後漢書卷一百九上 儒林列傳第六十九上

総序――後漢儒学の興亡

  • 王莽・更始の乱で礼楽は崩壊し典籍も散逸したが、光武帝は中興にあたり即位前から儒雅を訪ね、闕文を採集し漏逸を補綴した。范升・陳元・鄭興・杜林・衛宏・劉昆・桓栄らが京師に集まり、五経博士を立て各家法で教授させた。易は施・孟・梁丘・京氏、尚書は歐陽・大小夏侯、詩は齊・魯・韓・毛、礼は大小戴、春秋は嚴・顔で計十四博士を太常が統轄した。建武5年に太学を修め、古礼の籩豆・干戚の容を備えた。
  • 中元元年に三雍を建て、明帝は即位して自ら通天冠・日月の衣で法駕を整え礼を行い、明堂で群后の朝を受け、霊台に登って雲物を望み、辟雍で三老五更を養い饗射の礼を行った。帝自ら経を講じ、諸儒が前で問難し、聴衆は億万を数えたという。功臣子孫・四姓の子弟のために別に校舎を立て高才を選んで受業させ、期門・羽林の士にも孝経章句を通じさせ、匈奴も子弟を入学させた。永平年間が最盛期であった。
  • 建初年間、白虎観に諸儒を集めて経義の異同を考詳し、章帝自ら制を称して裁定、その記録が『白虎通義』となった。また高才生に古文尚書・毛詩・穀梁・左氏春秋を学ばせ、学官には立てなかったが講郎に抜擢して衆家を博く存した。和帝もしばしば東観に幸して書を閲したが、鄧太后の摂政の頃から学者はやや怠りがちになった。樊凖・徐防が学問振興を進言し、三署郎で経術に通じる者を察挙させた。
  • 安帝以降は文芸が軽んじられ、博士は講席を怠り学舎は荒廃して園菜となる有様であった。順帝は翟酺の言に感じて黌宇を修め、二百四十房・千八百五十室を新築、明経の試験に落第した者を弟子に補し甲乙科の員を各十人増やし、郡国の耆儒を郎・舎人に補した。本初元年、梁太后は大将軍以下六百石までの子弟を悉く就学させ、毎年郷射の月に饗会することを常とした。これにより遊学の徒は三万余人に増えたが、章句の学は次第に疎かになり浮華を尚ぶ風が儒者の間に広まり、学風は衰えた。
  • 党人が誅せられると高名の士も多く流廃され、私的に金貨を用いて蘭臺の漆書経字を書き換えさせる不正も生じた。熹平4年、霊帝は諸儒に命じて五経を正定させ、古文・篆・隷の三体で石碑に刻んで学門に立て、天下の規範とした。光武帝が洛陽に遷都した当初、経籍祕書は二千余両であったが、後に三倍に増えた。しかし董卓の遷都の際、辟雍・東観・蘭臺・石室・宣明・鴻都の典籍は乱民に剖裂され、縑帛図書は帷蓋や嚢に作り替えられた。王允が収めて西へ運んだのはわずか七十余乗、道中さらに半分を失い、長安の乱でついにことごとく焼失した。
  • 東京の学者は多数に上るため、経を通じて名を成した者のみを本篇に録し、既に列伝のある者は重複させない。師資の伝承で証とすべきものは特に記す。
  • 『前漢書』によれば、田何が易を丁寛に伝え、丁寛は田王孫に、王孫は沛の施讎・東海の孟喜・琅邪の梁丘賀に伝え、施・孟・梁丘の学が興った。東郡の京房は梁国の焦延寿から易を受け京氏学を、東萊の費直は琅邪の王横に伝えて費氏学(古文易)を興した。沛の高相は子の高康及び蘭陵の母将永に伝え高氏学を興した。施・孟・梁丘・京氏の四家は博士に立てられたが、費・高の二家は立学されなかった。

劉昆

  • 劉昆、字は桓公。陳留東昏の人。梁孝王の裔。若くして容礼を習い、平帝の代に沛の戴賓から施氏易を受けた。雅琴を弾じ清角の曲に通じた。王莽の世、常に五百余人の弟子を教授し、春秋の饗射には古礼どおりの儀を備えた。王莽は昆が徒衆を集め私に大礼を行うことを僭上とみなし、昆とその家族を外黄の獄に繋いだが、まもなく莽が敗れて釈放された。天下大乱の際は河南の負犢山に避難した。
  • 建武5年、孝廉に挙げられても応じず江陵で教授、光武帝に聞こえて江陵令に任ぜられた。県で連年の火災が続いたが、昆が火に向かって叩頭すると雨が降り風が止んだという。議郎に徴されて侍中・弘農太守に遷り、崤黽の駅道で虎害が絶えなかったが、昆の治政3年で虎は子を負って河を渡り去ったと伝わる。建武22年、杜林に代わり光禄勲に徴され、光武帝から「江陵で風を返し火を消し、弘農では虎が河を渡った、いかなる徳政によるか」と問われると、「偶然にすぎません」と答え、その朴訥さに帝は「これぞ長者の言」と感嘆し、記録させて皇太子・諸王・小侯五十余人に授業させた。建武27年に騎都尉、建武30年に致仕を願い、洛陽の邸第と千石の禄を終身賜った。中元2年に没した。子の劉軼が業を継ぎ門徒も盛んで、永平年間に太子中庶子、建初年間に宗正に遷り官に卒し、子孫は代々宗正を掌った。

洼丹

  • 洼丹、字は子玉。南陽育陽の人。世々孟氏易を伝え、王莽の代は世を避けて教授に専念し徒衆数百人を擁した。建武初年に博士となり、建武11年に大鴻臚。『易通論』七篇を著し「洼君通」と称され、易学の宗として大儒と称された。建武17年、官にあって没した。享年70。同時代の中山の觟陽鴻(字孟孫)も孟氏易で名を知られ、永平年間に少府となった。

任安

  • 任安、字は定祖。広漢綿竹の人。若くして太学に遊学し孟氏易を受け、諸経にも通じた。同郡の楊厚から図讖を学びその術を究め、「仲桓に問うなら任安に問え」「今に居て古を行う」と称された。学を終えて帰郷し諸生を教授、遠方から集まる者が多かった。州郡・太尉・博士・公車に徴されても病と称して応じなかった。州牧の劉焉が表薦したが、王途が塞がり詔命は届かなかった。建安7年、79歳で自宅に没した。

楊政

  • 楊政、字は子行。京兆の人。代郡の范升に梁丘易を学び経書の解説に優れ、「説経鏗鏗(音吐朗々)楊子行」と京師で称され数百人を教授した。范升が出妻に訴えられ投獄された際、政は肉袒して箭で耳を貫き升の子を抱いて車駕を待ち、叩頭して哀訴し帝の心を動かし、升は赦された。酒を好み小節に拘らず果敢だが義に篤かった。梁松・陰就ら権貴が交友を求めても切磋の議論を曲げず、揚虚侯馬武を訪ねた際、武が病と称して会おうとしなかったのを部屋に押し入り責め立てた逸話がある。建初年間、左中郎将に至った。

張興

  • 張興、字は君上。潁川鄢陵の人。梁丘易を教授し、建武年間に孝廉に挙げられ郎となるが病で辞し帰郷、後に司徒馮勤府に辟召され孝廉に再挙、博士を経て永平初年に侍中祭酒、永平10年に太子少傅。遠方から集う弟子は万人近くに上り梁丘家の宗と仰がれた。永平14年に官に没し、子の張魴が業を継ぎ張掖属国都尉となった。

戴憑

  • 戴憑、字は次仲。汝南平輿の人。京氏易を習い16歳で郡の明経に挙げられ博士試に及第し郎中となった。群臣が着席する中、独り立っていた憑に光武帝が問うと「諸博士の経説はいずれも臣に及ばぬのに臣より上座に座しており、それゆえ着席できない」と答え、殿上で難説させると多くを解き明かし、帝は喜んで侍中とした。帝の「侍中は隠さず国政を匡すべし」との問いに、蔣遵の禁錮を批判し帝の怒りを買うが、後に赦されて虎賁中郎将を兼ねた。正旦の朝賀で群臣が経を難詰し通ぜぬ者の席を奪う競技が行われた際、憑は五十余席を重ね取り、「解経不窮戴侍中」と京師で称された。18年官にあって没し、東園梓器と銭20万を賜った。同時代の南陽の魏満(字叔牙)も京氏易で名高く、永平年間に弘農太守となった。

孫期

  • 孫期、字は仲彧。済陰成武の人。京氏易・古文尚書を学び、家貧しく母に孝養を尽くし大澤で豚を飼って生計を立てた。遠来の学徒は経を抱え畦道まで追って学び、里落もその仁譲に感化された。黄巾の賊が期の里陌を過ぎた際も「孫先生の家を犯すな」と相戒めたという。郡が方正に挙げ羊酒を齎して招いても豚を追って応じず、司徒黄琬の辟召にも応じず自宅で終えた。建武中、范升が孟氏易を楊政に伝え、陳元・鄭衆はいずれも費氏易を伝えた。後に馬融がその伝を作り鄭玄に授け、鄭玄が易注を、荀爽がまた易伝を著し、これより費氏学が興り京氏学は衰えた。
  • 『前漢書』によれば、済南の伏生(名は勝)が尚書を済南の張生・千乗の歐陽生に伝え、歐陽生は同郡の兒寛に伝え、その子孫が世々伝えて曾孫の歐陽高(字子陽)が歐陽氏学を興した。張生は夏侯都尉に伝え、都尉は族子の夏侯始昌に、始昌は族子の夏侯勝に伝えて大夏侯氏学を興し、勝は従兄の子の夏侯建に伝えて小夏侯氏学を興した。三家いずれも博士に立てられた。魯の孔安国は古文尚書を都尉朝に伝え、朝は膠東の庸譚に伝えて古文学となったが、学官には立てられなかった。

歐陽歙

  • 歐陽歙、字は正思。楽安千乗の人。歐陽生が伏生の尚書を伝えて以来、歙まで八世にわたり博士を輩出した。恭謙で礼を好み、王莽の代は長社宰、更始帝の代は原武令となる。世祖(光武帝)が河北を平定した際、原武で治績を認められ河南都尉に遷り、即位後は河南尹となり被陽侯に封じられた。建武5年、事に坐して免官となるも翌年揚州牧に拝され、汝南太守として賢俊を推挙し治績を挙げ、建武9年に夜侯に改封された。汝南で数百人を教授したが、9年後に大司徒に徴されると、汝南在任中の贓罪千余万銭が発覚し下獄、諸生千余人が門前で嘆願し自ら髠髪する者まで現れた。平原の礼震(17歳)は京師へ馳せ参じ、身代わりの死を願う上書をしたが、書が奏上される前に歙は獄中で没した。歙の掾・陳元が上書して切々と訟えたため、帝は棺木と印綬・縑三千匹を賜った。子の歐陽復が嗣ぐも早世し嗣子なく国は除かれた。門人の済陰の曹曾(字伯山)は三千人を教授し諫議大夫に至り、子の曹祉も河南尹となり家学を継いだ。また陳留の陳弇(字叔明)も司徒丁鴻から歐陽尚書を受け蘄長となった。

牟長

  • 牟長、字は君高。楽安臨済の人。祖先は牟に封ぜられたが春秋末に国が滅び氏とした。歐陽尚書を学び王莽の世には仕えず、建武2年に大司空宋弘に特に辟召されて博士、河内太守に遷るも墾田の不実により免官。再び博士となり、河内在任中は千余人を教授、著録した門人は前後で万人に上った。『尚書章句』を著し「牟氏章句」と俗称された。中散大夫に再徴されるも赴任の途上で没した。子の牟紆も隠居して千人の門生を教授し、肅宗(章帝)が博士に招こうとしたが道半ばで没した。

宋登

  • 宋登、字は叔陽。京兆長安の人。父の宋由は太尉。歐陽尚書を伝え数千人を教授、汝陰令として明政を敷き「神父」と称された。趙相を経て尚書僕射。順帝は登の礼楽への明識を認め持節で太学に臨ませ典律を奏定させ、侍中に転じて権臣を抑退する上封事をしばしば行い、潁川太守として市に二価なく道に遺を拾わぬ治を実現した。病免の後自宅で没し、汝陰の人々は社に配祀した。

張馴

  • 張馴、字は子儁。済陰定陶の人。若くして太学に遊学し春秋左氏伝を暗誦、大夏侯尚書を教授した。公府に辟召され高第で挙げられ議郎に拝され、蔡邕と共に六経の文字を奏定、侍中に抜擢され祕書を典領し、便宜に応じて政の得失を上言し朝廷に嘉された。丹陽太守として恵政を敷き、光和7年に尚書、大司農に遷り、初平年間に官に没した。

尹敏

  • 尹敏、字は幼季。南陽堵陽の人。初め歐陽尚書を学び後に古文を受け、毛詩・穀梁・左氏春秋も善くした。建武2年、洪範消災の術を上疏、公車で待詔し郎中に拝され大司空府に辟召された。経記に博通する敏に図讖の校正を命じ王莽の代の崔発による書き換えを除かせたが、敏は「讖書は聖人の作ではなく近鄙の別字が多く俗説に類する、後生を惑わせよう」と諫めたが帝は容れなかった。敏は讖の闕文に「君無口為漢輔」(意味深長な戯字)を書き加えたところ帝が怪しみ問うと「前人が図書を増損しているのに倣った、万一を期しました」と答え、深く非難されたがついに罪には問われず、しかしこれにより出世が滞った。班彪と親善で日暮れまで語り合い自らを鍾子期・伯牙、荘周・恵施の仲に例えた。長陵令を経た永平5年、名士の周慮が捕らえられた事件に連座して免官、「瘖聾の徒こそ世の有道者だ、なぜ察察として此の患いに遭うのか」と嘆いた。永平11年、郎中を除せられ諫議大夫に遷り自宅で没した。

周防

  • 周防、字は偉公。汝南汝陽の人。父の周揚は若くして孤微、旅宿を営んで過客に供したが謝礼を受けなかった。防は16歳で郡の小吏となり、世祖の巡狩の際、経を試された諸掾史の中で最も能く誦し守丞に拝されたが、未冠を理由に辞去した。徐州刺史蓋豫に師事し古文尚書を受け経明で孝廉に挙げられ郎中となり、『尚書雑記』三十二篇・四十万言を撰した。太尉張禹の推薦で博士に補され、陳留太守に遷るも法に坐して免官、78歳で自宅に没した。子の周挙は別に伝がある。

孔僖

  • 孔僖、字は仲和。魯国魯の人。孔安国以来代々古文尚書・毛詩を伝えた。曽祖父の孔子建は若くして長安に遊学、崔篆と親しく交わったが、崔篆が王莽に仕え建新大尹となった際「私には布衣の志、貴殿には衮冕の志がある、各々好むところに従うのがよい、道が既に違ったからにはここで別れよう」と告げて帰郷し自宅で没した。孔僖は崔篆の孫の崔駰と再び親しく交わり太学に遊学、共に春秋を読んで呉王夫差の故事に至ると「まさに画龍成らずして反って狗となる(竜を描こうとして失敗し犬になる譬え)」と歎じた。崔駰も同意し「孝武帝も即位当初の善政(十七歳で即位し文帝・景帝に勝るとまで称された治世)から後に驕り、前の善を忘れた」と論じたところ、傍らの梁郁が「では武帝も狗か」と難詰した。二人が黙して答えぬのを恨んだ梁郁は密かに上書し、駰・僖が先帝を誹謗し当世を刺譏したと訴えた。
  • 駰が取り調べを受け、僖にも捕吏が迫ると、僖は肅宗(章帝)に自訟の上書をした。「誹謗とは実際にない事を虚偽で誣いることを言う。孝武帝の政の美悪は漢史に明らかで日月のごとく明白であり、これは書伝の実事を直説したにすぎず虚謗ではない。帝たる者、善は天下の善として帰し、不善もまた天下の悪として集まるもの、これらは全て自ら招いた結果であり人を誅すべきではない。陛下は即位以来政教に過ちなく徳沢も加わっており天下がこれを知るのに、臣らが何を譏刺しようか。もし非難が実に当たらぬなら悛改すればよく、当たらぬなら寛容にすればよい、何の罪があろうか。陛下が大局を推し量らず私忿を肆にして意を快くすれば、臣らは死んでも構わぬが、天下の人は陛下の心を窺い今後は諫言する者がいなくなるだろう。斉桓公は先君の悪を自ら公にして管仲を招いた故事があるが、陛下が十世前の武帝の実事すら諱むのは桓公と異なるのではないか。謹んで闕に詣り重誅を待つ」との切々たる内容であった。帝は始め罪に問う意はなく、上書を見て問責を止め、僖を蘭台令史に拝した。
  • 元和2年春、帝が東巡狩の帰途に魯を過ぎ闕里に幸し太牢で孔子と七十二弟子を祀り六代の楽を作らせ、孔氏の男子二十歳以上63人を集め儒者に講論させた。僖が謝辞を述べると、帝が「今日の会は卿の宗にとって光栄か」と問うたのに対し「明王聖主は師を尊び道を貴ぶもの、陛下が万乗を屈して敝里に臨まれるのは先師を崇める礼であり聖徳を輝かせるもので、臣らの光栄というべきものではありません」と答え、帝は大笑して「聖人の子孫でなければこの言葉は出まい」と郎中に拝し褒成侯の孔損以下孔氏一族に銭帛を賜った。僖は帝に従い京師に戻り東観で校書、冬に臨晋令となった。崔駰が家に伝わる易林で占うと不吉と出て辞めるよう勧めたが、僖は「学は人のためにせず、仕は官を択ばず、吉凶は自らに由るもので卜に由るものではない」と応じ、在任3年で官に没した。
  • 遺言で即座に葬るよう命じられた二子(長彦・季彦、共に十余歳)に対し蒲坂令の許君然が魯への帰葬を勧めたが、「柩を載せて帰れば父の遺命に背き、墓を捨てて去るには忍びない」として華陰に留まった。長彦は章句の学を好み、季彦は家業を守り門徒数百人を擁した。延光元年、河西で大雹(大なるものは斗の如し)が降った際、安帝が有道の士を召して変異を論じさせ季彦が徳陽殿で親問を受け、「これは陰が陽を凌ぐ徴、貴臣が権を専らにし母后の党が盛んなことを示す」と答えたが帝は黙して答えず、左右はこれを憎んだ。孝廉に挙げられても就かず、47歳で自宅に没した。
  • なお平帝の代、王莽が政を執った際、孔子の後裔の孔均を褒成侯に封じ孔子を褒成宣尼と追諡したが、王莽の敗亡で国を失った。建武13年、世祖は均の子の孔志を褒成侯に再封し、志の子の孔損が嗣ぎ、永元4年に褒亭侯に徙封された。損の子孔曜、その子孔完と代々伝わり献帝の初めに国は絶えた。

楊倫

  • 楊倫、字は仲理。陳留東昏の人。若くして司徒丁鴻に師事し古文尚書を習い郡文学掾となるが、歴任した数将との志が合わず不仕を貫き大澤で講授、弟子は千余人に及んだ。元初年間、郡の礼請・三府の辟召・公車の徴召にも病と称して応じなかったが、後に特に博士に徴され清河王傅となった。同年安帝が崩じると官を棄てて奔喪し闕下で号泣し続けたため、閻太后は専擅を咎めて罪に抵れさせたが、順帝即位後に刑を免ぜられ恭陵で服喪を終え侍中に拝された。
  • 邵陵令の任嘉が貪汚のまま武威太守に遷った後、贓罪千万銭が発覚し廷尉に徴考され連座した将相大臣は百余人に及んだ事件で、倫は「春秋は悪を誅すればその本にまで及ぶ、本を誅せば悪は消える」との論を上書し、湖陸令張畳・蕭令駟賢・徐州刺史劉福らの前例を挙げ、挙主(推薦者)にも罪を及ぼさねば姦の萌芽は絶えぬと説き、斉の桓公が姦臣5人を殺しその推挙者にも及んだ故事を引いた。この言辞が不遜とされ、密事を探り直言を求めたとして不敬の罪で鬼薪に処されかけたが、順帝は倫の忠言を評価し特に赦し免じて帰郷させた。
  • 陽嘉2年、太中大夫に徴され、将軍梁商の長史となるも諫諍が合わず常山王傅に出るが病と称して赴任せず、催促の詔に対し河内朝歌に留まり「留まって死ぬこと一尺も、北行すること一寸もなし、頸を刎ねても悔いず、九裂されても恨みなし」と上書して拒んだ。帝は「幽谷を出て喬木に昇るがごとき厚遇を受けながら藩傅の任を稽留し、道路を擅めて疾を託して勝手に振る舞うのは狷志(頑なさ)である」と詔したが、廷尉に召された後に赦された。前後三度の徴召をいずれも直諫の不合により拒み、帰郷して閉門講授し人事を絶ち、公車の再徴にも応ぜず自宅で没した。
  • 中興以降、北海の牟融は大夏侯尚書、東海の王良は小夏侯尚書、沛国の桓栄は歐陽尚書を習い、栄の家は世々相伝えて東京で最も盛んであった。扶風の杜林は古文尚書を伝え、同郡の賈逵がこれに訓を作り、馬融が伝を、鄭玄が注解を作ったことで古文尚書は世に顕れた。