後漢書卷一百五 劉袁呂列傳第六十五 劉焉

益州牧の始祖

  • 劉焉、字は君郎、江夏郡竟陵の人、魯恭王の後裔。若くして州郡に任じ、宗室として郎中を拝したが辞し、陽城山で講学。賢良方正に挙げられ南陽太守・宗正・太常を歴任。霊帝の代、州刺史の威が軽く四方の兵乱を鎮められない状況を憂え、重臣を「牧伯」として選び方夏を鎮めるよう建議した。自らは交阯を望んで難を避けようとしたが、益州刺史郗倹の悪政、并州刺史張懿・涼州刺史耿鄙の横死を機に、監軍使者・領益州牧に任じられた(同時に太僕黄琬が豫州牧、宗正劉虞が幽州牧となり、州牧の重みはここに始まった)。
  • 益州の賊・馬相が黄巾を自称し数千人を集め綿竹令を殺し雒県を攻め郗倹も殺し、蜀郡・犍為を破って10余万に膨れ「天子」を称した際、州従事賈龍が数百の兵で紏合し破った。龍は焉を迎え、焉は龍を校尉として綿竹に移った。龍は寛恵を装いつつ密かに異心を抱いた。
  • 沛の張魯の母は美貌と鬼道を持ち焉の家に出入りし、魯は督義司馬に任じられ、別部司馬張修と共に漢中太守蘇固を襲殺し斜谷を断ち使者を殺した。魯は漢中を得ると張修も殺してその衆を併合した。焉は威刑を立てるため州中の豪強10余人(王咸・李権ら)を殺し、士民に怨まれた。
  • 初平2年(191年)犍為太守任岐と賈龍が焉に反したが撃破され、焉の意気はますます盛んになり、天子の乗輿に擬した車重を千余乗も造らせた。4子のうち範(左中郎将)・誕(治書御史)・璋(奉車都尉)は献帝と共に長安にあり、別部司馬瑁だけが益州に随行した。朝廷は璋に焉を諭させたが、焉は璋を留めて帰さなかった。
  • 興平元年(194年)征西将軍馬騰が範と李傕誅殺を謀った際、焉は叟兵(蜀兵)5千を援助したが戦に敗れ範・誕は殺された。焉は二子を失った悲しみに加え天火で城府・車重・民家が焼かれ、成都に移ったが背に腫瘍を発して没した。
  • 州の大吏趙韙らは璋の温仁さを推し刺史に立て、朝廷も監軍使者・領益州牧とし、韙を征東中郎将とした。荊州牧劉表が焉の僭越(天子の車服を真似た)を上表していたため、韙は朐䏰に屯して表に備えた。かつて南陽・三輔から数万戸が益州に流入し、焉はこれを「東州兵」と名付け養っていたが、璋は柔弱で威が乏しく東州人の横暴を制せなかった。趙韙は巴中で人望を得つつ、建安5年(200年)州の大姓と結んで璋に反した。東州人は誅滅を恐れ璋のために死戦し反乱を鎮圧、韙を江州で斬った。
  • 張魯は璋の暗愚に従わなくなり、璋は怒って魯の母と弟を殺し、龎羲らに魯を攻めさせたが幾度も敗れ、魯の部曲の多くが巴の地にいたため羲を巴郡太守に据えたところ、魯はこれを奪い巴漢の地に雄拠した。
  • 建安13年(208年)曹操が荊州征討に向かうと璋は使者を送り敬意を表し、振威将軍に、兄の瑁は平寇将軍に任じられた。璋は別駕従事張松を操のもとに送ったが操は礼を尽くさず、松は恨んで帰り、璋に曹氏を絶ち劉備と結ぶことを勧め、璋は従った。
  • 16年(211年)操が漢中の張魯討伐に向かう動きを聞いた璋は恐れ、松は再び劉備を迎えて操に対抗することを勧め、璋は法正に兵を与え備を迎えさせた。主簿の巴西黄権は「劉備は驍名がある、部曲として扱えば不満、賓客として扱えば一国に二主となる、危険だ」と諫め、従事広漢の王累は州門で自ら逆さ吊りになって諫めたが、璋は聞かなかった。
  • 備は江陵から涪城に至り、璋は歩騎数万で会見した。張松は会見の場で璋を襲うよう備に勧めたが、備は忍びず、翌年葭萌に出屯するに留まった。松の兄・広漢太守張粛は禍が及ぶことを恐れ松の謀を璋に告げ、松は斬られた。璋は関所に備の通行を禁じるよう命じたが、備は激怒し兵を返して璋を攻め連戦連勝、建安19年(214年)成都を包囲した。城中には精兵3万・1年分の穀物があり抗戦を望む声もあったが、璋は「父子二代20余年治めながら百姓に恩徳を施せず、3年の戦で民の血肉が野に流れたのは私のせいだ、どうして安穏としていられよう」と述べ開城降伏、群臣は涙した。備は璋を公安に移し財宝を返した。璋はのちに病没した。
  • 翌年、曹操は張魯を破り漢中を平定した。魯、字は公旗、祖父の張陵は順帝の代、蜀に客居し鶴鳴山で道を学び符書を作って百姓を惑わし、道を受ける者から米5斗を取ったため「米賊」と呼ばれた。陵の道は子の衡、さらに魯へと伝わり、魯は自ら「師君」を称した。学ぶ者は初め「鬼卒」、のち「祭酒」と呼ばれ、多くを率いる者を「理頭」と称し、誠信を重んじ病は首過(過ちを告白すること)のみで治すとした。義舎を路傍に建て米肉を置き行旅に施し、犯法者は3度赦してから刑を行い、長吏を置かず祭酒を以て民を治め、漢中の民・夷は篤くこれを信奉した。朝廷はこれを討てず、魯を鎮夷中郎将・領漢寧太守に任じた。韓遂・馬超の乱で関西から数万家が漢中に逃れた。
  • ある者が地中から玉印を得たことから、魯を漢寧王に推そうとする動きがあったが、功曹の閻圃は「漢川の民は10万戸、四面険固で豊かだ、朝廷に忠を尽くせば桓文の覇に匹敵し、次善でも竇融のように富貴を保てる、今急に王を称せば禍を招く」と諫め、魯は従った。魯は漢川で約30年を治めた。
  • 曹操の征討軍が陽平に至ると、魯は漢中を挙げて降ろうとしたが弟の衛が聞かず数万で関を固守、操に破られ衛は斬られた。陽平陥落を聞いた魯が降伏に向かおうとすると、閻圃は「急いで降れば功が軽い、まず巴中に拠ってから帰順すれば功が大きい」と説き、魯は南山に逃れた。左右は宝物庫を焼こうとしたが、魯は「もとより帰命の意はあった、今の逃避は鋭鋒を避けるためで悪意はない」と述べ封印して去った。操は南鄭に入りこれを嘉し、人を送って慰安、魯は家族を挙げて出迎え、鎮南将軍・閬中侯・邑1万戸に封じられた。魯の5子と閻圃らも列侯となった。魯は没して原侯と諡され、子の富が継いだ。

史論

  • 劉焉は時勢の困難を見て早くから避難の地を求めた点は「見幾而作」(機を見て動く)に通じるが、地が広く財が豊かになれば驕慢と僭奢の心が生じるのは常人の常であった。璋は隘を閉じ力を養い先図を守れば時勢に応じられたものを、あっさりと国の利器(益州)を手放し、羊の質に虎の皮を着けたような(力の伴わぬ虚飾の)姿で豺(劉備)を恐れる結果となったと評した。