後漢書卷一百二十二 後漢書注補志序 劉昭

  • 梁の剡令・劉昭による『後漢書』注補志序。「昔、司馬遷は『史記』を著し八書を建て、班固はこれを広げて十志とした。天人の経緯・帝政の綱維はこれによって区分され、その淵源を開き、山中に秘蔵された宝を初めて世に示し、石に刻んだ記録の先駆けとなった。まことに『春秋』にも劣らぬ繁密さを備え、しかも古を改める点でも機敏であった。永平年間(明帝の代)、東観で簡を執って紀伝を編む段階になっても、志の編纂までは及ばず、旧記の検討も推し進められなかった。地理志は張衡が存続を図ったが未完に終わり、天文志は霊憲(張衡の著)の精緻な洞察が既にあった。蔡邕が大いに律暦を論じ、その業績は多岐に及び、律暦は詳細を極め承洽し、伯始(曹褒)が礼儀を興し郊廟社稷の祭祀を明らかにし、輪騎冠章・車服の制も並び整えられた」。
  • 「かくして応劭・譙周がその業を継ぎ、董巴がその軌を襲い、司馬彪が続書して八志を総合した。律暦の篇は洪(応劭)・邕(蔡邕)の構成に依り、車服の本は董巴・蔡邕の立てた制度に基づき、百官は往制に、儀祀は旧規に依拠して一家をなした。王教の要・国典の源はここに粲然と備わり知ることができる。既に班固の書に接続しその流れを通わせたが、体裁は淵深で及びがたく、致すところは膚浅で懸隔があった。後の名史はこれを補い得ず、叔駿(劉珍か)の書は『十典』と称されたが緩慢に終わり、殺青(完成)にも至らなかった。この二人の業績はいずれも麗富と称されたが、乱世にその法則も泯び失われた。雅言も奥義もここに共に絶えた」。
  • 「沈約・松(沈松)はこの停滞を継承し、新たに功を尽くしたが時代が変わるにつれ旧句を見失い、改めて捜し求める必要が生じた。芸文志を加えて前の欠落を矯め、書品を流れに沿って採集し、初平・永嘉年間の図籍が戦火で焼失した今、その限界を識る者はなく、南晋の新たな虚構を借りて東漢の故実と偽ることもあり、学者もこれを取らなかった。范曄の『後漢書』は良く諸家を超えているが、序が完備せず志が全く欠けたまま、国史は広大なまま留め置かれ、優れた才を待って完成される必要があったが、天才は多忙で、時間をかけて改めて具備すべきものとなった。もし当初から根拠なく始めていたら、その生涯だけでも完結させるのは難しかっただろう」。
  • 「班固は父・班彪の言を承け、深く父の力を頼りとした。太初以前は班固が馬遷(司馬遷)の史記十志に依拠するところが多く、往制を引き継ぎながら二十年を費やして続志を作り、昭表してその間を助けた。父の事業を成すことがどれほど容易でないか、まして范曄は乱世に思いを馳せる中で心が乱れ成果に至らなかったのも当然であろう。それでも辞は潤沢で婉曲、改めて求め検討すれば必ず整えられ、序例で論じたところは精緻を極め、八志への評価も高く、その美点は前人を凌ぐと言えるが、なお本来の趣旨に立ち返るべきである」。
  • 「また調べたところ、本書は本来『礼楽志』として作るべきところ、天文・五行・百官・車服という名は同じであり、この他の諸篇は紀伝に著されず、律暦・郡国は必ず旧来の形式に依るべきところ、范曄が遺した書の自序には『前漢にある志は全て備え、巻中に論を発して得失を正したい』とあったが、その大旨は明らかにされないまま終わった。曾て高く聳えるはずだった楼閣(志の完成)は、そびえる甍にすら及ばぬまま崩れ落ち、痛惜に堪えない。私は思いを馳せ理を継ぐことを願うが、その道を遠くまで辿るのは慚愧に堪えず、旧志の注をもってこれを補うこととした。狭い見聞と浅学ながら、博く遠く及ぶものではないが、及ぶ限りをもって三十巻に分け、范曄の史書に合わせようとした。斉しい功を求めるものではなく、この欠を比べて恨みを庶幾(近づけ)ようとするだけである」。
  • 「昔、褚先生(褚少孫)が司馬遷の欠落を補い、馬(班固?)が孟堅(班固の字)の未完を継いだ相成りの義は古来あるもの、先人の志を引き継ぐことに何の躊躇があろうか。しかし歳月は遥かに隔たり、立言は散逸し義理は存するが、広く求めても一隅すら見出せぬところが多く、鐘律の妙技には通じておらず校讎を揖するのみ、暦算の微には慚愧があり星候を弁じるには疎く、図緯の秘蔵は厳しく閉ざされている。それゆえ常に疑いを略すことに努め、時に見識が得られればそれを傍らに残した。全体を見渡す正確さには乖離があり事は詳密を欠くだろうが、今、行禁止(実行あるのみ)としてこの書を外に絶やさぬようにする、その中の疎漏はまことに咎めるに足りないものと確信している」。