ行ったとき彼は戟を並べてようやく会った、自分は遠い他国から来た者なのに、陛下は何をもって自分が刺客や姦人でないと知り、これほど気安くしておられるのか、と言った。帝はまた大笑して、卿は刺客ではない、せいぜい説客だ、と応じた。
- 援は、天下が傾覆して盗賊で自ら名を立てる者は数え切れませんが、いま陛下にお会いして、その広大な度量が高祖に符合するのを見、帝王には本物がいるのだと知りました、と述べた。帝はこれを壮として征伐に従わせ、召して語り合うたびに夜から夜明けに及んだ。
- 援は才略が人並み外れ、また縦横家の策を好んだため、官を得られず待詔のままであった。
- 帝は太中大夫の来歙に節を持たせて援と国遊先を送らせたが、長安に至ったところで仇家が国遊先を殺した。遊先の弟は隗囂の雲旗将軍だったので、来歙はその恨みを恐れ、そのまま援とともに長安に戻った。