杜篤
- 杜篤、字は季雅。京兆杜陵の人。高祖父の杜延年は宣帝の代に御史大夫。篤は若くして博学だが小節を修めず郷人に礼せられなかった。美陽令との間で請託が不首尾に終わり相恨まれ、篤は京師へ送られ拘束された。折しも大司馬呉漢が薨じ、光武帝が諸儒に誄を命じた際、獄中で作った誄辞が最も高く評価され帝に賞美されて帛を賜り刑を免れた。
- 篤は関中こそ表裏山河の要害を持つ先帝の旧京であり洛邑への遷都は不適当と考え、『論都賦』を著して上奏した。賦は「知りて更に知るを重知という、陛下が既に知ることを略述する」と切り出し、殷の盤庚が奢を去り倹に赴いて亳に遷都した故事、周が中洛(洛陽)に都した故事を引きつつ、聖賢の考えには優劣があり、覇王の資質は各々異なる(阻厄を棄てて平易を取る者、山河に拠って六国を併呑する秦、故郷への帰還を望まず襲われた者、蜀漢から出て一挙に天下を得た高祖の例)とし、光武帝が久しく墝埆(痩せ地)の洛陽に都することを暗に批判する体裁を取った。
- 賦の本論では、関中(雍州)こそ高祖創業以来、恵帝・文帝(太宗)・景帝・武帝・宣帝・元帝と代々の栄えを支えた地であり、禹貢に「厥田惟上(最上の田)」と記される沃野千里の地、涇渭の水利に恵まれ「陸海」と称される豊饒の地であること、また地勢の険阻さ(隴蜀・漢中・谷口・崤山・函谷関・嶢関などに囲まれた要害)によって「一卒が礧石を投じれば千夫が阻まれ、一人が戟を奮えば三軍が敗走する」ほどの守りの堅さを持つことを、武帝の匈奴討伐・南越平定・西域経営など漢の武功の数々を列挙しながら詳述し、「関中こそ帝王の淵囿(狩場)であり守国の利器である」と結論した。さらに新末の乱・更始の敗・赤眉の乱を経て光武帝が天命を受け中興した経緯を述べ、「今なお辺境(蜀の史歆、交阯の徴側、匈奴に逃れた盧芳ら)に憂いがあり論都の暇なきは理解するが、関中への思いを留め置いてほしい」と訴えた。
- 賦の末尾では、対話形式で「客」の反論(洛邑のような小さな地に万乗の都は相応しくない、との異論)に対し、篤自身は「国家がなお西都を忘れぬのであれば、あえて洛邑に固執する必要はない」と結び、物事は盛んなれば衰え、陽が極まれば陰に転ずる理を説き、存亡・安危を常に忘れぬことの大切さを述べて筆を置いた。
- 篤は後に郡文学掾に仕えたが、目疾のため二十余年京師を訪れなかった。篤の高祖にあたる破羌将軍辛武賢は武略で知られ、篤は常に「杜氏は文明善政の家系、辛氏は経武秉義の家系だが、篤自身はいずれの家風も継げていない」と嘆いた。妹は扶風の馬氏に嫁ぎ、建初3年、車騎将軍馬防の西羌討伐に従事中郎として招かれ、射姑山で戦没した。著した賦・誄・弔・書・讃・七言・女誡及び雑文は凡そ十八篇、『明世論』十五篇もある。子の杜碩は豪俠で貨殖で聞こえた。
王隆
- 王隆、字は文山。馮翊雲陽の人。王莽の代、父の任により郎となり、後に難を避けて河西で竇融の左護軍となった。建武年間、新汲令。文章に優れ、詩・賦・銘・書など凡そ二十六篇を著した。王莽末、沛国の史岑(字孝山)も文章で顕れ、王莽の謁者として頌・誄・「復神説疾」など凡そ四篇を著した。
夏恭
- 夏恭、字は敬公。梁国蒙の人。韓詩・孟氏易を習い常に千余人を教授した。王莽末の盗賊横行のさなか、恩信で人々に頼られ兵を擁して郷里を固守し安全を保った。光武帝はその忠果を嘉して郎中に召し、太山都尉に遷り百姓を和集してその歓心を得た。文才に優れ賦・頌・詩・励学など凡そ二十篇を著し、49歳で官に没し諸儒に「宣明君子」と諡された。子の夏牙も若くして家学を継ぎ賦・頌・讃・誄凡そ四十篇を著したが孝廉に挙げられ早世、郷人に「文徳先生」と称された。
傅毅
- 傅毅、字は武仲。扶風茂陵の人。若くして博学、永平年間に平陵で章句を習い『廸志詩』を作った。詩は「日月は過ぎ去り再び戻らぬ、志を果たせぬまま弱冠に至った己を哀しむ」との自省に始まり、先祖の傅説(殷の高宗を輔けた名臣で伊尹と並び称される功臣)の栄光と、その後裔(前漢の傅介子・傅喜・傅晏・傅商、後漢の傅俊ら)が代々功業を継いだことを述べつつ、「己はその家名に及ばぬ、家の衰えを誰が正せようか」と自らを奮い立たせ、農夫が怠らず穀を得るように、二心を持たず一事に専心すべきこと、君子は常に自ら励み時を空費すべきでないことを説く内容であった。
- 顕宗(明帝)の求賢が篤くなく士が隠れがちなことを憂い『七激』を作って諷刺した。建初年間、肅宗(章帝)が文学の士を博く召した際、蘭台令史に任じられ郎中を拝命、班固・賈逵と共に校書にあたった。孝明皇帝(明帝)の功徳を追慕しながら廟頌が未だ立てられていないことを憂い、『詩経』清廟に倣って『顕宗頌』十篇を作り奏上、これにより文雅の名は朝廷に知れ渡った。外戚の車騎将軍馬防に師友の礼で迎えられ軍司馬となったが、馬氏の失脚に連座して免官帰郷。永元元年、車騎将軍竇憲(崔駰を主簿とし)に主記室として招かれ、憲が大将軍に遷ると司馬(班固は中護軍)として仕え、竇憲府の文章の盛況は当世随一と称された。毅は早世し、詩・賦・誄・頌・祝文・七激・連珠凡そ二十八篇を著した。
黄香
- 黄香、字は文彊。江夏安陸の人。9歳で母を失い思慕のあまり憔悴し喪に堪えないほどであったと郷人はその孝を称えた。12歳、太守劉護がその評判を聞いて門下に召し「孝子」として愛敬された。家貧しく僕妾なく自ら苦労を厭わず孝養を尽くしつつ、経典を博学し道術を究め文章に長じ、京師で「天下無双、江夏黄童」と称された。郎中を除せられ元和元年、肅宗の詔で東観に赴き未見の書を読んだ。休暇で帰郷から戻った際、千乗貞王劉伉の元服の儀で章帝が中山邸に会し諸王に「これが天下無双の江夏黄童だ」と紹介、左右の見方が改まった。
- 安福殿に召され政事を語り尚書郎に拝され、しばしば得失を陳べ賞賜を加えられ、臺(尚書台)に独り宿直し昼夜省閤を離れなかったことも帝に善しとされた。永元4年、左丞に拝され功が満ちて昇進の頃、和帝はこれを留めて秩を増した。永元6年、尚書令に累遷、後に東郡太守に任じられた際、香は「江淮の孤賤の身で経学行能に取り立てられる程のものはなく、太平の世と先人の余福によって累進しただけ、量能授官の理からすれば東郡太守という尊位は身に余る、機密の要職(尚書令)もまた久しく奉じるべきものではない」と上疏して謙譲し、督責の小職に留めてほしいと願ったが、帝は香の熟練を惜しみ尚書令に留任させ秩を二千石に増し銭三十万を賜った。以後香は枢機を管掌し公務に励み、東平・清河で妖言の獄が起こり千人近くが連座した際、罪科を分別して多くを救い、疑わしい罪は軽科を求めて人命を惜しみ、辺事にも通じて軍政の量が適宜であった。帝はその精勤を評価し恩賞を重ね病めば医薬を賜り、推薦にも厚く、寵遇の盛んさは「過倖」との議論も招くほどであった。
- 延光元年、魏郡太守に遷った。郡には旧来官民で分種する内外の園田があり年に数千斛の収穫があったが、香は「田令に商人は農せず、王制に仕える者は耕さずとある、伐氷の家(禄を食む者)は百姓と利を争わぬべき」として全て人民に賦して耕させた。水害・飢饉の年には俸禄と賞賜を分け貧民に班給し、富裕の家も義穀を出して官の貸与を助け荒民を救った。後に水潦の事に坐し免官、数月で自宅に没した。著した賦・牋・奏・書・令凡そ五篇。子の黄瓊には別に伝がある。
劉毅
- 劉毅は北海敬王の子。初め平望侯に封じられたが永元年間、事に坐して爵を奪われた。若くして文辯に称され、元初元年、『漢徳論』及び『憲論』十二篇を上呈、劉珍・鄧耽・尹兌・馬融らが連名でその美を称賛する上書をし、安帝はこれを嘉して銭三万を賜り議郎に拝した。
李尤
- 李尤、字は伯仁。広漢雒の人。若くして文章で顕れ、和帝の代、侍中賈逵が「相如・揚雄の風あり」と推薦、東観に召され詔を受けて賦を作り蘭台令史に拝された。安帝の代に諫議大夫となり、詔を受けて謁者僕射劉珍らと共に『漢記』を撰した。帝が皇太子を廃し済陰王とした際は諫争の上書をし、順帝即位後に楽安相に遷り、83歳で没した。著した詩・賦・銘・誄・頌・七歎・哀典凡そ二十八篇。同郡の李勝も文才があり東観郎として詩・誄・頌・論数十篇を著した。
蘇順
- 蘇順、字は孝山。京兆霸陵の人。和帝・安帝の間、才学で称され養生の術を好み隠処して道を求め、晩年に郎中を拝命し官に没した。著した賦・論・誄・哀辞・雑文凡そ十六篇。同時代の三輔の名士に扶風の曹衆(字伯師)がおり才学あり誄・書・論四篇を著し天寿を全うした。また曹朔という人物(出自不詳)も『漢頌』四篇を作った。
劉珍
- 劉珍、字は秋孫、一名は寶。南陽蔡陽の人。若くして好学、永初年間、謁者僕射となり、鄧太后の詔で校書の劉騊駼・馬融及び五経博士と共に東観の五経・諸子・伝記・百家・芸術を校定し脱誤を整え文字を正した。永寧元年、太后はまた珍と騊駼に『建武已来名臣伝』を作らせた。侍中・越騎校尉に遷り、延光4年に宗正、翌年に衛尉に転じ官に没した。著した誄・頌・連珠凡そ七篇、また『釈名』三十篇を撰し万物の名称の由来を弁じた。
葛龔
- 葛龔、字は元甫。梁国寧陵の人。和帝の代、文章の巧みさで知られた(他人の依頼で上奏文を代作したところ、依頼主が自らの名を落として葛龔の名ごと書き写してしまい、「作奏は巧みでも葛龔の名は消せ」と当時の人が語り種にしたという逸話がある)。慷慨壮烈で勇力人に勝れ、安帝の永初年間、孝廉に挙げられ太官丞となり時務四事を上便し蕩陰令を拝命、太尉府に辟召されるも病で応じず、州が茂才に挙げ臨汾令となった。両県とも治績で称され、文・賦・碑・誄・書記十二篇を著した。
王逸
- 王逸、字は叔師。南郡宜城の人。元初年間、上計吏に挙げられ校書郎となり、順帝の代に侍中。『楚辞章句』を著し世に行われた。その他の賦・誄・書・論及び雑文凡そ二十一篇、また『漢詩』百二十三篇を作った。子の王延寿(字文考)は俊才があり、若くして魯国に遊学し『霊光殿賦』を作った。蔡邕も同じ賦を作ろうとしていたが延寿の作を見て非常に驚嘆し、自らの筆を止めたという。延寿はかつて不吉な夢を見て『夢賦』を作り自ら励んだが、後に溺死した。享年二十余。
崔琦
- 崔琦、字は子瑋。涿郡安平の人。済北相崔瑗の一族。若くして京師に遊学し文章の博通で称され、初め孝廉に挙げられ郎となる。河南尹梁冀がその才を聞いて交わりを求めたが、冀の行いに不軌(法に外れる点)が多いため、琦はしばしば古今の成敗を引いて戒めたものの冀は聞き入れず、そこで『外戚箴』を作った。
- 箴は、舜の妃・娥皇女英、周の太姜・太任・太姒(三母)、殷湯の妃、周の宣王の后・姜后、斉桓公の妃・衛姫など、礼を以て君主を輔け仁を以て君を扶けた古の賢后妃の例を挙げた後、末世に至って晋の驪姫の禍、殷の妲己、周の褒姒、趙の呉娃、漢の戚夫人・陳皇后・霍皇后など、寵を専らにし政を乱した悪例を列挙し「貴なりと言うも天がこれを摧く、常に好色を恃むな、驕慢は衰亡を招く、徳なくして貴寵を得れば禍を招く」と戒める内容であった。
- 琦はさらに白鵠賦を作って諷諫した。梁冀が琦を呼んで「百官内外それぞれ職掌があるのに、なぜ私だけを激しく非難するのか」と問うと、琦は「管仲は斉を輔けて諫言を喜んで聞き、蕭何は漢を佐けて過ちを記す史官を設けた、貴殿は代々の輔弼として伊尹・周公に比すべき地位にありながら徳政は聞こえず民は塗炭に苦しんでいる、それなのに賢良の諫言を封じ君主の耳目を塞ごうとするのは、鹿を馬と言いくるめた趙高の故事に等しい」と答えた。冀は返す言葉なく琦を帰したが、後に琦が臨済長に任じられても職に赴かず印綬を解いて去ったのを恨み、刺客を放って暗殺を図った。刺客は畑を耕しながら書を懐に休息のたびに詠ずる琦の姿に情を動かされ、実を告げて「今すぐ逃げよ、私もここで身を隠す」と告げ、琦は脱走に成功したが、後に冀は結局琦を捕らえて殺した。著した賦・頌・銘・誄・箴・弔・論・九咨・七言凡そ十五篇。
邊韶
- 邊韶、字は孝先。陳留浚儀の人。文学で知られ数百人を教授した。弁舌に優れ、ある日昼寝をしていたところ弟子が「辺孝先、腹便便(太鼓腹)、書を読むを厭い、ただ眠らんと欲す」と密かに嘲ったのを聞いた韶は即座に「辺は姓、孝は字、腹便便たるは五経の入れ物、眠りを思うは経を思うがため、寐ては周公と夢を通わせ、静かにしては孔子と意を同じくする、師をも嘲るとは、いずれの典記に出るものか」と応じ、嘲った者を大いに恥じ入らせた。その才の敏捷さはこの類であった。桓帝の代、臨潁侯相を経て太中大夫に徴拝され東観で著作、北地太守に再遷、尚書令に入り、後に陳相となり官に没した。著した詩・頌・碑・銘・書策凡そ十五篇。