春二月 大赦と垂恵の降伏
- 二月丙午、天下に大赦した。
- 周建の兄の子である誦が垂恵を挙げて降った。劉紆・周建・蘇茂は下丕へ逃れ、周建は途中で死んだ。
- 孔子の後裔である孔安を殷紹嘉公に封じた。
彭寵の最期
- もともと彭寵を召す文書が届いたころ、潞県で火災が起こり、城中から火が飛び出して城外の千余家を焼き、多くの死者が出た。彭寵の居室では炉火の下で蝦蟇の鳴き声が聞こえ、地を掘っても何も出てこなかった。たびたび怪異があり、卜筮や望気の者はみな、兵乱は内部から起こると言った。
- 彭寵は、従弟の子である后蘭卿がもと朝廷から遣わされた者だったので親しまず、外に駐屯させていた。
- 彭寵の家奴である子密ら三人が主人を襲うことを謀った。彭寵が別室で斎戒して昼寝しているところを、三人は縛って寝台に固定し、外の役人に、大王は斎を解かれた、吏はみな下がって明朝に報告せよ、と伝えさせた。
- そのうえで奴婢を順に呼び出し、彭寵の命令と称して詰問し、次々に捕えて縛り、それぞれ空き部屋に閉じ込めた。彭寵の声を真似て妻を呼ぶと、妻は入って夫が縛られているのを見て驚き、奴が反いたのか、と叫んだ。奴は妻の頭を打ち頬を殴った。彭寵は、早く将軍方のために荷を整えよ、と言った。
- 二人の奴が妻を連れて品物を取りに行き、一人が彭寵を見張った。彭寵は見張りの奴に、お前は幼い者で私が日ごろ可愛がってきた、子密に脅されただけだろう、縄を解いて外に出してくれれば助かる、娘の珠をお前の妻にやり、家中の財物もみなお前にやる、と言った。奴は心が動いたが、戸の外を見ると子密が話を聞いていたので、結局解かなかった。
- 子密は妻を連れて品物を取り、彭寵の子どもたちをみな部屋に閉じ込め、金・珠・衣類を集めて彭寵のところで荷造りし、馬六匹に負わせ、妻に縑の袋を縫わせた。夜になって彭寵の手を解いて文書を書かせ、城門将軍に、子密らを子后蘭卿のもとへ遣わすので城門を開いて通せ、留めるな、と告げさせた。文書ができると彭寵と妻の首を斬って縑の袋に入れ、朝廷へ馳せ参じた。子密は無義侯に封ぜられた。
- 彭寵の尚書である韓立・高宣らは彭寵の子の午を燕王に、子后蘭卿を将軍に立てたが、数日で彭寵の国師韓利が午の首を斬って祭遵のもとに来た。遵は兵を率いて彭寵の一党を誅し、漁陽はついに平定された。
耿況一族への優遇
- 帝は耿況の功を嘉し、長く辺境で労苦したことをねぎらって、光禄大夫の樊密に節を持たせて況を京師に召し、大邸を賜って厚く尊重した。
- 況は年老いて病がちであり、天子はたびたび自ら見舞い、耿弇を召して看病させた。耿弇と耿舒はともに列侯に封ぜられ、耿国は射声校尉となり、さらに二人の子の広と挙が郎とされた。子らがそろって病床に侍り、みな高位の印綬を帯びていたので、当世はこれを栄誉とした。
- 況が死ぬと贈与は手厚く、諡は列侯とされた。子の国が跡を継ぐべきところ、先侯は末子の霸を愛しておりましたと辞退し、上疏して譲ったので、天子はこれを許した。国は謀略に長け、しばしば辺境の事を論じたので天子はその才を重んじ、官は大司農に至った。
三月 龐萌の離反
- 三月、広陽王の劉良を趙王に移した。
- 山陽の人龐萌は更始の冀州牧で、世祖・謝躬とともに邯鄲を平定した。萌は謝躬に、劉公は信用できませんと言い、躬がそれを世祖に告げると、世祖は諭して躬を安心させた。
- 帝が謝躬を誅すと、萌は衆を率いて降った。帝はその兵を取り上げ、以前邯鄲にいたころ私を見抜いていたそうだが、ずいぶん早いことだ、と言うと、萌は、知って久しくなります、と答えた。萌は柔順な人柄で帝も親愛し、侍中とした。かつて諸将に向かって、六尺の孤を託し百里の命を寄せられるのは龐萌だ、と語ったこともあった。
- 萌を平狄将軍として蓋延とともに梁・楚の地を平定させたが、萌は延と権を争い、延に讒言されることを恐れて、ついに兵を挙げて反した。
- 夏四月、平狄将軍龐萌が反いて蓋延を襲い、楚の相孫萌を破り、東平王を自称して、兵を率いて董憲・蘇茂と合流した。
- 帝は、人というものはここまで見抜けぬものか、と嘆じ、詔していわく、私はかつて衆人の前で萌は社稷の臣たりうると言った。将軍たちは私の言葉を笑っていよう。老賊は一族もろとも滅ぼすべきだ。兵馬を整えて睢陽に集合せよ、と。
六月 任城の対峙
- 六月、帝が蒙に行幸した。龐萌・董憲・蘇茂らが三万を率いて挑城を攻め、挑城は急を告げた。
- 帝は軽騎二千と歩兵数万を率い、昼夜兼行で亢父に至った。百官は疲れきって宿営を求めたが、帝は聞き入れず、さらに十里進んで任城に泊まった。
- 翌朝、諸将は賊を攻めようとし、賊もまた兵を整えて待ち構えたが、帝は諸将に出撃を禁じた。当時、呉漢の兵は東郡にあり、使者を馳せてこれを呼び寄せた。
- 萌らは驚いて、数百里を昼夜行軍して来たからには戦うと思ったのに、任城にどっしり坐って人を城下へ来させるとは、これでは攻めに行けない、と言った。二十余日が過ぎ、呉漢が到着してから進撃して大破した。
- 萌・憲・茂はふたたび数万を率いて昌慮に屯し、兵を出して新陽を拒んだが、呉漢が進撃してこれを破り、昌慮を確保した。
竇融と河西五郡
- 当時、河西は遠く隔たっており、世祖は洛陽に都したもののまだ通じることができず、隗囂が漢の年号を用いていたので、竇融らはそれを通じて正朔を受けていた。
- 隗囂は表向き民望を受けながら内心では別の計を図り、説客の張玄を遣わして西河に遊説させた。玄は、一つの姓が再び興ることはない、いま豪傑が競い合って雌雄は未だ決していない、隴と蜀と合従して、上は戦国六国の勢いを成し、下は南越の尉他のような立場を得るべきだ、と説いた。
- 竇融は衆を集めて議した。漢は堯の運を受け継いで暦数は長い。帝の姓が天文に現れることは、以前から博識の士や道術の者が久しく言っており、劉子駿が名を改めてその占いに応じようとしたのもそのためだ。これらは近い時期のことで誰もが見ている。人事の面で言えば、いま天子を称する者は数人いるが、洛陽の兵が最も強く号令が最も明らかで、加えて祖宗の重みがあり百姓が帰服している。天人の応がこうである以上、他姓が争えるものではない、と。衆はみな同意した。梁統は人々が張玄の説に惑わされることを恐れ、玄を刺殺した。
- この夏、竇融と五郡の太守が使者を朝廷に遣わした。帝はかねて五郡が無傷のまま隗囂と公孫述の間に位置していることを聞き、常に招き寄せたいと思っていたので、その上表を得て大いに喜び、使者を遣わして竇融を涼州牧に任じ、璽書を下して褒め迎えた。
秋 東方の平定と魯行幸
- 秋八月、呉漢が昌慮を破り、軍士の高扈が梁王劉紆を斬って降った。蘇茂は張歩のもとへ奔り、董憲と龐萌は朐へ逃げたので、漢はまたこれを押さえた。
- 冬十月、帝が魯に行幸し、大司空に孔子を祀らせた。
耿弇の斉地平定
- 耿弇ら諸将に張歩を撃たせた。歩は祝阿に兵を集め、鍾城に営を連ねていた。弇は祝阿を攻め落とすとき、わざと一角を開けて鍾城へ逃げさせたので、鍾城の兵はみな城を空にして逃げ去った。
- 将軍の費敢が精兵で巨里を守った。弇は軍中に攻城具を増産させて巨里を攻めるように見せた。張歩配下の済南王費邑がこれを聞いて巨里の救援に向かった。弇は諸将に、これこそ求めていたものだ、野戦の兵を撃たずに城を攻めて何になる、攻具を作らせたのは費邑を誘い出すためだ、と告げた。弇は兵を分けて巨野を守らせ、自ら費邑と戦って大破した。斬った首級を持ち帰って巨里城中に見せると、城内は恐れおののき、夜のうちに城を空にして逃げた。弇はその蓄えを収め、兵を放ってまだ降らぬ所を撃ち、三十余の営を平定した。
- 当時、張歩は劇に都し、弟の藍に西安を守らせていた。西安は臨淄から三十里。弇は臨淄と西安の中間に陣を置いた。西安は城は小さいが兵は精鋭、臨淄は名声は大きいが実がなかった。
- 弇は軍中に、五日後に西安を攻めると令した。張藍はこれを聞いて昼夜守備を固めた。ところがその夜半、弇は全軍に食事をとらせ、夜明けに臨淄城に至った。軍吏が異を唱え、臨淄を攻めれば西安が必ず救援に来る、西安を攻めれば臨淄は救援できない、と言った。
- 弇は説いた。そのとおりだ、だから私は西安を攻めると言ったのだ。いま西安は自城の守りに気を取られている。臨淄を攻めれば一日で必ず落ちる、どこに救援があろう。臨淄を得れば西安は孤立し、藍は劇との連絡を断たれて必ず逃げ去る。一つを撃って二つを得るというものだ。しかも西安は城が堅く兵が精鋭で、急には落とせず死傷も多かろう。たとえ城を得ても張藍が兵を率いて臨淄に走れば臨淄はいっそう強くなり、こちらは城を頼りに敵の虚実をうかがうだけになる。私は敵地の奥深くにおり後方の輸送もない。十日のうちに戦わずして行き詰まる。諸君はそこが見えていないだけだ、と。
- 弇は臨淄を攻めて落とした。張藍は臨淄陥落を聞いて果たして衆を率いて劇へ逃げた。劇は臨淄から九十里。弇は軍中に劇の周辺を掠奪してはならぬと令し、張歩が臨淄に来るのを待って撃つことにした。
- 張歩は弇の言を聞いて大笑し、尤来・大彤の十余万をわしはみな破った、いまの大軍はそれより少なく、しかも疲れきっている、破るに足りようか、と言った。
- 弇は上書して、臣は臨淄に拠って壕を深くし塁を高くします、張歩は必ず自ら攻めて来ます、臣は逸をもって労を待ち、実をもって虚を撃ちます、十日のうちに歩の首は自ずと手に入りましょう、と述べ、帝はその策を是とした。
- 果たして張歩は三人の弟、およびもと大彤の頭目である董異とともに二十万を率いて臨淄に至った。弇は都尉の劉歆と太山太守の陳俊に城上で兵を整えさせ、城下にも陣を分けた。賊が北門に至ると歆・俊の兵はいずれも反撃した。歩らは手薄になったところをついて入り込み、弇の本営を攻めた。弇は台に登って見渡し、営が乱れているのを見て台を下りて鎮めた。
- やがて弇は精兵を率いて東の麓で張歩を撃ち、大破した。飛んできた矢が弇の股に当たったが、弇は刀でこれを切り落とし、軍中には気づく者がなかった。
- 弇は歩の兵を疲れさせようとして翌日に決戦しようとした。陳俊が、歩の兵は多い、しばらく帝の到着を待つべきだ、と言うと、弇は、陛下が来られたら臣下は牛を屠り酒を漉して百官を迎えるべきだ、それを賊を君父に残そうというのか、と言い、兵を出して合戦し、また大破した。
- 弇は歩がすでに疲弊したと見て兵を収め、左右に伏兵を置いた。歩は果たして夜に引き揚げ、伏兵が挟み撃ちにした。死者は城中の溝や壕を埋め尽くし、輜重二千余両を得た。弇は兵を放って鉅昧水のほとりまで八十余里追撃し、屍が連なった。
- 数日後、帝が臨淄に至って軍を労い、百官が並び坐した。帝は弇に、将軍はまさに韓信だ、韓信は歴下を撃って名を挙げ、いま将軍は祝阿を攻めて名を起こした、ここは斉の西の境ではないか、と言った。弇は、歴下は歴城のことで祝阿の東五十里、いずれも斉の西界です、と答えた。
- 帝はまた言った。将軍はかつて私に、上谷の兵で涿郡・漁陽を攻め、進んで富平・獲索を撃ち、そのまま東へ張歩を攻めて斉の地を平定すると語った。私はまとまりにくい話だと思ったが、いますべて将軍の策どおりになった。志ある者は事を必ず成し遂げるものだ。将軍には斉を定めた功があり、その功が大司馬に勝ることは日月のように明らかだ、と。
- 張歩は破れて劇に逃げ帰ったところへ蘇茂が到着した。歩は茂を責めて、わが南陽の兵は精鋭だ、お前を待つ必要があったか、と言い、茂は、お前に背いてもいないのに何を言うか、と応じ、兄弟は平寿へ逃げた。帝が、互いに斬って降る者は封ずる、と告げると、歩は蘇茂を斬り、肌脱ぎになって軍門に降った。
- 弇は兵を整えて入城し、十二郡の旗を立て、それぞれ本郡の者をその旗の下に集めた。衆はなお十余万、輜重は七千余両あった。張歩を安丘侯に封じた。
陳俊と琅邪
- 琅邪がまだ平定されていなかったので、陳俊を琅邪太守に移した。斉の地はもとより俊の名声を聞いており、境に入るや盗賊は大いに散った。
- まもなく張歩の兄弟が謀反して琅邪へ逃げ帰ったが、俊が捕えてことごとく誅した。帝はその功を称えて璽書を賜り、将軍の元勲は大いに顕著で、威は青州・徐州に振るった、両州に警急があれば実際に討伐してよい、と言った。
- 俊は貧しく弱い者を撫し、義を尽くして命令が郡中に行き渡り、百姓は歌に詠んだ。俊はしばしば上書して隴・蜀を撃ちたいと願い出たが、帝は、東州が新たに平定されたのは大将軍の功である、海に臨む地は中華を乱す盗賊の巣で国家の重い憂いだ、まずは努めて鎮撫せよ、と答えた。
太学と盧芳
- この年、はじめて太学の官を置いた。
- 十二月、盧芳が天子を自称して九原に入り、数郡を領有した。
来歙・馬援の隗囂への使い
- 以前、帝は来歙に、いま西州は帰服せず子陽が帝を称している、私は関東を静めることに努めており、西方の攻略はまだ誰に任せるべきか決まらない、どうすべきか、と尋ねた。歙は自ら願い出て、臣はかつて関中で隗囂と会いました、彼は当初、漢のために働く計を立てておりました、いま陛下の聖徳は隆盛です、臣が一節を奉じて丹青のごとき信を開けば囂は必ず帰命し、そうすれば公孫は自ずと滅び、勢いから見て図るに足りません、と述べた。帝はもっともとして歙に節を持たせて意を伝えさせ、行き来すること数年に及んだ。
- そこで歙はふたたび馬援とともに隗囂を諭す使いとなった。囂は馬援と起居をともにして京師の善し悪しを尋ねた。援は答えた。先に京師に至って十数回お目にかかりましたが、そのたびに夜から夜明けまで語り合いました。援が主に仕えてこれほどのことは見たことがありません。才徳は人を驚かせ、勇もまた人の敵うところでなく、心を開いて誠を示し、善悪を隠さず、天下の事を図るに周到、敵を量って勝を決するに闊達で大略に富み、高帝に匹敵します。経学の博覧、政事、文辞や弁論に至っては比べられる者を見たことがありません、と。
- 囂が、卿の言うとおりなら高帝に勝るのか、と問うと、援は、及びません、高帝は度量が大きく、してよいこともいけないこともなかった、いまの主上は吏務を好み、動作は規範に従い、また酒を飲まない、そこが及ばぬところです、と答えた。囂は大笑して、それでは却って勝らぬということか、と言った。
- 囂は内心信じなかったが、やむなく太子の恂を入侍させ、恂は胡騎校尉・鐫羌侯とされた。馬援もまた家族を連れて京師に至り、上書して賓客を率いて上林で屯田し、あわせて国威を宣揚し豪傑を招いてわずかなりとも功を立てたいと願い出て、帝は許した。
是冬 侯霸が司徒となる
- この冬、大司徒の伏湛が免ぜられ、尚書令の侯霸が司徒となった。
- 霸は字を君房、河南密の人。厳格で威容があり、家には千金の蓄えがあったが産業を営まず、詩書に志が篤かった。成帝・哀帝の間に郎となり、王莽の時に諸職を歴任して評判を得、臨淮太守となった。
- 王莽が敗れると郡を保って自ら守り、吏民は安んじた。更始が初め謁者を遣わして霸を召したとき、老弱の百姓が互いに手を引いて泣き、使者の車を遮り、道に横たわって、どうか霸を留めてほしいと願った。一年余りの間、民は乳のある女に、侯君が去れば皆生きてゆけぬから子を育てるなと戒めるほどだった。謁者は霸が召されれば臨淮を失うと恐れ、あえて璽書を渡さず、状況を報告した。ちょうど更始が敗れ、世祖が即位して霸を尚書令に召した。
- 当時、朝廷は新たに立って制度が草創であり、政令に民に不都合なものがあれば霸はそのつど奏して省いた。
閔仲叔と王丹
- 侯霸が太原の人閔仲叔を招いた。着任すると霸はねぎらったが政事に触れなかった。叔は述べた。はじめ明公のお召しを受け、喜びかつ懼れました。喜んだのは明公に知られたこと、懼れたのは虚薄な身で補益も拾遺もできぬことです。府の敷居を越えぬうちは喜びと懼れが半々でしたが、掾吏に会って政教を知り、明公にお会いして喜びも懼れも消えました。なぜか。明公が属官に、どうすれば政を明らかにし俗を美しくし、陰陽を調え五品を教え、天下の人を安んじられるかとお尋ねになると期待していたからです。私を問うに足らぬとお考えなら招くべきではなく、任用しながら述べさせぬのなら人を失うことです。智者は私情で人に位を与えず、また人を失いもしません。だから喜びも懼れも消えたのです、と。そして自ら弾劾して去った。後に博士として召されても応ぜず、家で生涯を終えた。
- 太子少傅の王丹が召されて到着しようとしたとき、侯霸は子の昱を遣わして迎えて拝礼させた。丹が車を下りて答礼すると、昱は、父は公と恩義の交わりを結びたいと願っております、なぜ子孫に拝礼なさるのか、と言った。丹は、君房にその言があっても丹はまだ承知していない、と答えた。
- 丹はかつて人の推薦を受け入れて挙用したが、その者が罪を犯したため連座して免官された。しかし推薦者の名を最後まで口にしなかった。その客は大いに恥じて自ら丹と絶交した。丹はまもなく太子太傅となり、人を遣わしてその客を呼んで会い、扱いは薄くないと示したので、客はもとのように落ち着いた。
- 丹の子の同門生が親の喪に遭い、子が駆けつけたいと丹に告げると、丹は五十回打った。理由を問われて丹は答えた。世に鮑叔と管夷吾を称え、次に百里奚と蹇叔、近くは王陽と貢禹という。長い年月を経てもこれほど数えるほどしかないのだ。張耳と陳余はその終わりを凶とし、蕭育と朱博は末に隙を生じた。だからこそ子孫に、友の道は立て難く、身を保ち慎んで惑わされなければ終わりを全うできぬと戒めるのだ、と。
- 丹は字を仲回、京兆下邽の人。王莽の時に連年召されても応ぜず、隴西に世を避けて隠居し志を養った。家には千金の蓄えがあったが施しを好んで急を救った。毎年、農事が終わると力を尽くして多く収穫した者を調べ、酒肴を持参してねぎらった。怠けて収穫のない者はねぎらわれぬのを恥じ、田に励まぬ者はいなくなり、集落は感化されてついに富み栄えた。里に罪を犯す者があれば父兄を諭したうえで法に致し、喪や憂いのある者にはその資力を量って規模を定めた。丹は自らその事に当たり、十年続けて民はみな敦厚になった。
- 陳遵は豪傑の士であった。遵の友人が親を亡くしたとき、遵は縑百匹を贈ったが、丹は縑一匹だけを送り、丹にとってはこの一匹もみな自分の機から出たものだ、と言った。遵は恥じ入って丹と交わりを結びたいと願ったが、丹は許さなかった。更始の時、遵が北へ匈奴に使いする際、丹のもとに暇乞いに寄ると、丹は、ともに乱世に遭い、我ら二人だけが天地に遺された、いまそなたは絶域へ使いするのに贈るものがない、拝礼しないことを贈ろう、と言った。その高潔で屈しないさまはいずれもこの類であった。
- 衛尉の銚期、執金吾の寇恂も丹を慕って友とし、その名は当世に重かった。まもなく位を退き、家で没した。
是歳 隠者の招聘
- この年、会稽の厳光と太原の周党が召された。
- 厳光は字を子陵、若いころ世祖と同学であった。世祖が即位して詔を下し光を召したが、光は姓名を変えて川沢で釣りをしていた。このとき改めて礼をもって求めたので、光はやむなく病の身を輿に乗せて京師へ運ばせた。帝が出向いて会い、子陵よ、助けてはくれぬか、と言うと、光は臥したまま、士にはもとより節を守る者がおります、なぜそこまで迫られるのか、と答えた。天子は三公にしようとしたが、光は病と称して退き、ついに爵を受けさせることはできなかった。
- 周党は字を伯況、立ち居振る舞いは必ず礼に従った。赤眉の乱で各地が荒廃したが、太原に至って党の徳行を聞き、その邑には入らなかった。これによって名は天下に重んじられた。三度召されてようやく参上した。
- 党は短い布の単衣に穀皮の頭巾という姿で尚書に会った。冠服を改めさせようとすると、党は、朝廷はもともとこの姿ゆえに自分を召したのだ、どうして改められようか、と言い、そのまま謁見して自分の志を守りたいと述べ、帝は許した。
- 詔していわく、許由が仕えなくとも唐帝の徳は衰えず、伯夷・叔斉が周の粟を食わずとも王道は損なわれなかった。党を汚れた君の朝に長く逡巡させるに忍びない。帛四十匹を賜って郷里に帰らせよ、と。
- 博士の范升が党を批判する上奏をした。堯は許由・巣父を必要とせずに天下は治まり、周は伯夷・叔斉を待たずに王道が成り、その盛大さは今に絶えていない。太原の周党は使者が三度招いてようやく車に乗り、陛下が自ら会って庭に臨まれたのに、伏したまま謁せず、傲然と自らを高しとし、逡巡して退去を求め、華やかな名を釣り取って主上に誇っている。愚考するに党らは政事に通じておらず登用に値しない。願わくは党と雲台の上で論じ合い、国を治める道について試験されたい。臣の言のとおりでなければ虚偽誣告の罪に伏したい、と。
- 上奏が届くと天子は公卿に示し、詔していわく、古より堯には許由・巣父があり、周には伯夷・叔斉があり、わが高祖には南山の四皓があった。古の聖王には皆こうした異士があり、いまに始まったことではない。伯夷・叔斉は周の粟を食わず、太原の周党は朕の禄を食わぬ。それぞれに志があるのだ、と。
- 党は退いた後、上下二篇の書を著し、沔池で没した。百姓はその賢を慕って祠を建てた。
- 当時、太原の王霸と北海の逢萌もまた隠居して志を養い、ともに招聘された。霸は尚書に至って拝礼したが臣とは称さなかった。理由を問われると、天子にも臣としない者があり、諸侯にも友としない者がある、と答え、そのまま病と称して帰り、茅屋・蓬戸の暮らしにも楽しみを厭わなかった。
- 逢萌は若いころ亭長に仕えたが、慨然として、大丈夫がどうして人に使われようか、と嘆じ、去って師に就いた。王莽が摂政し、子の宇が諫めて莽に殺されたと聞くと、萌は友人に会って、三綱は絶えた、禍が人に及ぶだろう、と言い、ただちに衣冠を解いて東都の城門に掛け、家族を連れて遼東に身を寄せた。天下が定まると琅邪の不其山中に帰り、徳と譲によって隣里を導き、集落は感化された。詔書で召されたが、道に出ると東西が分からなくなり、萌は、朝廷が私を召すのは私が聡明叡智で政に益があると考えてのことだ、いま方角さえ分からぬのにどうして政を助けられよう、と言ってそのまま帰った。後にたびたび召されても応じなかった。
史論(袁宏曰)
- 金が剛く水が柔らかいのは性質の別であり、丸いものが転がり方形のものが止まるのは器の違いである。ゆえに性をよく御する者は金や水の質に逆らわず、器をよく作る者は方円の用途を変えない。物にそれがある以上、人もそうあるべきである。
- ゆえに、思うままに独り行き、官の衣冠を着せられない者は山林の性である。身をかがめて方正に歩み、屈して用いられる者は廟堂の材である。だから先王は性に順ってこれを通じさせ、それぞれにその性を得させた。ここに内と外、隠と顕の道がある。
- 末世が衰えて治乱が多岐にわたるようになると、隠者の生じる由来も多様になった。利の争いが盛んなので静かにして世を鎮める者、時難が険しいので身を全うする者、性が世と和さないので退いて安きを図る者、情が黙していられないので身を巻いて禍を避ける者がいる。おおよそこうした者は目的があってそうするのであって、真の性ではない。それでも有道の君はみなこれを礼遇し尊崇する。進んで取ることを抑え、騒がしい競争を止めるためである。
- ああ、世俗の輩は手を打って彼らを叩き、笑い者にする。何と悲しいことか。
是歳 農事の回復
- 王莽の末から天下は旱と蝗に見舞われて作物が実らず、建武の初めには粟一石が黄金一斤の値となり、人が互いに食い合った。
- 建武二年の秋には野の穀物が自生し、野蚕が繭を作り、民はその実を収めて衣と食糧とした。
- この年、自生の穀物は次第に少なくなったが、南の畝はますます開墾された。