後漢書卷一百六 循吏列傳第六十六

序――循吏を選んだ理由

  • 光武帝は民間に育ち人情の真偽をよく知り、天下平定後は安静を旨として王莽の煩雑な法を解き、漢初の軽い法に戻した。粗末な服を着け珍宝を好まず、公卿・郎将をしばしば禁坐(御前)に招いて民の困窮を尋ね風謡を集めさせた。地方官も競って治績を上げ、南陽の杜詩は「杜母」と称され、任延・錫光は辺境の風俗を変えるなど、その功績は著しかった。第五倫・宋均らも称すべき者だが、建武・永平の頃は吏事が過酷で、朱浮・鍾離意らが諫めても改まらなかった。章帝・和帝以後も魯恭・呉祐・劉寛や潁川四長(当塗長荀淑・嬴長韓韶・太丘長陳寔・林慮長鍾皓)のように仁信篤誠で人を欺かせぬ治績を残す者が続いた。辺鳳・延篤は京兆尹として趙広漢・張敞に比され、王渙・任峻は洛陽令として姦を暴いたが、徳と礼による教化にはなお及ばぬ点があった。ここに殊なる評判のあった良吏を集め「循吏篇」とする。

衛颯(子産)――桂陽太守として蛮俗を教化

  • 衛颯、字は子産、河内郡修武の人。貧しく傭いをしながら学問を修め、王莽の代に郡吏、建武2年(26年)大司徒鄧禹府に辟され侍御史・襄城令を経て桂陽太守に遷った。交州に接する桂陽は礼を知らぬ風俗であったが、颯は庠序の教えと婚姻の礼を定め、1年で風俗が変わった。
  • 含洭・湞陽・曲江の3県は越の故地で山深く、租税運搬に「伝役」と呼ばれる過酷な徭役が課されていたが、颯は500余里の山道を切り開き亭・伝・郵駅を整えて負担を軽減、逃亡民も戻って集落を成し租賦を平民同様に課せるようにした。耒陽県の鉄石を巡り私鋳が横行し亡命者の温床となっていたのを、官営の鉄官を設けて取り締まり、年収は500万余増えた。10年の在任で郡は清まり、光武帝は少府に召そうとしたが颯は病で拝せず、桂陽太守のまま帰郷を許され、まもなく重篤となり印綬を返上、銭10万を賜り家で没した。
  • 後任の南陽の茨充は桑柘麻紵の栽培と養蚕・織履を教え、江南に桑蚕・織履の技術を広めた功で知られる。

任延(長孫)――九真に牛耕と婚姻の礼を伝える

  • 任延、字は長孫、南陽郡宛の人。12歳で長安に学び詩・易・春秋に通じ「任聖童」と称された。更始元年(23年)会稽都尉となった際わずか19歳で、その若さに人々は驚いた。江南の乱を避けた高行の士(董子儀・厳子陵ら)を師友の礼で招き、掾吏の貧者には俸禄を分け与え、公田を耕させて窮民を救った。
  • 太末の隠士・龍丘萇が王莽の代に四輔三公の招きにも応じず節を守ったことに敬意を表し、召し出すことを躊躇いつつ功曹を送って礼を尽くし、萇は最終的に自ら府に赴き議曹祭酒となったが、まもなく病没、延は自ら喪に臨み3日朝せず弔った。
  • 建武初め、九真太守に任じられた。九真は牛耕を知らず米を交阯から取り寄せていたため、延は田器を鋳造させ開墾を教え収穫を増やした。駱越の民には婚姻の礼がなく、延は男20〜50歳・女15〜40歳の年齢を基準に配偶を定め、貧しい者には官吏の俸禄を割いて援助、同時に2千余人が娶り、その年は風雨順調で豊作となった。子を得た民は「任君のおかげで子を得た」と多くの子に「任」の名を付けたという。徼外の夜郎らの蛮夷も義を慕い服属し、辺境の偵候を廃した。
  • なお平帝の代、漢中の錫光が交阯太守として同様に礼義の教化を広め、延と並び称された(王莽末には境を閉ざし守ったが建武初めに帰順し塩水侯に封じられた。嶺南の教化はこの2人の太守から始まった)。
  • 延は4年の任期後に病で洛陽に召還され、雎陽令に左遷されたが、九真の吏人は生前から祠を立てて慕った。武威太守に転じる際、帝から「上官に善く仕え名誉を失うな」と戒められると、延は「忠臣は私せず、私する臣は忠ならず、正を履み公に奉じるのが臣子の節、上下雷同することは陛下のためになりません、上官に阿ることは詔でも受けられません」と答え、帝は感嘆した。
  • 武威で将兵長史田紺の子弟・賓客の暴虐を捕らえ処断すると、田紺の少子・尚が数百人を集め反乱を起こしたが延はこれを破り、以後威が境内に行き渡った。北の匈奴・南の羌に対しては武略の士千人を選び雑種胡騎の休屠黄石に要害を守らせ、寇賊を絶えさせた。河西の乏水地帯には水官を置き溝渠を修めさせ、また校学を立て掾吏の子孫に学ばせ、儒雅の士を輩出させた。のち擅に羌を誅したことを問われ召陵令に左遷、明帝即位後、潁川太守、永平2年(59年)河内太守を経て9年(66年)在任中に病没した。子の任愷は太常に至った。

王景(仲通)――黄河・汴渠の治水

  • 王景、字は仲通、楽浪郡&KR2071;邯の人。8世祖の王仲は琅邪の出で、呂氏の乱の際、斉哀王・済北王興居の兵の誘いを恐れ海を渡り楽浪山中に隠れ住んだ。父の閎は郡三老として更始の乱の際、樂浪の反乱を鎮め列侯を辞して家督を保った。
  • 景は易を学び衆書を渉猟、天文術数に長じ司空伏恭府に辟された。治水の才を推挙され、明帝の詔で将作謁者王吴と共に浚儀渠を修め、「墕流法」により水害を防いだ。かつて平帝の代に黄河・汴河が決壊し未修繕のまま、建武10年(34年)陽武令張汜が修理を上言したが、浚儀令楽俊が「元光年間(武帝代)の瓠子河決壊は20余年放置されても大事に至らなかった、今は兵革の後で民の負担が大きい、平静を待つべき」と反対し、光武帝はこれを容れ工事を止めた。
  • のち汴渠の氾濫が拡大し兗豫の民が朝廷の対応の遅さを恨む中、永平12年(69年)明帝は景を召し治水策を諮問、景の的確な応答に感心し『山海経』『河渠書』『禹貢図』・銭帛を賜り、数十万の卒を発して王吴と共に滎陽から千乗の海口まで千余里の堤を修めさせた。景は地勢を測り山を穿ち険を破って溝澗を通し、10里ごとに水門を立て流水を還流させる仕組みで漏水を防いだ。費用は簡約に努めても百億に及んだ。翌年夏、渠が完成し帝自ら巡行、河堤の吏員制度を西京の旧制に倣って整えた。王吴ら従事掾吏は皆1等昇進、景は侍御史に3遷し、15年(72年)東巡狩に従い河堤謁者に拝され車馬・縑銭を賜った。
  • 建初7年(82年)徐州刺史に遷った。かつて杜陵の杜篤が長安遷都を論じる文を上奏し老人たちが望郷の念を強めていたが、景は宮廟が既に洛陽に立っている以上、人心を惑わせることを憂え、神雀などの瑞祥に乗じて「金人論」を作り洛邑の美と天人の符を頌え人心を鎮めた。翌年廬江太守に遷り、牛耕を知らず地力を活かせなかった民に、楚の宰相孫叔敖が作った芍陂の稲田を修復させ牛耕を教え、境内の開墾が倍増、豊かになった。碑を刻んで禁令を示し、養蚕の法も定めて廬江に伝わった。官にあるまま没した。
  • 景は六経に卜筮の記載がありながら諸書の吉凶説が矛盾することを憂え、諸家の数術・冢宅禁忌・堪輿日相の類を参酌し実用に適うものを集めて『大衍玄基』を著した。

秦彭(伯平)――山陽・潁川太守の礼教

  • 秦彭、字は伯平、扶風郡茂陵の人。代々高位を継ぎ、6世祖の襲は潁川太守で同時に二千石を輩出した一族から「万石秦氏」と称された。妹が明帝の貴人となった縁で永平7年(64年)開陽城門候となり、15年(72年)騎都尉・副駙馬都尉耿秉に従い匈奴を征討した。
  • 建初元年(76年)山陽太守として礼を以て人を導き刑罰に頼らず、儒学を尊び春秋の饗射の礼を修め、四誡を定めて六親長幼の礼を示し、教化に従う者を郷三老に抜擢して労った。過ちある吏も辱めず罷免するに留めたため人心は懐き、稲田数千頃を興し肥瘠に応じて三品に分け文簿を郷県に保管、姦吏の付け入る隙をなくした。この制度を天下に敷くよう上言し、詔で三府から州郡に班行された。
  • 潁川太守に転じても鳳凰・麒麟・嘉禾・甘露の瑞祥が現れ、章帝の巡幸で恩賞を受けた。章和2年(88年)没した。弟の秦惇・秦褒も共に射声校尉となった。

王渙(稚子)――「王渙に神算あり」

  • 王渙、字は稚子、広漢郡郪の人。父の順は安定太守。若くして侠を好んだが晩年に改心し尚書・律令を学んだ。太守陳寵の功曹として豪右も憚らず割断し、寵は大司農に召された際、和帝への奏対で「功曹の王渙が簡賢選能したのみ」と謙遜、渙はこれで名を上げた。
  • 温令として姦猾を撃滅し境内が清まり、商人が道で野宿しても放牛を「稚子(渙)に属す」と言えば誰も侵さぬほどになった。兗州刺史として州郡を糾すも妖言の考察不十分の罪で免職、のち侍御史、永元15年(103年)洛陽令に拝され、寛猛の宜しきを得た治政で長年の冤罪を暴き、譎数で姦を発いたことから「神算」と称された。
  • 元興元年(105年)病没すると、百姓は千数の供物を持って悼んだ。喪が弘農を通る際、民は「常に米を洛陽に運ぶと卒司に半分掠奪されたが、王君の治世は侵されなかった」と道端で供物を捧げた。安陽亭西に祠が立てられ、食事のたびに弦歌して祀った。
  • 永初2年(108年)鄧太后は詔で、前漢の大司農朱邑・右扶風尹翁帰の故事を引き、渙の清修の節を称え、子の王石を郎中に任じてその功に報いた。延熹年間、桓帝が黄老道を尊び諸祠を廃した際も、密県の卓茂廟と共に洛陽の王渙祠は特に存続を許された。
  • 洛陽令として続いた鐔顕も名を知られ、豫州刺史時代、飢饉で盗賊とされた1万余人の民を、罪に落ちた困窮者と憐れみ自らの判断で赦し自劾したが、詔で不問とされた。のち長楽衛尉に至った。渙の没後、洛陽令の任は難役とされ、永平中に劇県出身の勃海の任峻が補された。峻は文武の吏を用い姦盗を糾し、1年の断獄は数十件のみ、威風は渙より猛かったが文理の巧みさでは及ばなかった。峻、字は叔高は太山太守で終えた。

許荊(少張)――兄弟の財産分与の逸話

  • 許荊、字は少張、会稽郡陽羨の人。祖父の許武は太守で、第五倫に孝廉に挙げられた際、未だ名の立たぬ2人の弟(許晏・許普)を成名させるため、財産を三分し自ら肥田広宅・強壮な奴婢を取り、弟に劣った分を残した。郷人は弟の謙譲を称え武を貪欲と非難したことで晏らは選挙に推されたが、武は宗親を集め「不肖な兄が名声だけを盗んでいた、弟が推挙されるためにわざと不公平な分配をした」と涙して告白し、増やした財産の3倍分をすべて弟に譲り、郡中はこれを称えた(武はのち長楽少府に至った)。
  • 許荊は郡吏となった際、兄の子・許世が報復殺人を犯し怨む者に攻められたところ、荊は自ら門に出て「甥の非を教え導けなかったのは私の責、兄は早世し許世は一子のみ、彼が死ねば血筋が絶える、私が代わって死のう」と跪いて訴え、怨みを持つ者は荊を助け起こし「許掾は郡中の賢者、どうして手をかけられよう」と去った。太守黄兢に孝廉に推挙され、和帝の代に桂陽太守に至り、南方の軽薄な風俗に喪礼・婚姻の制度を教えた。
  • 耒陽県の蒋均兄弟が財産を争ったのを見て「教化が及ばないのは太守の咎」と自ら罪を上申し廷尉行きを願い出たところ、均兄弟は悔い改め互いに受刑を求めた。12年の在任で病により諫議大夫に召され官で没し、桂陽の人々は廟を建て碑を立てた。孫の許馘は霊帝の代に太尉となった。

孟嘗(伯周)――「珠が戻った」合浦太守

  • 孟嘗、字は伯周、会稽郡上虞の人。先祖三世が郡吏として節に殉じた家柄。戸曹史として、姑に孝を尽くした寡婦が、亡くなった姑の毒殺を舅の妹に誣告され裁かれた冤罪を見抜き太守に訴えたが聞かれず、婦は寃死。以後郡は2年間旱魃に見舞われた。後任太守の殷丹が事情を聞き、嘗の進言で「東海の孝婦の故事に倣い訟えた者を刑して寃魂に謝すべき」として実行すると天は雨を降らせ豊作となった。
  • 徐令を経て合浦太守となった。合浦は穀を産まず珠を産し交阯と交易していたが、前任者の貪欲で珠が交阯に移り貧民が餓死する惨状であった。嘗の赴任後、1年足らずで珠が戻り交易も回復、「神明」と称された。病で召還される際、吏民が車に縋って引き留めたため進めず、郷民の船で夜に逃れ隠棲、耕作に従事した。桓帝の代、尚書の楊喬が「合浦太守孟嘗は仁義に篤く清行絶群、珠が戻り飢民を救った功にもかかわらず身は単身で病を理由に耕作している、廊廟の宝が溝渠に棄てられているようなもの」と7度上書して推薦したが登用されぬまま、70歳で家で没した。

第五訪(仲謀)――張掖太守として独断で穀倉を開く

  • 第五訪、字は仲謀、京兆長陵の人、司空第五倫の族孫。孤貧の中で兄嫂を養いながら学び、功曹から新都令となり治政3年で戸口が10倍に増えた。張掖太守として飢饉に際し穀価高騰の中、吏の懼れる譴責を顧みず自ら穀倉を開いて賑給し「太守は一身をもって百姓を救う」と述べ、順帝の璽書で称えられた。南陽太守、護羌校尉を歴任し辺境の信望を得て官で没した。

劉矩(叔方)――笞ではなく訓えで争いを解く

  • 劉矩、字は叔方、沛国蕭の人。叔父の劉光が順帝の代司徒だったため出仕を控えていたが、太尉朱寵・太傅桓焉に志義を評価され議郎となった。孝廉に挙げられ雍丘令として礼譲で人を化し、争訟のたびに「耳を引いて」諭し「怒りは我慢できても訟えを役所に持ち込むのはよくない」と諭して自ら再考させた。母の喪で辞官後、太尉胡広に賢良方正で推挙され尚書令に至った。
  • 性は亮直で権貴に阿らず大将軍梁冀の意に逆らい常山相に出され、冀の妻の兄・孫社が沛相となると害を恐れ彭城の友人宅に身を寄せた。冀の怒りが解けると従事中郎、尚書令、宗正、太常を歴任、延熹4年(161年)黄瓊に代わり太尉となり瓊が司空となると、种暠と共に賢相と称された。天変が続いた際、司隷校尉が三公を弾劾する中、尚書朱穆が矩らの功績を称え湯・高宗の「臣を罰しない義」を引いて擁護したが省みられず、蛮夷反乱を理由に免官、のち太中大夫に復し、霊帝初め周景に代わり太尉となった。上公として召された際も名儒宿徳の士とのみ交わり、日食で免職後、致仕して家で没した。

劉寵(祖栄)――「一銭太守」の由来

  • 劉寵、字は祖栄、東莱郡牟平の人、斉悼恵王の後裔。父の丕は通儒と称された学者。孝廉に挙げられ東平陵令として仁恵の政を行い、母の病で辞官する際は民が送迎に道を塞ぐほど慕われた。豫章太守、会稽太守を経て煩苛を除き非法を戒め、大治となった。
  • 山陰県の白髪の老人5、6人が若邪山谷から出て銭百を持参し寵に贈った際、「山谷の民は郡朝を知らず、これまでの吏は夜も民間から徴発し犬の吠える声が絶えず民は安眠できなかったが、明府が来てから犬も吠えず吏も現れず、聖明の世に巡り合えたので礼を尽くしたい」と述べた。寵は「私の政がそれほどのものか」と述べつつ、老人のため大銭一枚を選んで受け取った(「一銭太守」の逸話)。宗正・大鴻臚を経て延熹4年(161年)黄瓊に代わり司空となったが天変で免職、将作大匠・宗正を経て建寧元年(168年)王暢に代わり司空、さらに司徒・太尉を歴任、2年(169年)日食で策免され帰郷。二郡の太守と卿相を歴任しながら質素を貫き家に蓄財がなく、京師滞在中の宿でも吏に「劉公を迎えるほど整頓する必要はない」と言われるほどであった(言葉を発せず立ち去った逸話)。老病のうちに家で没した。
  • 弟の劉方は山陽太守。方の2子、岱(字は公山)・繇(字は正礼)は兄弟共に名を知られた。董卓の洛陽入りの際、岱は侍中から兗州刺史となり士人に慕われたが、初平3年(192年)青州黄巾を東平で討ち戦死。繇は揚州牧・振威将軍となり袁術に対抗して曲阿に移り、南奔する士友を厚遇したが、孫策に破られ豫章に奔り病没した。

仇覧(季智)――孝を諭した蒲亭長

  • 仇覧、字は季智(一名は香)、陳留郡考城の人。40歳で県に召され蒲亭長となり、農業を規則化し(果菜の栽培・鶏豚の数まで定める)、農閑期には子弟を学舎に通わせ、素行の悪い者には田桑の労役を課し、喪事を助け窮民を賑恤するなど1年で大化した。
  • 赴任早々、母親から「息子の陳元が不孝だ」と訴えられた際、覧は「近頃元の家を通ったが庭は整い耕作も時に適っていた、悪人ではない、教化がまだ及んでいないだけだ」と述べ、寡婦として苦労した母の心情を思いやりつつ諭すと、母は悔い涙して去った。覧は自ら元の家を訪ね母子で酒を酌み交わし、孝行の道と禍福を説き、元はついに孝子となった。郷里では「父母はどこにいる、我が庭にいる、私を教化して育ての恩に報いさせてくれた」との諺が生まれた。
  • 考城令の王渙(河内の人)は厳格な政を尚び、覧を主簿に任じ「陳元の過ちを罰せず教化したのは鷹鸇の志に欠けるのでは」と問うたが、覧は「鷹鸇よりも鸞鳳を目指す」と答え、渙は謝して「枳棘は鸞鳳の棲む所ではない、太学で名を上げる日も遠くない」と送り出した。
  • 太学に入った際、同郡の符融が高名を誇り賓客が絶えなかったが、覧は交わらず、融は覧の容止を奇として声をかけたが、覧は「太学は遊談の場ではない」と正色して答えた。融が郭林宗に告げると、林宗は自ら覧を訪ね、下床して拝したという。
  • 学業を終え帰郷後、州郡の招きに病を理由に応じず、家では常に礼を守り、妻子に過ちがあれば冠を脱いで自責し、妻子が謝るまで冠をつけず堂に上らなかった。方正で召されたが病没した。3子とも文史の才があり、末子の仇玄が最も知られた。

童恢(漢宗)――虎を裁いた不其令

  • 童恢、字は漢宗、琅邪郡姑幕の人。父の仲玉は凶荒の年に家財を傾けて九族を賑恤し、恢は司徒楊賜の招きに応じ、賜が弾劾された際、他の掾属が皆去る中、独り闕に赴いて弁護し、事が明らかになると評判を得た。
  • 不其令として、法を犯した吏には理を説き、善行の者には酒肴で勧奨、農業に条章を定め、獄は連年空となり流民が2万余戸帰化した。虎害に苦しむ民のため檻で虎2匹を生け捕り、恢は虎に「天は万物を生んだが人が最も貴い、虎狼は六畜を食らうべきで人を害するのは非道だ、殺人者は死罪、傷人者は法により裁く、もしお前が人を殺したなら頭を垂れて服罪せよ、無実ならば叫んで訴えよ」と呪言をかけると、1頭は頭を垂れ震え恐れる様子を見せたため殺し、もう1頭は恢を見て鳴き威嚇したため放したという。
  • 青州から才を推挙され丹陽太守に遷ったが急病で没した。弟の童翊、字は漢文は兄より名高く、宰府に先に招かれたが病と偽って仕えず、恢の任官後に孝廉に挙げられ須昌長として異政を上げ、吏人が生前から碑を立てたほどであった。挙主の喪で官を棄て、のち茂才に挙げられたが応じず家で没した。

  • 政治は張り詰めすぎることを畏れる(琴の弦を張りすぎれば切れるように、厳格すぎる法は民を乱す)、統治は小魚を煮るように穏やかであるべき(老子の言葉)。忠を推して民に及ぼせば病苦は自ずと除かれる。一人の守長が民情を得れば千の家々が安んじて弦歌する。その遺徳を慕い、賢者の名は永く語り継がれる、と評した。