後漢紀巻第四 光武皇帝 建武二年 26年

春正月 日食と功臣の封建

  • 正月甲子朔、日食があった。本志の解釈では、日は陽の精であり君主の象徴で、君主の道が欠けると日が蝕される。諸侯が順従すれば王者のしるしとなり、諸侯が権を専らにすれば疑いが日に現れる、という。この日食は危宿十度、斉の分野に当たり、張歩がまだ帰服していないことへの応とされた。
  • 功のあった者二十人を封じ、鄧禹を梁侯、呉漢を広平侯に改封して、それぞれ四県を食邑とした。
  • 諸将が望みの封地を申し出るなか、景丹だけは櫟陽を辞退し、丁綝は郷亭で足りるとした。光武帝は景丹に、関東の数県は櫟陽万戸に及ばない、富貴になって故郷に帰らぬのは錦を着て夜歩くようなものだ、と説き、丹は謝して受けた。
  • ある者が丁綝に、皆が県を求めるのになぜ郷なのかと問うと、綝は、昔孫叔敖は封を受けるとき必ず痩せた土地を求めた、自分は才も薄く功も浅いのに厚遇は受けられない、と答えた。
  • 壬辰、洛陽に宗廟と社稷を建てた。

彭寵の離反

  • 漁陽太守の彭寵と涿郡太守の張豊が反した。
  • もともと帝が銅馬の残党を追って薊に至ったとき、彭寵は郊外まで出迎えて謁見したが、内心不満げであった。帝が幽州牧の朱浮に理由を問うと、浮は、以前呉漢が北で兵を発したとき帝は佩剣を寵に贈り自筆の書で慰撫して北面の主人としたので、寵は特別扱いを期待していたのだ、と答えた。帝が、なぜ彼だけが特別を望むのかと言うと、浮は王莽の宰衡時代の甄豊の例を挙げた。甄豊は朝夕議論に加わり「夜半の客甄長伯」と称されたが、王莽が即位すると疎んじられて不満を抱き、父子ともに誅された、と。帝は大笑して、そこまでは至るまい、と言った。
  • 当時朱浮は州牧として若く、治績を上げようと意気込み、州郡の名士を招き、王莽時代の元二千石の官吏を幕府に置いて礼賢の名を求め、漁陽の倉穀を多く出して貧民に給した。彭寵は、天下未平で軍事が続くのに官属を多く置いて倉穀を費やすべきでないとして、その命令に従わないことが多かった。朱浮は性急で細かな怨みにこだわる性質で、厳格な法文で彭寵を監察した。
  • 彭寵の側も自らの功を誇り、群臣で自分に及ぶ者はない、呉漢や王梁が三公になれたのも自分が送り出したからだ、それなら自分は王になるべきなのに、陛下は自分を忘れたのか、と言った。当時北方諸州は荒廃するなか漁陽だけが無事で、塩と鉄の蓄積があり、彭寵は金宝を多く買い込んだ。朱浮が何度もこれを上奏し、帝はそのつど内容を漏らして寵に聞かせ、脅しをかけた。
  • この春、使者を遣わして彭寵を召した。寵は朱浮も一緒に召すよう上書し、また呉漢・王梁・蓋延に書を送って、自分は無罪なのに朱浮に侵害されていると訴えた。帝は許さず、呉漢らも返書をあえて出さなかった。
  • 疑心を強めた彭寵に、妻は、天下は未定で各地の者が雄を称している、漁陽は大郡で兵馬も最精鋭なのに、なぜ人に讒奏されてこれを棄てて去るのかと勧めた。親しい者に相談してもみな反乱を勧めた。帝は寵の従弟の子である后蘭卿を遣わして諭させたが、寵はこれを引き止め、ついに挙兵して朱浮を攻め、別に兵を分けて近隣の郡を撃った。上谷太守の耿況が子の耿舒に突騎を率いさせて浮を救い、寵の兵は退いた。
  • 帝は游撃将軍鄧隆を潞に駐屯させ、朱浮は雍奴にいて、両軍は百余里離れていた。鄧隆が使者を送って、朝夕のうちに寵を破ると上奏すると、帝は大いに恐れ、営の置き方が誤りだ、軍は必ず敗れる、お前が帰るころには分かるだろう、と言った。彭寵は一万余を潞の西に出して険を挟んで対峙させ、精騎二千を潞の南から河を渡らせて鄧隆の営を襲い、大破した。朱浮は遠くて救えず、兵を引いて退いた。使者が帰って帝の言葉を伝えると、皆その予見を神業と評した。

真定王劉楊の誅殺と耿純

  • 真定王劉楊が謀反を企て、耿純が節を持って劉楊を捕えるよう命じられた。純は命を受けても州郡巡察の使者のように振る舞い、真定に着くと駅舎に留まった。
  • 劉楊は病と称して来ようとせず、書を送って純のほうから来るよう求めた。純は、使者の身で王侯に会うのに牧のほうから先に赴くことはできない、自ら努めて来られたい、と返した。
  • 当時、劉楊の弟の林、邑侯の讓、従兄の紺はいずれも一万余の兵を擁していた。劉楊は自軍の強さを頼み、また純が落ち着いているのを見て、官属を従えて駅舎に出向いた。兄弟は軽装の兵を門外に置いていた。楊が入って会うと、純は礼を尽くして遇し、その兄弟もみな招き入れ、門を閉じて全員を誅し、兵を整えて出た。真定は震え上がり、動く者はなかった。

耿純の東郡統治

  • 耿純は京師に帰ると自ら願い出た。自分はもと下級官吏の家の子で、幸いに大漢の復興に遭い、位は列将、爵は通侯に至った。天下もほぼ定まり、志を用いる場もないので、一郡を治めて力を尽くして報いたい、と。帝は笑って、また人を治めて名を上げたいのか、と言い、東郡太守に任じた。
  • 詔により兵を率いて泰山・済南・平原の数郡を撃ち、いずれも平定した。東郡に数年在任し、強者を抑え弱者を助け、命令はよく行われた。のち長吏を殺した罪に問われて免ぜられ、列侯として朝請に列した。
  • のち帝の東征に従って東郡を通ったとき、老若数千人が車駕について泣き、耿君を戻してほしいと願った。帝は公卿に、耿純は若くして甲冑を身につけ軍にあり、郡を治めてどうしてこれほど慕われるのか、と語り、百官はみな感嘆した。

賈復・呉漢の南陽平定

  • 更始の諸将の多くが南陽に拠っていたが、更始の死と世祖の河北挙兵を聞いて、兵を整えて騒乱を起こした。
  • 帝は諸将を集め、檄で地を叩いて、郾が最も強く宛がこれに次ぐ、誰が郾を撃つか、と問うた。賈復がただちに、自分が郾を撃つと答えた。帝は笑って、執金吾が郾を撃つなら何の心配もない、大司馬は宛を撃て、と言った。
  • こうして賈復が郾を、呉漢が南陽を撃ち、いずれも平定した。しかし呉漢が兵を放って新野を掠奪したため、新野出身の破虜将軍鄧奉が怒り、兵を率いて反し、呉漢を襲って破った。

三月 刑罰を省く詔

  • 三月乙酉、天下に大赦した。
  • 詔していわく、酷吏が残虐に深刻な刑を用い、獄には冤罪の者が多く、朕はこれを深く憐れむ。孔子も、刑罰が適正でなければ民は手足の置き所を失うと言っている。中二千石・諸大夫らとともに刑罰を減らすことを議せよ、と。

劉永の勢力拡大と敗走

  • 更始の敗亡後、劉永が兵で地を略し、北は河南、および陳・汝に及んだ。周建を将軍、蘇茂を大司馬とし、使者を遣わして張歩を斉王、董宮を西海王に立てた。
  • 夏四月、蓋延・王霸らが劉永を撃った。永が城を守って出ないので、昼はその麦を刈り取り、夜に城を襲った。永は大いに驚いて兵を引いて逃げ、蓋延が迎え撃って大破した。永は軍を棄て軽騎で母と妻を連れて虞に奔ったが、虞の人が背いてその母と妻を殺した。永は配下数十人とともに譙へ逃れた。
  • 蘇茂と周建が三万を率いて浦西の蓋延を攻めたが、延が迎え撃って大破した。茂は広楽に、永は胡陵に拠った。
  • 世祖は太中大夫の戴兢を兖州に遣わしたが、東昏の人がこれを捕えて劉永のもとへ送った。兢は永を罵り、お前は国家の敵ですらない、どうせすぐ死ぬ身だ、と言ったので、永は怒って兢を殺した。

四月 宗室の封建

  • 甲午、叔父の劉良を広陽王、兄の子の劉章を太原王、章の弟の興を魯王、もと定陶王の劉祉を城陽王とし、外祖母の黄を湖陽君とした。
  • 劉良はかつて蕭令であったが法に触れて免ぜられた。世祖と斉武王が幼くして父を失うと、良は手厚く養育した。漢兵が挙がったとき世祖が告げると良は大いに怒って聞き入れなかったが、やがてやむを得ず更始に従って関中に入り、大いに尊寵された。更始が敗れると世祖のもとへ帰った。
  • 劉章と劉興はいずれも伯昇の子である。王に封じたものの、若くして高位に就いたので、実務を経験させて名を成させようと、章を平陰令、興を緱氏令の代行とした。まもなく章は梁郡太守、興は弘農太守に遷った。興は賢者を求め善を好み、郡中はよく治まった。朝廷は異論の出る議があるたび、駅伝で興に意見を問うた。
  • 劉祉は字を巨伯といい、世祖の族兄である。謙遜な人柄で宗族に敬われた。更始が敗れると忍んで世祖のもとへ来た。当時宗室のうち祉が最初に至ったので、帝は大いに喜び、車馬・衣服を手厚く賜った。

五月 更始関係者と功臣の処遇

  • 五月、宛王の劉賜が更始の三人の子を連れて朝廷に出頭し、みな列侯とされた。
  • もと元氏王の劉歙を泗水王、歙の子の終を淄川王、もと宛王の劉賜を順侯、劉順を成侯、周の後裔の姫当を周承休公、李通を固始侯とした。
  • 劉歙は字を経世といい、世祖の族父である。歙の従兄の稷は斉武王に功があり、歙の子の終は幼少から世祖と親しく、漢兵が新野を落とせたのも終の働きによる。帝は、歙父子をともに王とするのは、その功に報いて顕彰するためだ、と言った。
  • 劉賜は字を子琴、劉順は字を平仲といい、いずれも世祖の族兄である。賜は更始の敗後、自ら武関まで出向いてその妻子を迎え、洛陽に送り届けた。帝は賜が臣たる道を得ていると、そのたびに褒め称えた。
  • 劉順は帝と同郷で幼少から親しかった。更始の死後、東に帰って世祖に従った。もとより謹厚で、更始に仕えて節を失わなかったので、特に重んじられた。
  • 以前、更始は宛王劉賜・鄧王王常・西平王李通をそろって封国に赴かせ、南方を鎮撫させた。李通は世祖の妹すなわち寧平公主を娶っていた。世祖は即位すると通を召して光禄勲とし、四方に出征するたび通を京師に留めて守らせ、百姓を安んじ宮室を整えさせた。

六月 郭皇后の冊立と外戚郭氏

  • 六月戊戌、郭氏を皇后に立て、皇子の彊を皇太子とし、天下に大赦して、卿と謁者の秩をそれぞれ一等進めた。
  • 郭氏は真定の人。父の昌は孝行で慎み深く、真定恭王が娘を妻として与えた。昌は早世し、その妻は郭主と呼ばれた。礼を好み倹約で、王女の富をもちながら自ら手を動かして働いた。娘は聖通、男子は況という。
  • 世祖が信都から戻った際に聖通を納れて寵愛し、皇子彊が生まれた。況は城門校尉・緜蔓侯とされたが、皇后の弟として賓客が集まっても、いよいよ慎み深く謙譲であった。昌には安陽思侯が追贈された。帝はしばしば況の邸に行幸して賞賜が厚く、京師では況を「金穴」と呼んだ。

鄧禹の関中経営

  • 鄧禹は兵を上林に進め、諸将を率いて高廟に謁し、十二帝の神主を収めて洛陽に送り、園陵を掃き清めて吏卒を置き、雲陽で兵糧を得た。

漢中王劉嘉と来歙の帰順

  • 漢中王の劉嘉と来歙が鄧禹のもとに来て降った。
  • 劉嘉は字を孝孫といい、世祖の族兄。幼くして父を失い、世祖の父である南頓君に実子同様に養われた。斉武王とともに長安に学び、世祖とはとりわけ親しかった。
  • 嘉は漢中王として南鄭に都し、数十万の衆を擁した。南陽の人延岑が武当で挙兵して数万を集め、転じて漢中を攻めて南鄭を囲んだ。嘉は敗れ、残兵は谷口に逃れた。赤眉が廖湛に十余万を率いさせて嘉を撃たせたが、嘉はこれを大破して廖湛を斬り、雲陽に至った。
  • 帝はもとより嘉と親しく、常に引き入れようとしており、来歙も嘉に世祖への帰順を勧めた。そこで鄧禹のもとに降った。嘉を千乗太守・順陽侯、嘉の子の廧を黄李侯とした。
  • 来歙は字を君叔、南陽新野の人。父の沖は哀帝のとき諫議大夫で、世祖の姑を娶って歙を生んだ。才略があり、広く通じ、慷慨として大志があった。兄弟五人のうち世祖はとりわけ歙を親愛した。
  • 漢兵が挙がると王莽は劉氏の親族を捕えさせ、歙も捕えられて打たれたが、賓客が力を合わせて奪い出した。更始が立つと歙は官に就いたが、たびたび諫めても用いられず、病と称して去った。歙の妹は劉嘉の妻であり、嘉が人を遣わして迎えたので南へ赴いた。当時、まだ降るべきでない、天下の形勢を見るべきだと嘉に勧める者もいたが、歙が成敗の理を説いて深く諭したので、嘉はこれに従った。帝は歙に会って大いに喜び、太中大夫に任じた。

秋 睢陽と長安

  • 秋、睢陽が反して劉永が再び入城したので、呉漢・蓋延が諸将を率いてこれを囲んだ。
  • 九月、赤眉が再び長安に入った。鄧禹は戦うたびに赤眉に敗れた。三輔は飢饉で人が互いに食い合い、私兵を持つ者はみな城壁を固め野を清めたので、赤眉が掠奪しても得るものは少なかった。
  • 帝は鄧禹に、兵を固めて堅く守り、窮した敵と決して交戦するな、老いた賊が疲弊すれば必ず手を束ねてこちらに服する、飽いた兵で飢えた敵を待ち、休んだ兵で疲れた敵を撃つのは、鞭で打つようなものだ、と重ねて詔した。
  • 馮愔が宗歆を殺して以来、鄧禹の威信は損なわれ、糧食も乏しく、帰服していた者も離散した。そこで帝は使者を遣わして禹を召還し、馮異に西征させた。
  • 帝は馮異に勅していわく、三輔は王莽・更始の乱に遭い、さらに赤眉・延岑の害を受け、軍勢が入り乱れて百姓は塗炭の苦しみにある。将軍は今、命を奉じて不法の者を討つのだから、降ってきた者はその頭目を京師に送り、小民は解散させて農桑に就かせ、その営塁は壊して再び集まらせぬようにせよ。征伐の要は遠征して地を掠め城邑を多く取ることではなく、平定して安んじ集めることにある。わが諸将は戦いに強くないわけではないが、掠奪を好んで小民の害となる者が多い。卿はもともと吏民をよく取り締まれる。自ら身を正し、郡県を苦しめてはならぬ、と。
  • 馮異は華陰に拠って赤眉を待った。

冬 伏隆の死と張歩の離反

  • 冬、太中大夫の伏隆が青州・徐州に使いし、張歩が降伏した。あわせて令・長を任命して多くを懐柔した。帝はその功を嘉して酈食其になぞらえた。
  • しかし張歩が斉王の位を求めると、伏隆は、高祖は天下と、劉氏でなければ王としないと約束したと答えた。歩は隆を殺し、劉永の封を受けた。
  • 伏隆は字を文伯、大司徒伏湛の子で、節操で知られていた。帝はその死を聞いて涙を流した。

十二月 列侯の復興と寇恂

  • 十二月戊子、詔していわく、王莽に廃された列侯は、その先祖の魂が依るところを失っており、朕は深く憐れむ。本人が廃されただけの者は封国をもとどおりとし、本人が死んで子孫が現存する者はその跡を継がせよ、と。
  • 河内太守の寇恂が、上書した者を拘束して取り調べた罪で免ぜられた。ちょうど潁川が不穏になったので、改めて恂を潁川太守とし、郡中はことごとく平定された。恂を雍奴侯に封じた。
  • 当時、賈復の兵が汝南にあり、その部将が人を殺したので、寇恂はこれを処刑した。賈復は怒り、自分は寇恂と肩を並べる身なのに彼に陥れられた、大丈夫たる者、辱められて決着をつけぬことがあろうか、今度会ったら自ら剣で斬る、と言った。
  • 恂は避けようとし、部下の終崇は、剣を持って従います、何かあれば十分お相手できます、と申し出た。しかし恂は、そうではない、昔、藺相如は秦王を恐れなかったのに廉頗には身を屈した。それは国のためだ。小国の趙にすらこうした義士がいた。自分がそれを忘れてよいものか、と言った。
  • そこで県に命じて饗応の支度を盛大に整えさせ、執金吾の軍で境内に入った者一人につき二人で応対させた。恂は賈復を迎えたが、途中で病と称して引き返した。復は恂を追撃しようとしたが、兵士たちはみな酔っており、そのまま去った。
  • 帝が恂を召し、恂が至って通されると、先に来ていた賈復が立ち上がろうとした。帝は、天下は未だ定まらぬのに二頭の虎が私闘してよいものか、と言い、詔して並んで坐らせた。宴は大いに和み、二人はともに車で出て友誼を結んで別れた。
  • 恂は改めて汝南太守とされた。郡中は無事だったので郷校を整備し、左氏春秋を修められる者とともに自ら学んだ。

是歳 王常と王梁

  • この年、鄧王の王常が妻子を連れて洛陽に来た。世祖は、往時の苦難を思うたび、忘れたことはない、行き来がなくとも平生の言葉に背いたわけではない、と語った。常は頭を下げて、自分は天命に恵まれて陛下に巡り会い、宜秋で初めて出会い、のちに昆陽で再会し、その威霊のおかげで金をも断つ交わりを結べた、疎遠で身分低く遠く離れていても、自ら疑うことはなかった、どうか聖王には自分の本心をお察しいただきたい、と述べた。
  • 帝は百官を集め、王常を指して、この人は諸将を励まし率いて漢家を助けた、その心は金石のごとく、真の漢の忠臣である、と称え、漢忠将軍・山桑侯とした。
  • 大司空の王梁が免ぜられた。もと梁が諸将とともに檀郷を撃ったとき、軍事はすべて大司馬呉漢に統一せよとの詔があったのに、梁は独断で野王の兵を発した。帝は詔に従わなかったとして、所在の県に留まるよう命じたが、梁は臨機の便宜と称して進軍した。帝は大いに怒り、尚書の宋広に節を持たせて梁を斬らせようとしたが、広は梁を檻車に乗せて京師に送った。到着すると赦され、中郎将とされた。
  • 赤眉は長安を去り、東方の郡県を掠奪した。