後漢書卷一百九下 儒林列傳第六十九下

詩学の家法

  • 『前漢書』によれば、魯の申公が浮丘伯から詩を受けて詁訓を作り魯詩となった。斉の轅固生も詩を伝え斉詩となり、燕の韓嬰も詩を伝え韓詩となった。三家いずれも博士に立てられたが、趙の毛萇が伝えた毛詩は学官に立てられなかった。

高詡

  • 高詡、字は季回。平原般の人。曽祖父の高嘉は魯詩を元帝に授け上谷太守に至った。父の高容も学を伝え哀帝・平帝間に光禄大夫。詡は父の任で郎中となり、世々魯詩を伝え信行清操で知られた。王莽簒位の際は父子で盲を称して仕えず、光武帝即位後、大司空宋弘の推薦で郎に徴され符離長を経て博士に徴された。建武11年、大司農に拝され方正の誉れ高く、建武13年に官に没し、銭と冢田を賜った。

包咸

  • 包咸、字は子良。会稽曲阿の人。長安に遊学し博士右師細君に師事して魯詩・論語を学んだ。王莽末に帰郷し、東海の境で赤眉賊に捕らえられ十余日拘留されたが、昼夜経を誦し続け賊も異として釈放、そのまま東海に留まり精舎を立て講授した。光武帝即位後帰郷、太守黄讜が戸曹史に任じ子の師とさせようとしたが、「礼には来学あって往教なし」と辞退、讜は子を送って師事させた。孝廉に挙げられ郎中を経て建武年間に皇太子に論語を授け章句を作った。諫議大夫・侍中・右中郎将を歴任し、永平5年に大鴻臚。進見のたびに几杖を賜り、屏を入るに趨らず賛事に名を呼ばれぬ厚遇を受け、経義に疑いあれば小黄門を遣わして問われた。清苦を旨とし、賜った珍玩・束帛・俸禄は貧しい諸生に散じた。永平8年、71歳で官に没し、顕宗は自ら輦で見舞った。子の包福も郎中となり論語を和帝に授けた。

魏応

  • 魏応、字は君伯。任城の人。建武初年、博士に師事し魯詩を学び、閉門誦習し僚党と交わらず京師に称された。帰郷して郡吏、明経に挙げられ済陰王文学を経て病免、山沢で数百人を教授。永平初年に博士、侍中、永平13年に大鴻臚、永平18年に光禄大夫、建初4年に五官中郎将となり千乗王伉に授経。経明行修で著録の弟子は数千人、肅宗(章帝)に重んじられしばしば論難を進見。白虎観の五経同異の講論では専ら難問を掌り、侍中淳于恭の奏で帝自ら制を称し石渠の故事に倣った。翌年上党太守に出て騎都尉に徴されるも官に没した。

伏恭

  • 伏恭、字は叔斉。琅邪東武の人。司徒伏湛の兄の子。湛の弟の伏黯(字稚文)は斉詩に明るく章句を改定し『解説』九篇を著し光禄勲に至ったが子がなく恭を後継とした。恭は孝を尽くし継母によく仕え、若くして黯の学を伝え、建武4年劇令となり13年間恵政公廉で聞こえ青州が尤異に挙げ、太常試経で第一となり博士、常山太守に遷り学校を敦修し「北州の伏氏学」を興した。永平2年、梁松に代わり太僕、永平4年、帝が辟雍に臨んだ行礼中に司空に拝され儒者の栄誉とされた。父黯の章句が繁多だったのを二十万言に整理縮減した。9年間在位し病で致仕、千石の禄を終身賜った。永平15年、帝が琅邪に幸した際は三公の礼で遇され、建初2年、肅宗の饗礼で三老(90歳)となり、元和元年に没し顕節陵下に葬られた。子の伏寿は東郡太守に至った。

任末

  • 任末、字は叔本。蜀郡繁の人。若くして斉詩を学び京師で十余年教授、友人董奉徳が洛陽で病没すると自ら鹿車を推して柩を墓所へ運んだことで知られた。郡功曹となるも病で辞し、後に師の喪に赴く道中で没する際、甥の任造に「必ず我が屍を師の門に届けよ、死して知ることあれば魂霊も恥じることなく、知ることなくとも土を得るのみでよい」と遺言、造はこれに従った。

景鸞

  • 景鸞、字は漢伯。広漢梓潼の人。若くして師について七州を渡り学び、斉詩・施氏易を修め河洛図緯も兼受した。『易説』及び『詩解』の文句に河洛の説を交えた『交集』を撰し、また『礼内外記』(『礼略』)を撰し、風角雑書を抄して占験を『興道』一篇にまとめ、『月令章句』も著した。著述は総計五十余万言に及ぶ。しばしば災変を救う術を上書したが、州郡の辟命には応ぜず天寿を全うした。

薛漢

  • 薛漢、字は公子。淮陽の人。世々韓詩を習い父子で章句をもって著名。父の業を伝え災異讖緯の説に優れ常に数百人を教授、建武初年に博士となり詔で図讖の校定にあたった。当代の詩学者は漢を第一と推した。永平年間、千乗太守として異績を挙げたが、楚王事件に連座して下獄死した。弟子の犍為の杜撫、会稽の澹台敬伯、鉅鹿の韓伯高が最も知られた。

杜撫

  • 杜撫、字は叔和。犍為武陽の人。若くして高才、薛漢に師事し韓詩章句を定め、帰郷して教授、沈静に道を楽しみ挙動は必ず礼に則り弟子千余人を擁した。驃騎将軍東平王劉蒼に辟召され、蒼が国に就くと掾史は皆王官に補されたが、一年未満で自劾して帰郷する者が相次いだ。撫は大夫の職にあり蒼を去るに忍びずにいたが、蒼はこれを聞いて車馬財物を賜って送り出した。太尉府に辟召され建初年間、公車令となるも数月で官に没した。著した詩の解説は「文約義通(義を通ずるに約す)」と学者に伝えられ「杜君注」と呼ばれた。

召馴

  • 召馴、字は伯春。九江寿春の人。曽祖父の召信臣は元帝の代に少府。父は建武年間に卷令。馴は俶儻(豪放)で小節に拘らず、若くして韓詩を習い書伝に博通し志義を以て聞こえ、郷里で「徳行恂恂召伯春」と称された。州郡・司徒府を経て建初元年に騎都尉・侍講、肅宗(章帝)に左中郎将に拝され諸王に授経、義学への恩寵篤く陳留太守に出て刀剣銭物を賜り、元和2年に河南尹、章和2年に任隗に代わり光禄勲となり官に没し、冢塋を陵園に陪葬された。孫の召休は青州刺史に至った。

楊仁

  • 楊仁、字は文義。巴郡閬中の人。建武年間、師について韓詩を学び数年で帰郷して教授、郡功曹を経て孝廉に挙げられ郎となり、太常が仁を経に明るいとして博士に推挙したが、仁は年齢未満(博士は五十歳以上の規定)を理由に辞退。顕宗が特に北宮衛士令に補し、当世の政迹を問われ「寛和で賢を任じ驕戚を抑退することを先とすべし」と答え、時務十二事を上便し帝に嘉された。明帝崩御の際、諸馬(馬皇后一族)が入宮を争う中、仁は甲を被り戟を持って門衛を厳しく統率し軽々に進む者はなかった。肅宗即位後、諸馬に讒言されるも帝は忠を知り厚遇し什邡令に任じた。寛恵の政で掾史弟子に就学を勧め、経術に通じる者は顕彰し朝廷に貢挙、義学が大いに興り墾田は千余頃に及んだ。兄の喪で去官後、司徒桓虞府の掾となるも、貪奢不法の宋章とは終始交わらず、人々はその節を畏れた。後に閬中令となり官に没した。

趙曄

  • 趙曄、字は長君。会稽山陰の人。若くして県吏となり督郵を迎える使いを命じられたが厮役を恥じ車馬を棄てて犍為資中に至り杜撫に師事し韓詩を究めた。二十年間音信を絶ち家では死を弔い喪服を制したほどだったが、撫の死後帰郷。州の従事に召されても応ぜず有道に挙げられたが自宅で没した。『呉越春秋』『詩細歴神淵』を著し、蔡邕が会稽で『詩細』を読み『論衡』に優ると歎じ、京師に伝えて学者が誦習した。同時代の山陽の張匡(字文通)も韓詩章句を作り有道・博士に挙げられたが徴に応ぜず自宅で没した。

衛宏

  • 衛宏、字は敬仲。東海の人。若くして河南の鄭興と共に古学を好んだ。九江の謝曼卿が毛詩に長じ訓を作ったため、宏はこれに学び『毛詩序』を作り風雅の旨をよく得て世に伝わった。後に大司空杜林から改めて古文尚書を受け訓旨を作り、済南の徐廵も宏に師事し後に林に学び儒者として顕れ、これにより古学が大いに興った。光武帝は宏を議郎とした。宏は『漢旧儀』四篇を作り西京の雑事を載せ、賦頌誄七首も伝わる。中興後、鄭衆・賈逵が毛詩を伝え、馬融が毛詩伝を、鄭玄が毛詩箋を作った。
  • 『前漢書』によれば、魯の高堂生(名は隆)が漢興に礼十七篇を伝え、後に瑕丘の蕭奮が同郡の后蒼に授け、蒼は梁人の戴徳(字近君)とその兄の子の戴聖(字次君)、沛人の慶普(字孝公)に授け、徳は大戴礼、聖は小戴礼、普は慶氏礼となり三家とも博士に立てられた。孔安国が献じた礼古経五十六篇及び周官経六篇は前世に伝わったが名家はなく、中興以後も大小戴の博士は絶えなかったが儒林に顕れる者はなかった。建武年間、曹充が慶氏学を伝え子の曹褒に授け、褒は漢礼を撰した(曹褒伝に詳しい)。

董鈞

  • 董鈞、字は文伯。犍為資中の人。慶氏礼を習い大鴻臚王臨に師事、元始年間に明経に挙げられ廩犠令に遷ったが病で去官。建武年間に孝廉に挙げられ司徒府に辟召、政事に博通し永平年間に博士、五郊祭祀・宗廟礼楽・威儀章服の草創に多く参議し採用され「通儒」と称された。五官中郎将に累遷し常に門生百余人を教授、後に事に坐して騎都尉に左遷、70余歳で自宅に没した。中興後、鄭衆が周官経を伝え、後に馬融が周官伝を作り鄭玄に授け、玄は周官注を著した。玄は元々小戴礼を学んだが後に古経で校し義の優れるものを取ったため「鄭氏学」と称され、玄はまた小戴の礼記四十九篇に注し、あわせて「三礼」と称された。
  • 『前漢書』によれば、斉の胡母子都が公羊春秋を東平の嬴公に伝え、嬴公は東海の孟卿に、孟卿は魯人の睦孟に、睦孟は東海の嚴彭祖・魯人の顔安楽に伝え、彭祖は春秋嚴氏学、安楽は春秋顔氏学となった。瑕丘の江公も穀梁春秋を伝え三家とも博士に立てられた。梁太傅の賈誼は春秋左氏伝の訓詁を趙人の貫公に伝えた。

丁恭

  • 丁恭、字は子然。山陽東緡の人。公羊嚴氏春秋を習い学義精明、常に数百人を教授し州郡の請召に応じなかった。建武初年、諫議大夫・博士となり関内侯に封じられ、建武11年、少府に遷り遠方から集う著録の諸生は数千人、当世の大儒と称された。太常楼望・侍中承宮・長水校尉樊鯈らは皆恭に師事した。建武20年、侍中祭酒・騎都尉として侍中劉昆と共に光武帝の側近として諮問を受け、官に没した。

周沢

  • 周沢、字は穉都。北海安丘の人。若くして公羊嚴氏春秋を習い隠居して常に数百人を教授。建武末、大司馬府の議曹祭酒に辟召され数月で博士に徴試、中元元年に黽池令に遷り奉公剋己、孤羸を矜恤し吏人に慕われた。永平5年に右中郎将、永平10年に太常となり果敢直言でしばしば据争した。北地太守廖信(貪穢の罪で下獄し財産没収)の贓物を顕宗が廉吏に班賜した際、澤及び光禄勲孫堪・大司農常沖のみが受けず、京師で在位者は自ら勉励したという。
  • 孫堪、字は子穉。河南維氏の人。明経で志操があり清白貞正、士大夫を愛したが一毫も人から取らず節介気勇をもって自ら行った。王莽末の兵乱で宗族の老弱を守るため力戦し、幾度も傷を負いながらも回避せず宗族はこれに頼り郡中もその義勇に服した。建武年間、郡県に仕え公正廉潔、俸禄は妻子に及ばず賓客に供した。県令として趨歩が遅緩との門亭長の譴責で御吏を解印綬して去るなど去就に明快だった。左馮翊で下を厳しく督したことに坐し免官、数月で侍御史に徴され尚書令に遷り、永平11年に光禄勲。清廉果断な政で直言も多く採用されたが、永平18年に病で身を退き侍中・騎都尉として官に没した。堪の行いは澤に似て京師で「二穉」と号された。
  • 永平12年、澤は司徒事を実務として代行したが、性簡忽で威儀を失し宰相の望に合わず数月で太常に復し清潔に宗廟を敬い勤めた。斎宮で臥病中、妻が老病を案じて見舞うと、澤は妻が斎禁を犯したとして怒り詔獄に送ったため、時人は「生世不諧作太常妻、一嵗三百六十日、三百五十九日斎(この世で辛いのは太常の妻となること、一年三百六十日のうち三百五十九日は斎戒だ)」と揶揄した。永平18年、侍中・騎都尉に拝され、しばしば三老五更を務め、建初年間に致仕し自宅で没した。

鍾興

  • 鍾興、字は次文。汝南汝陽の人。若くして少府丁恭に嚴氏春秋を受け、恭が学行高明として推薦、光武帝が召見し経義を問うと応対明快で帝はこれを善しとし郎中に拝し左中郎将に遷った。詔で春秋章句の重複を削らせ皇太子に授け、宗室諸侯も興から章句を受けさせ関内侯に封じようとしたが、興は無功として受爵を固辞、「生(そなた)が太子・諸王侯を教訓したのは大功ではないか」との帝の言に、興は「臣の師は丁恭です」と師の恭への再封を求め、自らはあくまで受爵を辞し官に没した。

甄宇

  • 甄宇、字は長文。北海安丘の人。清静寡欲、嚴氏春秋を習い常に数百人を教授、建武年間に州従事を経て博士に徴された。臘祭で博士に羊が下賜される際、大小肥痩の差を巡り分肉や籤引きを議した際、宇はこれを恥じ最も痩せた羊を自ら先に取ったため「痩羊博士」と京師で呼ばれた。太子少傅に遷り官に没し、業を子の甄普、孫の甄承へと伝え、承は篤学で家事を顧みず常に数百人を講授、三世相伝の学に諸儒はみな帰服した。建初年間に孝廉に挙げられ梁相にて没し、子孫も学を伝え絶えなかった。

楼望

  • 楼望、字は次子。陳留雍丘の人。若くして嚴氏春秋を習い操節清白で郷閭に称された。建武年間、趙節王劉栩がその高名を聞き玉帛を齎して師として招いたが受けず、後に郡功曹を経て永平初年に侍中・越騎校尉として省内で講じ、永平16年に大司農、永平18年に周澤に代わり太常、建初5年に事に坐して太中大夫に左遷、後に左中郎将となり教授を倦まず「儒宗」と称され著録の諸生は九千余人に及んだ。80歳、永元13年に官に没し、会葬の門生は数千人に上り儒家の栄誉とされた。

程曽

  • 程曽、字は秀升。豫章南昌の人。長安で受業し嚴氏春秋を習うこと十余年、帰郷して会稽の顧奉ら数百人を教授、著書百余篇はいずれも五経の通難で、『孟子章句』も作った。建初3年に孝廉に挙げられ海西令に遷り官に没した。

張玄

  • 張玄、字は君夏。河内河陽の人。若くして顔氏春秋を習い数家の説にも通じた。建武初年、明経に挙げられ弘農文学、陳倉県丞に遷り清浄無欲で講問に一日中食を忘れるほど専心し、難詰する者には諸家の説を挙げて自ら選ばせ、諸儒は皆その博通に服し著録は千余人に及んだ。県丞在任中に府への職事対応で官曹の所在を知らず吏に責められたこともあった。右扶風の琅邪徐業も大儒として玄の生徒試験を聞き引見して語り「今日の出会いこそまさに蒙を解くもの」と驚嘆、上堂で終日難問を交わした。後に去官し孝廉で郎に除せられ、顔氏博士の欠員に策試第一で博士に拝されたが、数月後に諸生から「玄は嚴氏・宣氏(一説に誤字)も兼説しており顔氏専任は不適」と上言され、光武帝は署への還任を命じたが遷る前に没した。

李育

  • 李育、字は元春。扶風漆の人。若くして公羊春秋を習い沈思専精、書伝を博覧し太学で名を知られ、同郡の班固に重んじられ、固の奏記で驃騎将軍東平王劉蒼に推薦され京師の貴戚が争って交わりを求めた。州郡の請召には病と称して辞し避地して教授、門徒数百人。古学にも通じ左氏伝を愛読したが聖人の深意を得ていないとし、前代の陳元・范升らが互いに非難しあい図讖を多く引くことを批判し『難左氏義』四十一事を作った。建初元年、衛尉馬廖の推挙で議郎、建初4年に博士。白虎観の五経論で公羊の義をもって賈逵に難じ往復とも理証があり「最も通儒」と称された。尚書令に再遷したが、馬氏(馬廖の子馬豫)の廃黜に連座して免官帰郷、一年余で再徴され侍中に再遷し官に没した。

何休

  • 何休、字は邵公。任城樊の人。父は少府何豹。休は質朴訥口ながら心思に優れ六経を精研し世儒に及ぶ者なしと称された。列卿の子として郎中を拝命したが好むところでなく病と称して去り、州郡にも仕えず進退は必ず礼に則った。太傅陳蕃に辟召され政事に参与するも蕃の敗死に連座して廃錮され、その間に『春秋公羊解詁』を著し十七年間門を出ず思索を重ね、『孝経』『論語』『風角七分』にも注し経緯典謨に合致させ、独自の説とせず、また『春秋』で漢事を駁すること六百余条、公羊の本意を得たと評された。歴算にも優れ、師の博士羊弼と共に李育の説を継いで『公羊墨守』(公羊の義は墨翟の守城のごとく攻め崩せぬの意)『左氏膏肓』『穀梁廢疾』を作った。党禁が解けると司徒羣公の表で「休の道術は深明で帷幄に侍すべし」と推薦されたが幸臣が忌んで議郎に留め、しばしば忠言を述べ諫議大夫に再遷、54歳、光和5年に没した。

服虔

  • 服虔、字は子慎。初名は重、また祗、後に虔と改めた。河南滎陽の人。若くして清苦をもって志を立て太学に入り学び、雅才があり著文論を善くし『春秋左氏伝解』を著し今に伝わる。また左伝により何休の駁した漢事六十条を駁した。孝廉に挙げられ中平末に九江太守に遷るも、乱に遭って免官し客中で病没した。著した賦・碑・誄・書記・連珠・九憤など十余篇が伝わる。

穎容

  • 穎容、字は子厳。陳国長平の人。博学多通で春秋左氏に長じ太尉楊賜に師事、郡・州・公車の挙召にいずれも応じなかった。初平年間、乱を避けて荊州に至り千余人の徒を集め、劉表が武陵太守に任じようとしたが起たず、『春秋左氏条例』五万余言を著し建安年間に没した。

謝該

  • 謝該、字は文儀。南陽章陵の人。春秋左氏に明るく世の名儒とされ門徒数百千人。建安年間、河東の楽詳が左氏の疑滞数十事を問うと該がことごとく解き明かし「謝氏釈」として世に行われた。公車司馬令に任じたが父母の老を理由に病と称して帰郷を望むも荊州への道が断たれ果たせず、少府孔融が上書して該を推薦した。融の上書は、高祖の創業には韓信・彭越の武将と陸賈・叔孫通の文治が並び用いられ、光武中興には呉漢・耿弇の武と范升・衛宏の文が並び用いられて長久の計をなしたことを引き、当世に名儒典礼を掌る人材が必要であるとし、該の才徳(曽子・史魚の淑性、卜商・言偃の文学)を称え、巨骨・隼・黄熊・亥有二首などの故事に通じた博識、雋不疑・夏侯勝の故事に比すべき卓越を説き、父母の老疾で帰るに道なく良才が抱璞のまま逃れ荊楚に沈淪するのは惜しいとし、孫卿(荀子)を引き止めた楚人の故事、匡衡を朝廷に召還した故事を挙げ「儒を尊び学を貴ぶことは賢を失う惜しみあってこそ」と結んだ。上書は容れられ、詔で徴還され議郎に拝され天寿を全うした。
  • 建武年間、鄭興・陳元が春秋左氏学を伝えた頃、尚書令韓歆が左氏の博士設置を上疏し范升と争って決せず、陳元が上書して左氏を訟え、ついに魏郡の李封が左氏博士となったが、これに反対する儒者がしばしば廷争し、封の死後、光武帝は衆議を重んじて補充しなかった。

許慎

  • 許慎、字は叔重。汝南召陵の人。淳篤で若くして博学、経籍に通じ馬融に推敬され「五経無双許叔重」と称された。郡功曹を経て孝廉に再挙げされ洨長を除せられ自宅で没した。五経の伝説の臧否が一致しないことから『五経異義』を撰し、また『説文解字』十四篇を著し共に世に伝わった。

蔡玄

  • 蔡玄、字は叔陵。汝南南頓の人。五経に通じ門徒常に千人、著録者は一万六千人に上ったが徴辟にはいずれも応じなかった。順帝が特に詔して議郎に徴し五経異同を講論させると帝意によく合致、侍中に遷り弘農太守に出て官に没した。

史論

  • 論じて言う。光武帝の中年以後、干戈がやや収まると専ら経学が行われ、その気風は代々篤くなった。儒服を着け先王を称し、庠序に遊び横塾に聚まる者が国中に満ちた。経生の元へは万里の道も遠しとせず、精廬が建てられれば糧を担って集う者が千百を数え、名高い者の門下には著録の徒が万人を下らなかったが、それぞれ師説を墨守して雑えず、王庭で分争し門派を立てて章条を繁雑にし、無理に一家の説に合わせようとする弊も生じた。楊雄が「今の学者は華藻を飾るだけでなく、それに刺繍の帯まで加える」と評したように、理には二義なく帰するところは一つのはずなのに碩学の徒はこれに従わず、通人はその頑迷さを卑しんだ。楊雄のいう「譊譊(喧しい)の学」とは各々師説に固執することを指す。
  • 高第で名を成しても遠く至れる者は少なく、迂遠停滞の弊はあったが、談ずるところは仁義、伝えるところは聖法であり、人々は君臣父子の綱を知り邪を避け正に帰る道を弁えた。桓帝・霊帝の頃、君道が乱れ朝綱が日々崩れ国の隙が屡々開いても、中智以下の者まで崩離を悟り、権力を握る者も簒奪の謀を控え(閻忠が皇甫嵩に漢を廃して自立するよう勧めたが嵩が従わなかった例)、豪俊の士も鄙生の議に屈した(董卓が大挙兵を欲したが鄭泰が止めた例)のは、人々が先王の言を誦じ逆順の勢を畏れたからである。張温・皇甫嵩のような天下の半ばを定める功と四海に轟く声望を持つ者でさえ、昏主(献帝)の下で拱手し、召しに応じて縄約(拘束)に甘んじ悔いる心を見せなかったのも同じ理由である。
  • やがて漢の命運が終わり人神の数が尽きると、袁術・曹操ら群英がその運に乗じて代わり、曹丕が漢の祚を終わらせるに至ったが、それでも衰敝の由来をたどれば、多年にわたり国が持ちこたえたのは学問の効あってのことであろう。先師が典文を垂れ学者を褒励した功は篤く切実であり、春秋の義に循わぬ者を殺逆の罪に比するのも、この意図あってのことである。
  • 賛に曰く。斯文(この学問の伝統)は衰えず各々承け継がれ、流派は分かれ専門はそれぞれ興ったが、精粗・通塞が入り混じり千載の間これを澂す者は現れなかった、と。