後漢書卷一百五 劉袁呂列傳第六十五 呂布

「三姓の家奴」の悲劇

  • 呂布、字は奉先、五原郡九原の人。弓馬の武で并州刺史丁原の騎都尉となり河内に屯した際、主簿として親任された。霊帝崩後、原は何進の召しに応じ執金吾として洛陽に赴いたが、進の敗死後、董卓が布を誘い原を殺させその兵を併合した。卓は布を騎都尉とし父子の誓いを結んで寵愛、中郎将・都亭侯に至った。
  • 卓は凶暴のあまり常に布を護衛に置いたが、些細な過ちで布に手戟を投げつけたこともあり、布は表面上詫びつつ内心恨みを抱いた。卓が布に中閤(宮中の内房)を守らせる一方、布は卓の侍婢と密通し不安を深め、司徒王允に卓に殺されかけたことを訴えた。允は僕射士孫瑞と誅卓を謀り布に内応を求めたが、布が「父子の情がある」と躊躇すると、允は「あなたは姓を呂といい元来骨肉ではない、死を恐れて今も忙しいのに何の父子か、戟を投げつけられた時に父子の情などあったか」と説き、布は承諾し門で卓を刺殺した(詳細は董卓伝)。允は布を奮威将軍・仮節・儀同三司・温侯に封じた。
  • 允が涼州人を赦さなかったため李傕らが長安を攻め、布は敗れ卓の首を馬鞍に懸けて武関から南陽の袁術のもとへ逃げた。術は厚遇したが布は殺卓の功を恃み兵に略奪を働かせ術を悩ませたため、河内の張楊のもとへ移った。李傕らが布に懸賞をかけていることを知った楊の将たちは布を売り渡そうとしたが、布は楊に「同郷の誼で殺してもさほどの功にならぬ、生きたまま売れば大きな爵寵が得られる」と説いて逃げ延び、袁紹のもとへ走った。
  • 紹と共に常山の張燕を攻めた際、布は愛馬「赤兎」に乗り、健将の成廉・魏越らと数十騎で燕陣を1日3、4回突撃、連戦十余日で燕を破った。しかし功を恃み紹にさらなる兵を求め、将士の暴横も相まって紹は布を疎み、布も不安になり洛陽への帰還を求めた。紹は承制で司隷校尉を布に与えると装いつつ、密かに送りの壮士に布を殺させようとしたが、布は帳中で箏を奏でさせ隠密に脱出し免れた。
  • 陳留太守張邈を頼ると邈は厚遇し義を誓った。邈、字は孟卓は若くして俠で知られ、董卓の乱で操と挙兵、袁紹が盟主として驕慢に振る舞った際に義を正して責めたため紹に恨まれ、また布との親交も紹の疑いを招き、紹は操に邈殺害を勧めたが操は応じなかった。
  • 興平元年(194年)操が東の陶謙を攻めた隙、部将の陳宮が邈に「今こそ呂布を迎えて兗州を得る好機」と説き、邈は弟の張超・宮らと布を迎えて兗州牧に立て濮陽に拠った。操が引き返し攻め、100余日の対峙の末、旱蝗による飢餓で百姓が人を食う惨状となり、布は山陽に退き、翌年操が諸城を陥として鉅野で布を破ると、布は東の劉備を頼った。邈は袁術に救援を求める途上、部下に殺され、超は雍丘で操の兵に囲まれ屠され三族を滅ぼされた。
  • 劉備が徐州で下邳に拠り袁術と淮上で対峙していた際、術は布に「董卓誅殺の功に続き劉備を破れば重ねて功を成せる、兵糧20万斛を送る」と誘い、布は喜んで下邳を襲い備の妻子を捕らえた。備は海西で飢困し布に降を請うと、布は術の兵糧が届かなかったことに立腹し、逆に備を豫州刺史として小沛に迎えた。布は自ら徐州牧を称した。
  • 術は布との対立を恐れ子の婚姻を求め、布はこれに応じたが、術が紀霊らに歩騎3万で備を攻めさせると、布は「劉備を破れば術は北の太山と結び自分は術に包囲される」と判断し千余の歩騎で駆けつけ、紀霊らを止めた。宴席で布は「私は闘いを好まず和解を好む」と述べ、営門に立てた戟の小支(枝刃)を弓で射抜いて見せ「命中すれば兵を退け、外れれば決闘してよい」と挑み、一発で命中させて紀霊らを驚嘆させ、和議が成った。
  • 術は再び韓暹・楊奉と結び僭号を布に告げつつ婚姻を求めたが、沛相陳珪は徐州・揚州の連合を恐れ布を説き「曹公は天子を奉じている、術との縁組は不義の名を負い累卵の危うさを招く」と諫めた。布も元来術を恨んでおり、嫁ぐ途中の娘を呼び戻し婚約を破棄、術の使者・韓胤を捕らえて許に送り操に殺させた。
  • 陳珪は子の陳登を操に送ろうとし、布は当初拒んだが、左将軍への任命の使者が来ると喜んで登を送り上表謝恩させた。登は操に「布は勇にして無謀、去就に軽々しい、早く図るべき」と進言し、操は「狼子野心、久しく養い難い、卿でなければこの真意は見抜けなかった」と珪の秩を中二千石に上げ、登を広陵太守とし、内応の約束をした。
  • 布は徐州牧の正式任命を得られなかったことを知り怒り「珪父子は曹操との協同と術との断絶を勧めたのに、私は何も得ずお前たち親子だけが顕重されるとは、私は売られたのだ」と登を詰ったが、登は動じず「私は曹公に『将軍を虎のように養うべき、腹を満たさねば人を噛む』と言ったところ、曹公は『鷹のように、飢えれば使い、満ちれば飛び去る』と答えた」と切り返し、布は納得した。
  • 術は韓胤の死を怒り張勲・橋蕤らと韓暹・楊奉を結んで七道から布を攻めた。布は兵3千・馬400のみで劣勢を陳珪に相談すると、珪は「暹・奉は術との急ごしらえの連合で謀が定まらない、連なった鶏が同じ棲に留まれないように離間できる」と献策。布は暹・奉に「両将軍は帝を守り私も董卓を手ずから殺した、共に功名を竹帛に残すべきだった、術の逆を共に討ち軍資はすべて渡す」と書を送り、暹・奉は喜んで下邳で張勲らを大破、橋蕤を生け捕り、術軍は水に溺れ壊滅した。
  • 太山の臧覇らが莒城を攻略した際、布は財幣で結ぼうとし自ら赴いたが、督将の高順が「将軍の威名は隠れもない、なぜ自ら賂を求めに行くのか、失敗すれば損なうだけだ」と諫めるも聞かず、莒城の臧覇らは布の来意を測りかね固守して拒み、布は空手で帰った。順は清廉で寡黙、統率力に優れ戦えば必ず勝ったが、布は決断が軽率で常に振る舞いが一定せず、順の諫言もしばしば従わなかった。
  • 建安3年(198年)布は再び袁術と結び、順に劉備を沛で破らせた。曹操は夏侯惇を救援に送ったが順に敗れ(惇は流れ矢で左目を失った)、操は自ら布を攻め下邳城下に至った。降伏勧告の書を送ると布は降ろうとしたが、陳宮は操への負い目からこれを阻み、「曹公は遠征で長くは持たない、将軍が城外に歩騎を出し宮が内で守れば、宮が背後を突くか、あるいは城攻めに時間がかかれば操軍の兵糧は尽きる」と説き、布はこれに同意しかけたが、妻が「曹氏は公台(陳宮)を我が子のように扱っても裏切って我々に帰した、今また公台を城に残し将軍が孤軍で出れば、変事があれば私は妻でいられるのか」と説得し、布は思いとどまった。
  • 布は袁術に救援を求めつつ自ら千余騎で出撃するも敗れて城に籠り、術も救えないまま操は城を包囲し沂水・泗水を堰き止めて灌水した。3か月の籠城で上下離心が進み、部将侯成の名馬を盗んで逃げた客を成が捕らえた際、諸将が祝おうとしたのを布は「私は禁酒令を出しているのに酒を醸しているのは、酒に乗じて謀を企てているのか」と怒った。恐れた成は陳宮・高順を捕らえ全軍を挙げて降った。
  • 布は麾下と白門楼に登り、包囲の激化に左右に自らの首を操に届けさせようとしたが、左右が忍びず布を促して降伏させた。布は操に「今日をもって天下は定まる、公の憂いは私だけだった、今降った私を騎兵に、公は歩兵に配せば天下は容易く平らげられる」と述べたが、劉備が「玄徳(劉備自身)は座上の客なのに私は捕虜として縄で縛られている、あなたは口ひとつで解けるでしょう」と操に言うと、操が縄を緩める素振りを見せた際、劉備は「丁建陽・董太師に仕えた呂布を見なかったか」と釘を刺し、操は頷いた。布は劉備を睨み「大耳の男(劉備)が最も信用ならぬ」と言い放った。
  • 操が陳宮に「公台よ、常々智恵に自信があったろう、今の心境は」と問うと、宮は布を指し「この者が私の言に従わなかった結果だ」と答えた。操は「母上をどうする」と問うと、宮は「老母は公の手にある、私の手にはない、孝で天下を治める者は人の親を害さぬはずだ」と答え、「妻子は」と問われると「覇王の主は人の祭祀を絶やさぬと聞く」と答え刑を求め、操は涙しながら宮を送り出した。布・宮・順は皆縊り殺され首は許の市に晒された。

  • 劉焉は凡庸な牧を演じ後福を望んだが、その責を全うできず地を失い身を滅ぼした。袁術は貪欲に僭号し、呂布もまた節操なく主を裏切り続けた、と評した。