僭号の末路
- 袁術、字は公路、汝南郡汝陽の人、司空袁逢の子。若くして俠気で知られ、後に孝廉に挙げられ河南尹・虎賁中郎将に至った。董卓の廃立に際し後将軍とされたが禍を恐れ南陽に出奔。長沙太守孫堅が南陽太守張咨を殺し術に従うと、劉表は術を南陽太守に上表、術も堅を豫州刺史に上表し陽人で董卓軍を破らせた。
- 従兄袁紹が堅の討卓軍に遅れをとったことを機に、越会稽の周昕に堅の豫州を奪わせようとしたが術が撃退した。紹が劉虞を帝に立てようとした議に術は乗らず、以後両者は各々公孫瓚・劉表と結んで対立、術は「豪傑どもは私に従わず私の家の奴(庶出の紹を指す)に従うのか」と怒り、瓚への書で「紹は袁氏の子ではない」と中傷した。
- 初平3年(192年)術は孫堅を劉表討伐に送るが堅は戦死、公孫瓚は劉備を送り術と結んで紹を挟撃したが紹・操の連合軍に破れた。4年(193年)術は陳留に入り封丘に屯し黒山残党・匈奴於扶羅らと結んで操と匡亭で戦い大敗、雍丘に退き、さらに九江に奔り揚州刺史陳温を殺してその地位を奪い、徐州伯も自称した。李傕は術を左将軍・仮節・陽翟侯に封じ結ぼうとした。
- 術は南陽在任時、数十百万戸を擁しながら法度を修めず掠奪を財源とし民に憎まれた。讖書の「代漢者当塗高」を自らの字(術・路がいずれも「塗」の意)に当てはめ、袁氏が陳(舜の後裔)から出て「黄が赤に代わる」五行の運に合うとして僭逆を企て、孫堅が伝国璽を得たと聞くと堅の妻を拘留して奪った。
- 興平2年(195年)冬、天子が曹陽で敗れた際、術は群臣を集め「海内は鼎沸し劉氏は微弱、我が家は四世にわたり公輔を出した名門、天意人望に応じたい」と諮ったが誰も答えず、主簿の閻象が「周は后稷から文王まで積徳を重ねてもなお殷に服事した、漢の衰えは殷紂ほど酷くない」と諫め、術は黙った。張範に諮問しても弟の張承が「徳は衆によらず、天下を制するには徳が要る、桓公の匹夫覇王の道もあり得るが、僭度・干時であれば衆に見捨てられる」と反論した。
- 術は孫堅の子・孫策に揚州刺史劉繇討伐を命じたが、策はこれを機に江東に拠り、術の僭号の企てを聞くと書を送って諫めた。「董卓の乱に豪傑が奮起し元悪(卓)が斃れた後は幼主を助けるべき時、しかし河北(紹)は黒山と結び、曹操は東徐を荒らし、劉表は南荊で僭乱、公孫瓚は北で叛逆、劉繇・劉備とも和せぬ状況が続いている、湯武の放伐は天下の悪政あってのこと、今の幼主は無実で聡明の徳がある、五世相承の宰輔(袁氏)は忠節を守るべき」と説いたが術は聞かず、策との関係を絶った。
- 建安2年(197年)河内の張炯の符命を機に、術は「仲家」を自称し僭号、九江太守を淮南尹と改め公卿百官を置き天地を郊祀、呂布に僭号を告げ子の縁組も求めたが布は使者を許に送って露見させ、術は激怒し張勲・橋蕤に布を攻めさせたが大敗、さらに陳国を攻めその王・寵と相・駱俊を誘殺した。曹操が自ら征討に向かうと術は淮を渡って逃げ、張勲・橋蕤を蘄陽に留めて防がせたが操に破られ蕤は斬られ勲も敗走。
- 術の兵は弱まり将は死に人心は離れ、旱害と飢饉で江淮の民は互いを食らうほどの惨状となった。沛相の舒仲応が術の与えた軍糧10万斛を飢民に施した際、術は激怒し斬ろうとしたが、仲応は「死を覚悟の上、百姓を塗炭から救うためだ」と述べ、術は馬を下りて「あなたは天下の重名を独り占めしようというのか」と怒りをぶつけつつも許した。
- 術は名を誇り奇を好みながら性は驕肆で、僭号後は淫侈がさらに増し、妾御数百に羅紈をまとわせ粱肉を飽食させたが、下の者は飢困しても顧みなかった。財は尽き果て建安4年(199年)夏、宮室を焼いて部曲の陳簡・雷薄を頼り灊山に逃れたが拒まれ、士卒は散り、憂懣のあまり帝号を紹に譲ろうとし「漢の禄が去って久しい、豪雄が土地を割拠する様は周末の七国時代と同じ、袁氏は受命の符瑞明らかで、あなたは四州の百万戸を擁している、曹操が漢の運を続けられるはずがない、大命はあなたのものだ」と書を送った。紹は密かにこれに同意したが、術は北へ袁譚を頼ろうとした途上、劉備に阻まれ引き返し寿春に戻った。6月、江亭に至り粗末な牀に座り「袁術がこのざまか」と嘆き、憤懣のうちに発病し吐血して死んだ。妻子は旧吏の廬江太守劉勲を頼ったが、孫策が勲を破ると再び捕らえられ、術の娘は孫権の後宮に入り、子の曜は呉に仕え郎中となった。
史論
- 天命の符験は見ることはできても言うことはできない、大福を得る者は信順に帰す(易経の言葉を引く)、事は順によらねば力があっても謀があっても成らない、それゆえ謀の得られぬ事に忠信を失い変詐が生じる、まして肆に僭称に走った袁術が天を欺けようはずもなく、天下に容れられる場所などなかったと評した。