後漢書卷一百二十三 後漢書校勘略

  • 景祐元年(1034年)9月、秘書丞の余靖が上言した。国子監が印刷した両漢書(前漢書・後漢書)には文字の誤りが多く後学を誤らせる恐れがあるため、諸本を参照照合し他書に基づいて校訂したいと願い出て、刊正を望んだ。詔により翰林学士の張観らに詳定を命じ、国子監直講の王洙も靖と共に崇文院で校合の任にあたった。
  • この際、後漢の史書の成立経緯が改めて確認された。明帝が班固・陳宗・尹敏・孟冀に詔して世祖本紀と建武年間の功臣列伝を作らせたのが始まりで、後に劉珍・李充らが建武以後永初年間までの紀伝を編纂、また伏無忌・黄景が諸王・王子・恩沢侯・単于・西羌の地理志を、辺韶・崔寔・朱穆・曹寿が皇后外戚伝・百官表・順帝功臣伝を作り、あわせて百十四篇の『漢紀』と号された。嘉平年間、馬日磾・蔡邕・楊彪・盧植が続けて『東観漢記』を編纂し、呉の武陵太守謝承が『漢書』百三十巻を著した。晋の散騎常侍薛瑩が『後漢紀』百巻を作り、泰始年間には司馬彪が諸説を取り光武帝から孝献帝までを続漢書として著し、散騎常侍華嶠は東観記を刪定して『漢後書』九十七篇を作り、祠部郎謝沈が『後漢書』百二十二巻を、秘書監袁山松が百巻を著した。
  • 宋の宣城太守・范曄に至り諸家を大いに集成し十紀・十志・八十列伝、合わせて百篇を作ったが、十志が未完のまま曄は誅せられた。梁の代、剡令劉昭がこれを補成した。唐の章懐太子李賢の代、詔で当時の学者(右庶子張大安、洗馬劉訥言、洛州司戸参軍格希玄、学士許叔牙、成玄一、史藏諸、周宝寧ら)を集め、共に范曄『後漢書』に注を付け、儀鳳初年にこれを上呈、詔で秘書省に付され今日まで伝わった。
  • 余靖・王洙は館閣の諸本を悉く参校し、景祐2年9月に校訂を終え、増補512字、削除143字、訂正411字を数えた。