後漢紀巻第四 光武皇帝 建武三年 27年

春正月 鄧禹の敗北と馮異の勝利

  • 正月、洛陽に親廟を建てた。同日、馮異を征西大将軍に任じた。
  • 鄧禹は召還されると、車騎将軍の鄧弘とともに華陰に戻り、進んで赤眉を撃とうとした。馮異は、赤眉は数が多く、恩信によって傾けることはできても兵力で破るのは難しい、帝は諸将を澠池に駐屯させて東を塞ぎ、自分が連携して西を撃ち、その合流を待って一挙に取るのが万全の策だ、と説いた。
  • しかし鄧禹と鄧弘は、西征しながら召還される身であり、一戦で決着をつけようとして、長時間戦って大敗した。馮異が兵を率いて救援したが勝てず、軍を棄てて配下数人と営に帰った。改めて散った兵を集めて塁を固めた。
  • 折しも赤眉が飢えと疲弊に苦しんだところを謀って撃ち、大破した。降伏した者は八万余、十余万は東の宜陽へ逃れた。帝は璽書を下して馮異を労い、回谿で翼を垂れたが澠池で翼を奮った、東隅に失って桑楡に収めたものだ、と称えた。

関中の平定

  • 当時、延岑が藍田に拠って最も兵力が強く、帝はかつて璽書で慰撫した。その他の豪傑も各地に屯集し、多い者は一万、少ない者でも数千を集めて互いに攻撃し合った。百姓は飢え、黄金一斤が穀五斗という有様だった。
  • 馮異は転戦して上林に駐屯したが、道路が通じず輸送が届かないため、兵士はみな果実を食糧とした。
  • 延岑が豪傑を率いて馮異を攻めたが、異はこれを大破した。岑は連戦して不利となり、与党もみな離反したので、武関から南陽へ逃れた。豪傑たちは、異が赤眉を破り延岑を追い払ったのを見て、みな使者を送って降伏を願い出た。
  • 馮異の威は関中に鳴り響いた。園陵を修め、官府を建て、是非曲直を裁き、盗賊を禁じたので、数年のうちに上林は都のように栄えた。

蘇況の反乱と景丹

  • この月、陝の人蘇況が反して弘農太守を殺した。
  • 帝は夜に景丹を召して檄を示し、弘農太守は無能で賊に殺された、いま赤眉が西から来ると聞くが、蘇況が郡を挙げてこれを迎えるのが心配だ、弘農は京師に近い、将軍は病でも寝たままで鎮めてくれればよい、と言った。
  • 丹を弘農太守として、その手勢を率いさせ、西へ赴任させたが、郡に着いて十余日で丹は死去した。

閏月 赤眉の降伏

  • 閏月己亥、帝が宜陽に行幸した。司馬を前、中書をその次に置き、驍騎と元戎を左右に分けて陣を布いた。赤眉は震え上がり、劉恭を遣わして降伏を請うた。
  • 劉盆子と徐宣ら二十余人が肌脱ぎになって、手に入れていた更始の璽綬を差し出した。宜陽の西に積み上げた武具は熊耳山と同じ高さになった。
  • 世祖は洛水のほとりに兵を並べ、盆子と徐宣らを順に前に並ばせて、降伏を後悔していないか、と問うた。徐宣は答えて、自分たちは長安の東門を出て君臣で議り、聖徳に命を帰することにした。百姓とは成功をともに楽しめても始めを謀ることは難しいので、衆には告げなかった。今日降伏できたのは虎口を離れて慈母のもとに帰ったようなもので、心から喜んでおり恨むところはない、と述べた。
  • 世祖は、卿はいわゆる鉄のなかでも音の澄んだもの、凡庸のなかでも優れた者だ、と言い、みな赦して妻子とともに洛陽に住まわせ、それぞれ屋敷一区画と田二頃を与えた。
  • のちに樊崇が謀反して誅された。楊歆は長安にいたころ広陽王劉良に恩を施していたので関内侯の爵を賜り、徐宣とともに郷里に帰って天寿を全うした。式侯の劉恭は更始の仇として謝禄を殺し、自ら獄に繋がれたが、帝は赦した。世祖は盆子を憐れんで賞賜を厚くし、趙王の郎中としたが、病で失明したので滎陽の官有地を与え、店舗を並べてその税を収入とさせた。

鄧禹の帰還と彭寵

  • 鄧禹は宜陽に至って大司徒・梁侯の印綬を返上した。詔により梁侯の印綬は返され、右将軍とされた。
  • 彭寵が薊を囲み、耿況が兵を遣わして救援した。寵は人を遣わして耿況を誘ったが、況はそのつど使者を斬った。

二月 伝国璽と人事

  • 二月己未、高廟に告げ祀って伝国璽を受けた。天下の長子で父の跡を継ぐ者に爵二級を賜った。
  • 中軍将軍の杜茂を驃騎大将軍とした。茂は字を諸公、南陽冠軍の人で、世祖に従って征伐し、しばしば戦功を立てていた。

三月 伏湛が司徒となる

  • 三月、尚書の伏湛を司徒とした。湛は字を恵公、琅邪東武の人。王莽のとき繍衣執法となり、後隊正に遷った。更始が立つと平原太守となった。
  • 動乱の世に人々が動揺するなか、湛だけは平然として、これまでどおり教授を続けた。妻子に、穀物が一種でも実らなければ国君は食を減らすものだ、いま人がみな飢えているのに自分だけ腹一杯にできようか、と言い、俸禄を分けて郷里を賑わし、身を寄せた者は百余家に上った。
  • 郡中が不穏だったときには属県に文書を回し、互いに侵犯してはならぬ、天が民を生み君を立てたのは長く乱れさせるためではない、老を養い幼を育てて真の主君を待て、と諭した。
  • 門下督が腕力を頼んで挙兵しようとしたので、湛は、孔子が少正卯を誅したのは衆を惑わしたからだ、と言ってただちにこれを誅し、百姓に示した。こうして吏民は信頼して従い、遠近この地だけが無事であったのは湛の力である。

呉漢の広楽の戦い

  • 呉漢が広楽を囲むと、周建が十余万を率いて救援に来た。漢は迎え撃って不利となり、落馬して膝を負傷した。周建らは城に入ることができた。
  • 諸将が、大敵が目の前にいるのに公が臥せっていては全軍が怯えます、と言うと、漢は傷に包帯を巻いて起き上がり、牛を屠って兵をねぎらい、賊兵は多いといっても掠奪をこととする群盗にすぎない、勝てば譲り合わず、敗れれば救い合わない、節義に殉ずる同心の徒ではない、いまこそ封侯を得る秋だ、励め、と言った。これを聞いた兵は奮い立った。
  • 翌日、賊兵が大挙して出て営を幾重にも囲んだ。漢は甲を着け戟を執り、雷のような鼓の音を聞いたら皆で大声を上げて進め、遅れた者は斬る、と命じた。鼓を鳴らして進撃すると賊兵は大破され、広楽は降伏した。蘇茂と周建は胡陵へ逃れ、再び睢陽を囲んだ。

荊楚の反乱と鄧奉

  • 当時、秦豊が黎丘、延岑が武郷、董訢が堵郷、鄧奉が新野に拠り、荊楚は特に乱れていた。帝はこれを図り、岑彭を征南大将軍として耿弇・賈復・朱祐・王常らと力を合わせて討たせた。
  • まず董訢を囲むと、鄧奉が一万を率いて救援に来た。訢と奉の兵は精鋭で、諸将は連戦して不利となり、奉は勝ちに乗じて朱祐を生け捕った。帝はこれを聞いて大いに怒った。
  • 夏四月、帝が自ら南征して葉に至った。訢と奉が道を塞いで進めなかったので、帝が岑彭に、これは将軍の任務だ、と言うと、彭は奮戦してこれを破った。董訢と鄧奉は育陽へ逃げた。
  • 鄧奉は朱祐を通じて助命を請い、帝は旧功臣であることから赦そうとしたが、耿弇が、奉は恩に背いて反逆し、幾年も兵を出し続け、陛下が自ら陣頭に立たれ、敗れてから降るのです、誅さなければ悪を懲らす手立てがありません、と述べたので、奉を誅した。朱祐については捕虜になったことを咎めず、厚く賞賜して元の地位に復させた。
  • 耿弇が延岑を破り、岑は蜀へ逃れた。

五月 日食と劉永の死

  • 五月乙卯晦、日食があり、天下に大赦した。
  • 劉永の部将慶吾が永を斬って降り、吾は列侯に封ぜられた。蘇茂と周建は永の子の紆を梁王に立て、垂恵に拠った。

冬 舂陵行幸と秦豊・田戎

  • 冬十二月、帝が舂陵に行幸して園廟を祀り、大いに酒宴を設けて舂陵の父老や旧知の人々と楽しんだ。
  • 岑彭・傅俊・臧宮を遣わして秦豊を撃たせた。秦豊は鄧で漢軍を阻み、彭らは数か月進めなかった。帝がたびたび彭を責めたので、彭は軍中に、明朝、和成に軍を集結すると令し、それが密かに漏れて秦豊の耳に入るようにした。豊は全軍を西に向けて彭を迎え撃とうとしたが、彭はまっすぐ黎丘を襲った。黎丘は震え上がり、豊が急いで戻って救おうとするのを彭が迎え撃って大破し、そのまま黎丘を包囲した。彭を舞陰侯に封じた。
  • もと汝南の人田戎が南郡で挙兵し、数万の衆を率いて夷陵に屯し、漢に降ろうと謀った。戎の妻の兄辛臣は変節しやすい人物で、彭寵・張歩・董憲・劉永・李憲・公孫述・隗囂・劉芳が得ている郡国を図に示し、洛陽が得た地は掌ほどしかない、まず兵を控えて形勢を見るべきで、なぜ急いで降るのか、と言った。戎は、わが勢は秦豊に及ばぬ、その豊すら征南将軍に囲まれている、まして自分はどうか、降伏に決めた、と答えた。
  • そこで長江から沔水に入り、岑彭に降ろうとして、辛臣と長史を留守に残した。臣は戎の珍宝と良馬を盗み、陸路を昼夜兼行して彭のもとに行き、自分が戎に降伏を説いた、戎は後から来る、と申し出た。そして彭の陣営から戎に書を送り、岑将軍はすでに自分を五千戸侯に封ずるよう上奏し、心を尽くして待遇してくれている、急いで来られよ、以前の考えにこだわるな、と伝えた。
  • 戎は、留守を命じた臣が先に着いて封侯を得たと聞いて疑い、さらに長史の檄が届いて臣が宝物と良馬を盗んだと知り、ますます疑ってふたたび離反した。岑彭は戎を撃ち破り、夷陵に戻って駐屯した。
  • 隗囂が使者を朝廷に遣わした。帝は大いに喜んだ。かねてその評判を聞いていたので心を虚しくして待遇し、返書のたびに自筆で字を呼んだ。
  • この年、彭寵が自立して燕王を称し、李憲が天子を自称した。