後漢紀巻第三 光武皇帝 建武元年 25年

春正月 鄧禹の河東平定

  • 春正月、鄧禹が安邑を攻めた。王匡・成丹・劉均らは兵を合わせて十余万で鄧禹を攻撃し、鄧禹は戦って利あらず、驍騎将軍の樊崇が陣中で戦死した。日が暮れて兵も疲れ、韓歆や諸将は敗色と敵の勢いを見て夜のうちに退くよう諫めたが、鄧禹は聞き入れなかった。
  • 翌朝の癸丑、王匡らは六甲の窮日にあたるとして出撃しなかったので、鄧禹はその間に軍備を整え、敵が出てきてもみだりに動くな、営の下まで引きつけてから撃て、と軍中に命じた。王匡らが全軍で押し寄せると、鄧禹は太鼓を打って一斉に進み、大いに破って劉均と河東太守の楊宝を斬り、河東を平定した。
  • 鄧禹は承制によって軍祭酒の李文を太守に任じ、県令をすべて入れ替えて鎮撫にあたらせた。

元氏・慎水の戦い

  • 王は元氏で銅馬を撃ち、耿弇と呉漢に精兵を率いさせて先鋒とし大破して、慎水の北まで追撃した。
  • 漢の軍が勝ちに乗じて迫ると賊は死にもの狂いで戦い、漢軍は大きく崩れた。王は自ら刃を振るって賊を防ぎ、刃を交える前に耿弇が射かけて賊を食い止めた。岸が高くて登れず、王は馬から落ちたが、そこに突騎の王豊が居合わせて馬を差し出した。王は王豊の肩を撫でて、危うく賊に突かれるところだったと言った。
  • 馬武が後方で懸命に戦ったため賊は前に出られなかった。逃げ散った兵はまず范陽に逃れ、王はすでに戦死したという者もいて軍中は恐慌に陥り、どうしてよいか分からなくなった。呉漢が、王の兄の子が南陽にいる、何を憂えるのかと言い、ほどなく王が到着して士気は立ち直った。
  • 夜になって賊は引き揚げた。王は漁陽に退いてこれを破り、呉漢は別働で右北平まで追撃して三千余の首を斬った。

馮異と李軼の往復書簡

  • 更始は廩丘王田立、大司馬朱鮪、白虎公陳僑に三十万の衆を率いさせ、李軼の洛陽守備を助けさせた。
  • 馮異は李軼に書を送った。要旨はこうである。明鏡は形を映すためのもの、過去の事は今を知るためのものだ。昔、微子は殷を去って周に入り、項伯は楚に叛いて漢に帰し、周勃は代王を迎えて少帝を退け、霍光は孝宣帝を尊んで昌邑王を廃した。いずれも天を畏れ命を知り、祖宗を重んじ万民を憂え、存亡の兆しを見て廃興の必然を悟ったからこそ、一時に功を成し万世に業を伝えた。
  • いま長安は壊乱し赤眉は郊外に迫り、王侯は争い大臣は離散し、朝廷に紀綱なく四方は分崩して異姓が並び立っている。これこそ劉氏の憂いだ。だから蕭王は霜雪を踏み越え自ら矢石に当たって河北を経営し、英俊は雲のように集まり百姓は帰服した。豳や岐の慕われようも喩えにならない。
  • いま馬子張(馬武)は親任され爵位もあのとおり、謝躬は逆らってあのように誅された。これも明白な証拠だ。季文(李軼)が本当に目覚めて速やかに大計を断ずるなら、古人に並ぶ功を論じられ、禍を福に転じるのはまさに今だ。猛将が長駆して厳しく城を囲んでからでは、悔いても及ばない。
  • もともと李軼は劉伯昇を讒言して害しており、降りたくても心中穏やかでなく、王が受け入れてくれることを望んで馮異に返書した。要旨はこうである。自分はもと蕭王とともに漢を興す謀を首唱し、死生を共にすると約したが、思いがけず途中で別れた。いま自分は洛陽を守り、将軍は孟津を鎮め、ともに要となる位置を占めている。千載一遇の機会であり、金をも断つ交わりを成したい。ぜひ蕭王に深く取り次いでほしい、愚策を進めて国を佐け人を安んじたい、と。
  • 馮異が李軼の書を上奏すると、王は馮異に、季文は詐りが多く要領を得ない、いまこの書を回覧させて守尉に警備すべき旨を告げよ、と返した。李軼が大軍を擁して名だたる都に拠りながら降伏の意を示しているのに、それを公にするのを人々は不審に思った。
  • 李軼の書が広まると朱鮪がこれを手に入れ、人を遣って李軼を殺した。洛陽の大軍は離反し、降る者が多く出た。

寇恂、温を守る

  • 蕭王が北へ向かうと、朱鮪は蘇茂に三万を率いさせて黄河を渡り温を襲わせ、自らは数万を率いて平陰を攻めた。
  • 寇恂は属県の兵を徴発して温で合流するよう命じた。軍吏はみな、洛陽の兵が絶え間なく渡河しているのだから援軍が揃うのを待って撃つべきだと諫めたが、寇恂は、温は郡の垣根であり、温を失えば郡は守れないと言って駆けつけた。
  • 翌朝、まだ陣形が整わないうちに馮異が到着した。寇恂は士卒を城壁に登らせて「公の軍が来たぞ」と鬨の声を上げさせ、蘇茂の陣が動揺したところへ突撃して大破した。蘇茂の兵は黄河に身を投げて半数以上が死に、副将の賈強を斬った。そのまま勝ちに乗って渡河し、洛陽城を一周してから引き返した。以後、洛陽は震え上がり、昼でも城門を閉ざした。
  • 当初は朱鮪が河内を破ったと伝わったが、ほどなく寇恂の檄が届いた。上は大いに喜び、寇子翼は任せられる男だと思っていた、と言った。

三月 李松の敗北

  • 三月、李松が蓩郷で赤眉と戦って大敗した。

公孫述の即位

  • 李熊が公孫述に説いた。山東は飢饉で人が人を食い、百姓は塗炭の苦しみにあり、城邑は廃墟となっている。いま蜀の地は豊沃で作物はしばしば実り、果実は自生し、穀物を作らなくても腹が満ち、女工の産物は天下を覆う。陸には器械の用があり、水には漕運の便がある。
  • 北は漢中に拠って褒斜の険を塞ぎ、東は巴郡を守って扞関の口を拒む。地は数千里四方、戦士は百万。利があれば出て地を略し、利がなければ堅守して農に力を注ぐ。東は漢水を下って秦の地をうかがい、南は長江の流れに乗って荊・揚を震わせる。まさに天を用い地に因って功を成す資本だ。
  • いま君王の名声は天下に聞こえているのに号位が定まらず、志士は迷っている。ただちに大位に即いて遠方の人に知らしめるべきだ、と。
  • 公孫述はもっともだとした。折しも府殿の中に龍が現れ、夜には光があったので、公孫述はこれを符瑞とした。
  • 夏四月、公孫述は自ら天子の位に即いた。

李業の死

  • 広漢の人李業、字は巨遊は、かつて郎を務めたが、王莽が居摂すると病と称して去り、招聘に応じず山谷に身を隠していた。
  • 公孫述はかねてその名を聞いて博士にしようとしたが、李業は病を理由に応じなかった。公孫述は招けないのを恥じ、大鴻臚の尹融に詔と鴆毒を持たせて遣わし、起てば大位を授け、起たなければ鴆を賜うと伝えさせた。
  • 尹融は李業を諭した。いま天下は三分し、どちらが正でどちらが非とも言えない。なぜ後先の分からぬ淵に身を投げるのか。朝廷はあなたに名徳を求めること厚い。上は知己に応え、下は妻子のために計れば、身も名も全うできて結構ではないか。いま衆心に逆らえば凶禍がたちどころに加わる、得策ではない、と。
  • 李業は嘆じて言った。危うい邦には入らず乱れた邦には居らず、とはこのことだ。君子は危機に臨めば命を投げ出すもの、高位で誘えるものか、と。
  • 尹融は李業の決意がいよいよ固いのを見て、家族を呼んで相談すべきだと重ねて言った。李業は、丈夫はとうに心の内で断を下している、妻子が何だ、と言い、鴆を仰いで死んだ。

史論(袁宏曰・名)

  • 名とは心志の看板である。行いが一家に著れれば一家が称え、徳が一郷に広まれば一郷が推挙する。博愛を仁、惑いを弁ずるを智、難に立ち向かうを勇という。実に因って名が立つのであって、本を違えたものはない。
  • 最上は理に従って実を修め、理が現れて名が流れる。その次は名を保って自分のためにするので、名を立てても人は怨む。最下は名にかこつけて人に勝とうとするので、名が盛んなほど害が深い。
  • ゆえに君子は心を洗って道を行い、ただ徳が修まらず義が高くないことを恐れる。善を尊ぶのは名を求めるためではないのに名は外に輝き、悪を去るのは誉れを狙うためではないのに誉れは外に広まる。だから名が盛んでも人はこれを害さず、誉れが高くても世は争わない。
  • 末世が衰えて世路が険しくなると、戒めを守り聞達を求めない者であっても、讒言が勝ち道が消え、民が上を怨むようになると、上の者は名声が人を動かすのを恐れ、賢者を討って威を示したり、仁義に託けて欲を遂げたり、賢者を礼遇して自らを重く見せたりする。そこで倒れ伏して死に所を得ない者、屈辱を受けて居場所を失う者が出る。賢人君子はこれを深く知り遠くまで見通して、密やかに身を退けておくべきである。
  • 易に「咎もなく誉れもなし」とあるのは衰世の道である。身を潔くして節操を汚さず、善を守って業を変えず、存亡を通じて態度が一貫し、身を滅ぼしても悔いない者は、これもまた貞操の士である。ああ、大道が行われれば万物は聖賢とともに通ずるが、それが衰えれば君子は死に所を得ない。悲しいことだ。

三王の乱と更始の敗走

  • 更始の諸将は赤眉の到来を恐れ、申屠建らと御史大夫の隗囂がそろって更始に帝位を譲るよう勧めたが、更始は応じなかった。申屠建らは更始を脅して奪おうと謀ったが、実行前に侍中の劉熊卿が謀を察して密告し、更始は申屠建を召して斬った。
  • 張卬・廖湛・胡殷は自ら王を称し、兵を率いて宮門を焼いた。隗囂は賓客を率いて天水に奔った。
  • 更始は宮中で三王と戦って勝てず、妻子と車騎百余人を率いて東の新豐に至り、大司馬の趙萌のもとに身を寄せた。趙萌は、王匡・陳収・成丹はいずれも三王と通じているから捕えて斬るべきだと言い、更始は陳収と成丹を召してその場で斬った。王匡は召しに応ぜず、陳収・成丹の兵を併合して長安に帰り、太子宮で三王に合流した。趙萌と李松もそれぞれの兵を率い、太倉で更始に従った。

五月 尊号の勧進

  • 五月、蕭王は漁陽から范陽を通り、戦死した士卒の収葬を命じ、中山に至った。
  • 群臣が尊号を奉って言った。はじめ昆陽を征して王莽は敗亡し、後に邯鄲を伏せて北方の諸州が平定された。これは人の力だろうか。天下を三分してその二を有し、州にまたがり土地に拠り、甲兵百万を擁している。武功で論じても争う相手がなく、文徳で論じても譲る相手がない。号位を正して社稷のために計るべきだ、と。王は聴かなかった。
  • 諸将が重ねて請うと、王は、賊はまだ平らいでおらず四面に敵を受けている、なぜそう急いで位号を正そうとするのか、と言った。
  • 諸将が退出したあと耿純が進み出て言った。天下の士大夫が親戚を捨て土地を棄てて矢石の間で大王に従うのは、龍の鱗に攀じ鳳の翼に付き従って志を遂げたいと望むからだ。いま功業は定まり、天時も人事も見通せる。それなのに大王が時機を引き延ばし衆意に逆らって位号を正さなければ、士大夫は望みを絶ち計も尽きて故郷に帰る気になり、大王に従う者はいなくなる、と。
  • 王はその言葉に動かされ、馮異に群臣の議を尋ねさせた。馮異は、三王が背いて更始は敗亡し天下に主がない、宗廟の憂いは大王にかかっている、衆議に従い、上は社稷を安んじ下は百姓を済うべきだ、と述べた。
  • 王は、昨夜、赤い龍に乗って天に上る夢を見て、目覚めてから胸が高鳴っている、これは何の兆しかと問うた。馮異は再拝して賀し、これは天帝の命が精神に現れたもので、胸が高鳴るのは大王が慎重を極めておられる証しだ、と答えた。
  • 折しも諸生の強華が長安から赤伏符を奉じて鄗にやって来た。群臣は再び請うて、受命の符は人が応ずることこそ大事である、いま万里を隔てて信が合致した、周の白魚の瑞など比べものにならない、符瑞は明らかであり、天神に応えて上帝を輝かせるべきだ、と述べた。
  • 六月己未、鄗で皇帝の位に即き、年号を建武元年と改め、天下に大赦し、鄗を高邑と改めた。

史論(袁宏曰・立君の道)

  • 天が民を生んで君を樹てたのは、民を司牧して謀の主とするためである。だから君が重んずべきものを量って明らかにするのが帝王の略であり、弘めるべきものに因ってそれを伸ばすのが風化の本である。
  • 天下の大きさ、群生の多さをもって一人の賢者を挙げて民の上に置くのは、その私的な寵愛に資し肥え太らせるためではなく、物を開き務を成し、性命を正し、経綸して会通させ、民の願うところを済うためである。
  • ゆえに君を立てる道には仁があり義がある。年長を崇めて仁を推すのは自然の理であり、治まるのを好み乱れるのを憎むのは万物の心である。仁を推すなら道の足りた者が君たるべきであり、乱を憎むなら広く済う者が必ず王となる。だから上古の世は民心が純朴で、ただ賢者にのみ位を授け、譲り合って治まった。これは天理に本づき、君が徳によって建った例である。
  • 愛敬と忠信は情性から出るものである。愛敬に因れば親疎尊卑の義が明らかになり、忠信に因れば本を保ち旧を懐かしむ節が現れる。尊があり親があれば名器が尊ばれ、本があり旧があれば風教が固まる。だから中古の世は継体が相承して名教を心に抱き、仁心は二つにならなかった。これは物の性に因り、君が義によって立った例である。
  • したがって君を立てる道はただ徳と義だけであり、民心を一つにするのにこれに勝るものはない。先王が天下を維持し民を同じくした極致であり、千載を通じて変わらぬ道である。
  • 昔、周・秦の末に四海は鼎の湯のように沸き、義を思う心は姫氏から絶え、干戈は嬴氏に加えられ、天下に君なく六合に主がなかった。一時の傑物を求めて乱を収める功を成すには、必ず百姓が味方する者を推して万乗の柄を執らせる。名が義帝ほどであろうと、強さが西楚ほどであろうと、この事を論ずる資格はない。これによれば高祖が天下を有したのは徳によって建ったのである。
  • 成帝・哀帝の間に国嗣が三たび絶え、王莽が権に乗じて神器を盗んだ。しかし継体の政治はまだ民心を失っておらず、劉氏の徳沢は実に人心につながっていた。だから寝廟を立てれば百姓は見て旧を懐かしみ、衣冠を正せば父老は見て涙を流した。徳に感じて思いを寄せることがこれほど深かったのである。あの王郎や盧芳のような奴僕同然の輩ですら、ひとたび名号を借りれば百姓は雲のように集まった。まして劉氏の血筋ならなおさらである。この時にあっては君は義によって立ったのだ。
  • とすれば更始の挙兵は義に乗じた動きであり、号令は一人から出て爵命は天下に班たれた。咸陽を定めて四海に臨み、旧宮を清めて宗廟を祀った以上、すでに君となっていた。世祖は経略の節を受けて出、詔辞を奉じて征伐したのだから臣の道を尽くしていた。とすれば三王が乱を起こしたとき勤王の師は至らず、長安がなお存するうちに建武の号が立てられた。南面して天下を有したとはいえ、道を尽くしたとは言えない。

赤眉、劉盆子を立てる

  • はじめ赤眉は二手に分かれて関に入り、弘農でまた大きく集結して衆を分け、一万を一営とした。
  • 軍中にかつて斉の巫がいて城陽景王を祀っていた。巫は、景王は大いに怒っておられる、天子となるのならよいがなぜ盗賊などしているのか、災いがあるぞ、と告げた。巫がそう言うたびに病が出た。
  • 方望の弟の方陽は、更始が兄を殺したことを恨んで樊崇らに説いた。更始は荒れて政令が行われていない。将軍は百万の衆を擁して西の帝城に向かおうというのに称号がない。このままでは群賊にすぎず長くは続かない。宗室の者を擁して誅伐を行えば、服さぬ者はない、と。
  • 樊崇らはもっともだとし、巫の言葉にも迫られて景王の後裔を探し、七十余人を得た。その中で劉盆子が最も血縁が近かった。この月、赤眉は劉盆子を天子に立てた。
  • 劉盆子は十五歳、髪を振り乱し裸足のままで、衆人が拝礼するのを見て恐れて泣き出しそうになった。樊崇らは自分たちで官を割り振った。樊崇はもともと最初に挙兵し、勇力と方略があって徐宣らも皆これを首領と仰いだが、字が書けなかった。徐宣は元は獄吏で易経に通じていたので、徐宣を丞相、樊崇を御史大夫に推した。
  • 劉盆子は元の式侯劉萌の子で、王莽のとき廃されて庶人となっていた。更始が式を通過したときに連れ去られ、二人の兄の劉恭・劉茂とともに軍中にいた。
  • 更始が洛陽に赴いたとき、劉恭は従って南宮で謁見し、前に出て頓首して、元式侯の世子である、大漢が復興し聖主が堂におられるのは喜びに堪えない、寿を献じたいと述べた。詔があって殿上に招かれ、「九族すでに睦み、百姓を平章す」と唱えて寿を献じた。更始は喜んで式侯に封じた。劉恭は尚書に通じ経学に明るかったので、しばしば意見を述べることを許され、侍中に抜擢されて更始に従って関に入った。劉茂と劉盆子は赤眉の中に留まった。
  • 劉盆子はかつて劉侠卿のもとで牛飼いをしていた。天子に立てられた後も朝夕、劉侠卿を拝み、侠卿はそのたびに跪いた。
  • のちに郭北で景王を祀ったとき、劉盆子を立派な車馬に乗せたが、草地の牧童たちが皆その車について来て、盆子があの中にいると言って見物した。祠所に着いて劉盆子が拝礼すると、樊崇らもそろって拝礼した。祭が終わるとまた侠卿のもとに帰り、外に出て牧童たちと遊ぼうとして侠卿に怒られて止められた。樊崇らももう様子を見に来なくなった。

秋七月 三公の任命

  • 秋七月辛未、前将軍の鄧禹を大司徒とし鄼侯に封じ、野王令の王梁を大司空とし武強侯に封じた。
  • 赤伏符に「王良、衛を主り玄武と作る」とあり、上は野王が衛の地であること、玄武が水神であること、大司空が水土を司る官であることを結びつけて、王梁を大司空とした。
  • また讖の言によって平狄将軍の孫臧に行大司馬事を命じたところ、衆は大いに不服で、口をそろえて呉漢か景丹が大司馬になるべきだと言った。上は、景将軍は古参の将でその任にふさわしいが、呉将軍には献策の謀があり、苗曾を誅し謝躬を捕えた功が大きい、と述べ、呉漢を大司馬として武陽侯に封じ、景丹を驃騎大将軍とした。

史論(袁宏曰・神道と人道)

  • 天地の性は一つの物ではなく、物を致す方法も一つの道ではない。だから聖人は仰いで天を観、俯して地を察して法象を備え、物を開き務を成して天下の志に通じた。そこには神道があり人道がある。
  • 微かなものを顕にし幽かなものを闡き、遠くにあっても必ず著れ、聡明正直で来るべきことを知る。これは神のなすところである。智によって変化に周く応じ、仁によって広く施し、財を治め言辞を正し、民の不正を禁ずる。これは人のなすところである。
  • ゆえに疑わしい事があったり遠い先を語るときには、必ず神によって明らかにして人心を一つにまとめる。これが変に応じ機に適う神道の用い方である。物を弁別し位を設け、職務に応じて官を置き能に任せ、三度五度と試して性を尽くさせ、黜陟によって功を明らかにする。これが治体を経綸する人道の用い方である。
  • 神物に求めれば蓍策があり、人事に取れば考課がある。よく治める者は必ず物の宜しきに即して両者を併せ用いるから、事を行って過ちがなく、それぞれが所を得る。
  • しかし讖記のような経に外れた言葉、奇怪で妄りな事柄は聖人の道ではない。世祖の中興は王道がまだ夜明け前であり、天に届く功はまさに宰輔の力に頼るべきときだった。それなのに賢者を選ぶことに従わず讖記の言を信じ、王梁を司空に抜擢し、孫臧を上将に委ねたのは、方法を誤っている。方法を誤れば任にその人を得ず、衆心が悦ばず民が耳を疑うのも当然ではないか。王梁は実際に罪を負って余裕がなく、孫臧も何の聞こえもなかった。易に「鼎、足を折り、公の餗を覆す」とあるのは、このことである。

鄧禹の関中進出

  • 上は璽書で鄧禹を労った。将軍は朕と帷幄で謀り、千里の外で勝を決した。孔子は、顔回を得てから門人がいっそう親しんだと言った。山西の平定は功効がとりわけ著しい。汝、司空となって五教を敬んで敷け、と。
  • 鄧禹は汾陰を渡り夏陽に入った。更始の中郎将公乗歙が十万の衆で衙において鄧禹を防いだが、鄧禹はこれを撃ち破った。
  • そのころ赤眉が関に入って三輔は乱れ、民は身を寄せる先がなかった。鄧禹が衙に至り軍紀が整っていると聞くと、百姓は喜んで付き従い出迎え、降る者は日に千を数え、百万の衆と称された。鄧禹はこのとき二十四歳で、駐留先での礼儀作法は、白髪の老人から軍中の諸将まで誰もが満足するものであり、名は関西に轟いた。

八月 寇恂と河内

  • 八月壬子、はじめて懐で社稷を祀った。
  • このとき上は即位したばかりで軍糧が不足していたが、寇恂が絶え間なく輸送したので百官はこれに頼り、上への供給とした。上はしばしば璽書で寇恂を労った。
  • 茂陵の人董崇が寇恂に説いた。上は即位したばかりで四方はまだ定まらないのに、この時期に大郡に拠って内には人民の心を得、外には蘇茂を破って威が遠近に轟いている。これは讒言する者につけこまれ、怨みと禍を招く時である。昔、蕭何が関中を守ったとき鮑生の言葉に悟り、高祖は喜んだ。いま君が率いているのは皆一族の兄弟だ、先人を鏡として戒めとすべきではないか、功成って身を退く計に従うがよい、と。
  • 寇恂はもっともだとし、病と称して政務を執らず、自ら従軍を願い出た。上は河内を離れてはならぬと言い、固く請うても許さなかった。そこで寇恂は兄の子の寇張と姉の子の谷崇を送り、前鋒となることを願わせた。上は喜んで二人を偏将軍とした。

九月 赤眉の長安入城と更始の降伏

  • 廩丘王田立が降った。趙萌と李松が三王を攻め、三王は敗走した。更始は長信宮に移り住み、三王は赤眉に降った。
  • 赤眉の別働隊が出て戦い、李松がこれを防いだが赤眉に生け捕られた。当時、李松の弟の李汎が城門校尉だったので、赤眉は人をやって、城を開けば兄を助けてやると誘い、李汎は城門を開いた。
  • 九月、赤眉が長安に入り、更始は渭浜に逃れた。
  • 式侯の劉恭は、劉盆子が擁立されたことを理由に自ら有司に身柄を預けていたが、赤眉が入城して吏民が逃げ散ると獄を出て、三つの械をつけたまま定陶王劉祉に会って械を解いてもらい、帝が渭浜にいると告げ、共に舟中の更始に会った。
  • 弘農太守の公乗歙が京兆尹の解惲に、帝を弘農に送れば自分が身柄を保証すると言ったが、解惲は、長安はすでに敗れており吏民は信用できないと答えた。右輔都尉の厳本は、更始を失えば赤眉に誅されると恐れ、高陵に精兵があるから行けると言った。
  • 虎牙将軍劉順、定陶王劉祉、尚書任延君、侍中劉恭が徒歩で更始を高陵まで送った。厳本は軍兵で城を守り、外見は宿衛のようでいて、実は更始を囲い込んでいた。
  • 上は更始が城守を失って所在不明だと聞き、詔して更始を淮陽王に封じ、更始とその妻子を害する者は大逆の罪とし、吏のもとに送り届けた者は列侯に封ずるとした。また赤眉や更始の側から降る者は長沙王とするが、二十日を過ぎた者は受け付けないとした。
  • 更始は厳本に囲われていると知り、期限が尽きるのを恐れて劉恭を遣わして赤眉に降伏を請うた。赤眉は大司徒の謝禄を送って降伏を受け入れた。更始が庭下にいるところで殺害の議が出、劉恭と謝禄がそろって助命を請うたが聴かれず、更始は追い立てられた。劉恭が刃を挙げて自刎しようとしたので、樊崇らが押し止め、更始を助命して畏威侯に封じた。劉恭がなお守り続け、樊崇ももともと約束を求めていたので、結局は更始を長沙王に封じた。
  • 更始は常に謝禄を頼り、劉恭が擁護したので、旧知の賓客とも会うことができた。旧知の中に更始を盗み出そうとする者がおり、事が発覚して皆投獄された。以後、謝禄は更始を閉じ込め、劉恭も会えなくなった。

赤眉政権の乱れと劉盆子の辞退

  • 赤眉の諸将は日々集まっては功を争い、それぞれ望みの封を言い立て、剣を抜いて柱を斬りつけた。次第に王莽時代の中黄門数十人を得て、皆が故事に通じていたのでいくらか整ったが、数日でまた乱れた。
  • はじめ三輔の人々は赤眉の兵の強さを恐れ、また更始が降ったのを見て、諸県の営長は皆使者を送って献上し、道には往来が絶えなかった。ところが赤眉の兵はこれを遮って殺し物を奪ったので、吏民は皆城を守るようになった。
  • 封拝を求める上書は劉盆子とは無関係に処理された。劉盆子は日夜泣き、黄門たちのところに行って寝起きを共にし、諸々の台榭に登った。黄門たちは皆これを憐れんだ。
  • 劉恭は赤眉が必ず敗れると見て、兄弟ともに死ぬのを恐れ、劉盆子に璽綬を返すよう勧めて辞譲の言葉を教え込んだ。
  • のち樊崇らの大集会で、劉恭がまず衆中に跪いて言った。諸君は共に私の弟を君に立ててくださり、その徳は誠に深く厚い。立ててから一年になろうというのに散乱はいよいよひどく、とても互いを助け合えていない。このままでは死んでも益がない。兄弟ともに退いて庶人となりたい、改めて賢聖を求められよ。いま君がありながら別に求めれば賢人は出て来ないだろうから、位を空けて広く賢聖を選ぶに如くはない。どうか諸君ご検討を、と。
  • 樊崇らは、すべて我々の罪です、と謝した。劉盆子は牀を降りて璽綬を解き、叩頭して言った。いま天子に立てられていながら盗賊のふるまいは元のまま、四方に伝え聞こえて怨まぬ者がなく、もう誰も信じて寄って来ない。これは皆、その器でない者を立てたためだ。骸骨を乞うて賢者に譲りたい、兄弟は行伍の一員となろう。どうしても私を殺して事を収めたい者がいるなら死は逃れない、ただ諸君の哀れみを願うばかりだ、と。そう言って涙を流し嗚咽した。
  • 樊崇ら郎吏数百人は誰もが感じ入って泣いた。樊崇らは座を降りて頓首し、不甲斐なくも陛下に背きました、今後は互いに引き締めて放縦を許しません、と言い、共に劉盆子を扶けて璽綬を帯びさせた。劉盆子は泣き叫んだが思うようにならなかった。
  • 樊崇らは散会後それぞれ門を閉ざして出ず、三輔での略奪も止んだ。それを聞いた百姓は争って長安に入り、市里はほぼ満ちた。しかし二十余日後、赤眉は財物を貪って大々的に兵を放って掠奪させ、火を放って宮室を焼いた。

更始の最期

  • 三王が謝禄に言った。三輔の営家には更始を取り戻したい者が多い。ひとたび失えば必ず兵を合わせて赤眉を攻めてくる、殺してしまうに如くはない、と。そこで謝禄は兵に更始を殺させた。劉恭は夜に出向いてこれを葬った。

鄧禹の北行と馮愔の乱

  • 諸将は鄧禹に長安を取るよう勧めたが、鄧禹は言った。璽書が来るたびに、窮した赤眉と鋒を争うなと戒められている。いま我が衆は多いが戦える者は少なく、前には頼れる蓄えがなく後には輸送の余裕もない。赤眉は長安を落としたばかりで財富は日々増し、その鋭鋒には当たれない。しかし盗賊は群れ集まって一日先の計もなく、財貨が多くても変事は限りなく起こる、長安を堅守できはしない。上郡・北地は穀物が豊かで家畜も多い。しばらく北道で兵を休め糧を得て士を養い、彼らの疲弊を見てから図るべきだ、と。
  • そこで軍を率いて北へ進み、至る郡県はみな降った。
  • ほどなく積弩将軍の馮愔が車騎将軍の宗歆と愔邑で権を争い、馮愔が宗歆を殺して鄧禹と攻め合った。上はこれを聞いて尚書の宋広に節を持たせて降伏を諭させた。馮愔および更始の諸将である王匡・朝殷・成丹らが安邑に至ったところで、宋広はことごとくこれを誅した。

隗囂の西州割拠

  • 天水に奔った隗囂は再び衆を集め、自ら西州大将軍と称した。長安が壊れると士人の多くが隴西に奔り、隗囂は謙虚に迎え入れ、谷恭・范逡を師友、趙秉・鄭興を祭酒、申屠剛・杜林を治書、王遵・周宗・楊広・王元を将帥とした。

竇融の河西割拠

  • このとき竇融が河西に拠った。竇融は字を周公といい右扶風平陵の人。家は貧しく、若いころ驃騎将軍王舜の令史となった。広く人と交わるのを好み、妹は大司空王邑の側室であったので貴戚の間に出入りし、豪傑と結んで任侠で名を知られた。しかし母と兄によく仕え弱い弟を養い、内々の行いは整っていた。
  • 漢兵が起こると竇融は王邑に従って昆陽で敗れた。漢兵が新豐を取ったとき王邑が竇融は任用できると薦め、王莽は竇融を波水将軍として金千斤を賜い、兵を率いて新豐に向かわせた。三輔が内から潰えると竇融は大司馬趙萌に降り、趙萌は竇融を校尉として非常に重んじ、更始に薦めて鉅鹿太守とした。
  • 竇融は更始が立ったものの東方が騒がしいのを見た。祖父は張掖太守、従祖父は護羌校尉、従弟もかつて武威太守を務めており、代々河西にあって土地の風俗を知っていたので、内心そこに心を惹かれていた。ひそかに兄弟に語った。天下の安危は見通せない。河西は人民が豊かで黄河を帯として固く、張掖属国には精兵一万騎がある。その職を求めてしばらく世を避け、いざ急があれば渡し場を断って自ら守れる。まさに血統を遺すべき土地だ、と。兄弟は皆これを勧めた。
  • そこで竇融は鉅鹿太守を辞退して張掖属国都尉を求め、趙萌が口添えしてついに得た。竇融は大いに喜び、家族を率いて西へ行き、吏民を撫養し、雄傑と結び、羌胡を懐柔したので、河西は和やかに治まった。
  • このとき酒泉太守の梁統、金城太守の庫鈞、張掖都尉の史苞、酒泉都尉の笁曾、燉煌都尉の辛彤はいずれも州郡の俊才で、竇融と旧交があった。更始が敗れそうになると竇融は梁統らと議った。皆こう考えた。天下は乱れて誰に統べられるか分からず、河西は羌胡の只中に孤立している。心を合わせ力を併せなければ自ら守れないが、権も力も互いに均しくては誰も誰かを率いられない。一人を推して将軍とし、共に五郡を保全して世の変動を見るべきだ、と。
  • 一同はよしとして、まず梁統を推した。梁統は固辞し、昔、陳嬰が王位を受けなかったのは老母がいたからだ、いま自分には身内に老親があり、徳も能も薄く督帥の任には当たれない、と言った。梁統は字を仲寧といい安定烏氏の人。若くして春秋を修め法律を好み、更始のとき中郎将として涼州を安集し、そのまま酒泉太守となった。
  • 竇融は兵馬を掌り、また家は代々河西の二千石で吏民の心が向いていたので、一同は竇融を推して行河西五郡大将軍事とした。
  • 当時、武威太守の馬期と張掖太守の任仲の二人は孤立して後ろ盾がなかった。竇融らが議を定めて書を送って諭すと、二人は即座に印綬を解いて位を退いた。
  • そこで梁統を武威太守、史苞を張掖太守、笁曾を酒泉太守、辛彤を燉煌太守とした。竇融は属国にあって従来どおり都尉を領し、従事を置いて監察させ、太守はそれぞれ自分の郡を治めた。賢を尊び士を養い、吏民の心を得ることに努め、騎射を修練し烽燧を整え、羌胡が塞を侵せば竇融が自ら出撃し、諸郡もこれに呼応したので、いずれの郡も富み栄えた。

鮑永と馮衍

  • はじめ更始は将軍の鮑永を遣わして河東の北および幷州を鎮撫させた。鮑永は文徳を好み、将帥でありながら常に儒者の服で事にあたり、日ごろ杜陵の人馮衍を重んじて謀主とし、心を合わせて更始に尽くしていた。
  • 上は諫議大夫の儲伯に節を持たせて鮑永を召させた。当時、更始はまだ生きているとの噂も伝わっていたので、鮑永は儲伯の節を奪って捕え手枷をはめ、使者を長安に送った。更始が確かに殺されたと知ると、哭泣して哀を尽くし、兵を解いて馮衍とともに幅巾姿で上のもとに出頭した。
  • 上が鮑永の軍勢はどこにあるかと問うと、鮑永は席を離れて答えた。臣は更始に仕えながら全うさせられなかった。どうして軍勢を手土産に貴い地位を得られようか。だからすべて解散させた、と。上は不快だった。
  • 当時、魯郡には盗賊が多かったので鮑永を魯郡太守とした。数千人が降ったが、彭豊と虞休だけがそれぞれ千人を率いて将軍を称し降らず、鮑永がしばしば恩と礼をもって諭しても心を変えなかった。
  • そのころ孔子の闕里で荊棘がひとりでに除かれ、講堂から里門の外まで道が開けた。鮑永はこれを異として府丞と魯令を呼び、いま世は困難なのに闕里の荊棘が理由もなく除かれた、これは夫子が太守に饗礼を行わせて姦悪を誅させようとしているのではないか、と告げた。
  • そこで学を好む民を求めて学校の礼を修め、彭豊らを招いて礼を見学させた。彭豊らは牛と酒を持参し、その機に乗じて鮑永を害そうと謀った。鮑永は察知して自ら刃を振るい彭豊らを殺し、その一党を捕えて破り、関内侯に封じられた。
  • 馮衍はまだ官を得ていなかったので、鮑永は、昔、高祖は季布の罪に賞を与え丁公の功を誅した、いま明主に遭ったのだから何を憂えることがあろう、と言った。
  • 馮衍はこう答えた。隣人の妻を口説いた男がいた。年上の妻を口説くと罵られ、年下の妻を口説くと応じられた。まもなくその夫が死に、男は年上の女を娶った。ある人が、あの女はお前を罵ったではないかと言うと、男は、他人のところにいるときは自分を罵ってほしいが、自分のところにいるなら他人を罵ってほしいのだ、と答えた。天地の心は知りがたいが人の道は守りやすい。道を守る臣が、どうして死を患えようか、と。
  • ほどなく馮衍は曲陽令となり、大賊の郭勝らを誅して五千余人を降らせた。功を論ずれば封じられるべきだったが、讒言のために実現しなかった。

卓茂の任用

  • 甲申、元の密令の卓茂を太傅とし、褒徳侯に封じた。
  • 卓茂は字を子康といい南陽の人。温厚で寛雅、恭しく礼があり、自らの身の処し方も物事への対応も可否の間にあって、人に完全を求めなかった。郷里の老若の行いが及ばなくても、すべて受け入れて容れた。
  • あるとき卓茂の馬を自分のものだと言い張る者がいた。卓茂が、馬を失っていつ頃かと尋ねると、もう何か月も経つと答えたので、卓茂は馬を解いて与え、もし私の馬でなかったら返してくれと言った。後に馬の持ち主が本当の馬を見つけ、卓茂の門を訪ねて謝った。
  • 卓茂は徳行によって侍郎に挙げられ黄門に給事し、密令に遷った。その政治は民を我が子のように見、善を挙げて教え、口に悪しき言葉がなかった。
  • ある民が、亭長が米や肉を受け取ったと訴えた。卓茂は、亭長がお前に求めたのか、用事を頼んで受け取らせたのか、それとも平生の付き合いで恩意として贈ったのかと尋ねた。民が、こちらから贈って受け取ったのだと答えると、卓茂は、贈って受け取ったのになぜ訴えるのかと問うた。民は、君が賢明で、民に吏を畏れさせず、吏は民から取らず民も与えないと聞いたからだと答えた。
  • 卓茂は言った。お前は道理を弁えぬ民だ。人が禽獣より貴いのは、仁愛して敬い合うからである。隣近所や長老は折々に礼を尽くす。人の道がそうであってこそ愛を勧められる。そうでなければ横目で睨み合い、怨憎と忿怒が生じる。吏はもとより威力に乗じて強請してはならぬというだけのことだ。よく盗賊を防ぎ強暴を抑えて侵し合わせず、民に争訟があれば曲直を正す、これこそ大きな功である。折々に礼を修め敬って行き来するのは、よいことではないか、と。
  • 民が、それならなぜ律はこれを禁じているのかと問うと、卓茂は答えた。律は大法を設けるもの、礼は人情に順うものだ。いま私が礼でお前に教えれば怨みは残らないが、律でお前を裁けば手足の置き所もなくなる。同じ一つの門の内のことでも、小さければ論罪、大きければ死罪にもなりうる。帰ってよく考えよ、と。民は、まことに君の言われるとおりだ、と言った。卓茂が民を教え法を用いるやり方はすべてこの類だった。
  • 卓茂が着任した当初、吏民は皆これを笑い、隣県や府の官も治績は下等だと見なし、河南太守は代わりの守令を置いた。卓茂は動じずに治め、数年で教化が大いに行われ、道に落ちているものを拾う者もなくなった。天下に蝗害があって河南の二十県が皆被害を受けたが、密の境内にだけは蝗が入らなかった。
  • そのころ王莽が安漢公として大司農六部丞を置き農桑を勧課したので、卓茂は京部丞に遷った。吏民は老いも若きも道で泣いた。王莽が居摂すると卓茂は病で免ぜられ、常に郡の門下掾となったが職吏となることを拒んだ。更始が立つと卓茂を侍中とし、従って長安に至ったが、更始の政治が乱れているのを知って老齢を理由に骸骨を乞うた。この年、七十余歳であった。

史論(袁宏曰・挙賢)

  • 帝王の道で賢者を挙げることより大きいものはなく、賢者を挙げる義にはそれぞれの方法がある。功によって爵を分かち、順を追って試して進めるのが常道である。
  • しかし大徳・奇才があって王道を輝かせ生民を広く済える者なら、たとえ泥土の中にあっても飛び越えて登用してよい。傅巖や磻溪の岸辺にいた者がたちまち宰相の任に就いたのは、古来の道である。
  • 卓公の徳はすでに民の耳目に行き渡っていた。光武のこの挙こそ、君たるにふさわしい所以である。

朱鮪の降伏

  • 呉漢が耿弇ら十将軍を率いて洛陽に朱鮪を包囲したが、数か月経っても落ちなかった。世祖は岑彭がかつて朱鮪の配下だったことから、岑彭に説得させた。
  • 朱鮪は城上、岑彭は城下で、平生のように互いを労った。岑彭は説いた。赤眉はすでに長安を得、更始は三王に背かれた。いま公は誰のために守っているのか。陛下は天命を受けて燕・趙を平定し、幽・冀の地をことごとく有し、百姓は心を寄せ賢俊は雲集し、群賊を誅討して向かうところ破滅させている。いま北方は静まり、大軍を振るって洛陽を攻めている。たとえ公に連なる城の守りがあっても支えきれまい。まして一城を保って何を望むのか、と。
  • 朱鮪は、大司徒(劉伯昇)が害されたとき自分もその謀に加わっていた、罪の深さを自覚しているから降れないのだ、と答えた。
  • 世祖は言った。大事を建てる者は小さな怨みを思わない。いま降れば官爵は保証される、まして誅罰などありえない。黄河の氷はここにある、私は二言はない、と。岑彭がこれを伝え、辛卯、朱鮪は降った。平狄将軍とし扶溝侯に封じた。

冬 洛陽奠都

  • 冬十月癸丑、上は洛陽宮に都を定めた。
  • 十一月、蘇茂が降ったが、ほどなく劉永のもとに奔り、劉永は蘇茂を淮陽王とした。
  • 十二月、赤眉が長安を去り、西へ郡県を略取した。