後漢書卷一百四下 袁紹劉表列傳第六十四下 劉表

荊州の平定と晩年の混乱

  • 劉表、字は景升、山陽郡高平の人、魯恭王の後裔。身長8尺余、姿貌温偉。同郡の張儉らと共に誹謗され「八顧」と称された党人として詔で捕らえられそうになったが逃れ、党禁解除後、大将軍何進の掾となった。初平元年(190年)長沙太守孫堅が荊州刺史王叡を殺した事件を受け、詔で表が荊州刺史に任じられた。
  • 当時、江南は宗族集団による賊が盛んで、袁術も魯陽に兵を構えていたため、表は単騎で宜城に入り、南郡の蒯越・襄陽の蔡瑁と謀った。表が「宗賊は多いが人望はない、袁術が乗じれば危うい、兵を集めたいが集まるか」と問うと、越は「治世は仁義、乱世は権謀、兵の多寡より人を得ることが肝要、袁術は驕慢で謀に乏しく宗賊の多くも貪暴だ、利で誘えば衆を率いて来る、これを誅して威徳を示せば人々は自ずと帰服する」と説いた。表はこれを容れ、宗賊の帥15人を誘って斬り、その兵を接収、江夏の張虎・陳坐だけは襄陽城を拠点に抵抗したが蒯越・龐季の説得で降伏させ、江南は平定された。
  • 諸郡の守令は表の威名を聞き印綬を解いて去る者が多く、表は襄陽で兵を整え情勢を伺った。従兄袁紹と不和な袁術は孫堅と結んで表を襲ったが、表は破れ堅に襄陽を囲まれたものの、将の黄祖が救援し、堅は流れ矢に当たって死んだため、術軍は退いた。李傕らが長安に入ると表は貢を奉じ、鎮南将軍・荊州牧・成武侯・仮節に任じられ傕の後ろ盾となった。
  • 建安元年(196年)驃騎将軍張済が関中から南陽に逃れ穣を攻めた際、流れ矢で死んだ。荊州の官属が祝ったが、表は「窮して来た者を主人が礼を尽くさず戦になったのは自分の落ち度、弔うべきで祝うべきではない」と述べ、済の従子・張繡を招いてその衆を服させた。3年(198年)長沙太守張羨が零陵・桂陽と共に叛いた際は兵を送り平定した。
  • こうして表の領土は南は五嶺、北は漢川に及び数千里、甲兵10余万を擁するに至った。荊州の混乱を招いた奸猾な旧賊も表の招撫でよく用いられ、万里が粛清され民は服した。関西・兗豫から避難する学士は千人を数え、表はこれを賑恤して安んじ、学校を立て儒術を求め、綦母闓・宋忠らに五経章句を撰させ「後定」と呼ばれた。
  • 曹操と袁紹が官渡で対峙した際、紹は援助を求めたが表は許しつつ出兵せず、操も助けなかった。従事中郎の韓嵩・別駕の劉先は「両雄が対峙する今、天下の重みは将軍にある、10万の甲を擁しながら傍観し、援も助も与えぬのは両者から恨みを買う、曹操は用兵に優れ賢俊も多く帰しており必ず紹を破る、荊州を挙げて操に付くのが万全の策」と説き、蒯越も同意したが表は迷い続け、まず韓嵩を使者として許に送り実情を探らせた。
  • 嵩は表に「曹公の明は必ず天下を得る、もし帰順するならば私を使者に、迷うならば私が許で天子から一職を受けても構わないか、それは天子の臣、将軍の故吏となることを意味し将軍のために死ぬ立場ではなくなる」と念を押し、表はこれを許した。嵩は許で侍中・零陵太守に任じられ、帰還後は朝廷と操の徳を称え子を人質に送るよう勧めたため、表は懐柔されたと激怒し斬ろうとしたが、嵩は動じず、妻の蔡氏が賢を惜しんで諫めたため、随行者は拷問死させつつ嵩自身は投獄に留めた。
  • 建安6年(201年)劉備が袁紹のもとから荊州に逃れ、表は厚遇したが用いなかった。13年(208年)曹操の自らの南征の途上、表は背中の腫瘍で病死した。荊州在任約20年、家に蓄財はなかった。
  • 表には琦・琮の2子があり、当初容貌が似た琦を愛したが、後妻蔡氏の姪を琮に娶わせてから蔡氏は琮を愛し琦を嫌い、悪評を表に吹き込んだ。表は後妻の言を信じ、蔡氏の弟蔡瑁・甥の張允も表に寵愛され琮と結んだため、琦は不安を覚え、諸葛亮に相談したが亮は答えなかった。琦は高楼に亮を招き梯子を外して「今、上は天に届かず下は地に届かない、口から出た言葉は私の耳にしか入らない」と迫り、亮は晋の申生(内にとどまり死んだ太子)と重耳(外に出て安全だった公子、のちの晋文公)の故事を引いて示唆した。
  • 悟った琦は密かに謀をめぐらせ、江夏太守黄祖が孫権に殺されたのを機にその後任を求めて江夏に出た。表の病が篤くなると琦は見舞いに戻ったが、蔡瑁・張允らは表父子が情に絆されて後継が覆ることを恐れ、「江夏の任は重い、勝手に離れれば譴責される、親子の情に流れれば孝敬の道に反する」として琦を戸外で止め、涙ながらに引き返させた。表の死後、琮が嗣子に立てられ、琮は侯印を琦に贈ったが琦は怒って地に投げつけた。
  • 琦は喪を口実に挙兵しようとしたが、曹操の軍が新野に至ると江南に逃げた。蒯越・韓嵩・東曹掾傅巽らは琮に降伏を説いた。琮が「全楚の地と先君の業を保ちながら天下を観望すればよいではないか」と言うと、巽は「逆順には大体があり強弱には定勢がある、臣として君主に逆らうのは逆道、新興の楚で中国に抗するのは危うい、劉備で曹公に対抗するのも不相応、この3つはいずれも短所だ、将軍と劉備どちらが優れているか」と問い、琮が「劣る」と答えると「劉備が曹公を防げないなら楚は保てず、防げるなら備は将軍の下にはとどまらない、疑わず降るべき」と説いた。操軍が襄陽に至ると琮は州を挙げて降伏、劉備は夏口に逃れた。
  • 操は琮を青州刺史・列侯に、蒯越ら15人を侯に封じ、投獄していた韓嵩を解放しその名声を重んじて厚遇、州人の優劣を条品させて登用した。嵩は大鴻臚として友人の礼で遇され、蒯越は光禄勲、劉先は尚書令となった。かつて表が袁紹と結んだ際に諫めた侍中従事の鄧義は病と称して隠退し表の代には仕えなかったが、操は侍中に任じ、他の旧臣の多くも高官に至った。操が赤壁で敗れた後、劉備は琦を荊州刺史に推し、翌年琦は没した。

史論

  • 袁紹は当初豪侠の気で衆望を得て雄覇の図を懐き、決戦の場では猛者が命を賭け、深謀を巡らすときには智士が心を傾けたほどの資質があった。しかし韓非子の言う「狠剛にして和せず、愎過にして勝を好み、嫡子軽んじて庶子を重んじる」亡国の徴に紹はまさに当てはまった。劉表は道を越えず天運を待とうとしたが、三分の天下に名を連ねる器量には至らず、木偶人形のように無為であったと評した。

  • 紹は姿宏雅で、表もまた長者と呼ばれた。紹は河外に雄を称し南夏に強を擅にし、戦列は漢水のように連なり冀馬(冀州の名馬)が雲のように屯した。図讖を窺い天への祭祀を行い、天与の器量には人の助けも要ったが、頑迷で成果は少なく、口先だけの論では何を望めよう(劉表を評した言葉)。長子への偏愛が業を傾け身を滅ぼした、と評した。