出自と孝行
- 蔡邕、字は伯喈。陳留郡圉の人。六世祖の勲は王莽への出仕を拒み「二姓に仕えられようか」と印綬を返上して深山に逃れた。父の稜も清白の行いで知られた。
- 邕は篤孝で、母の三年の病に襟帯を解かず十旬も寝ずに看病し、母の死には墓側に廬して礼を尽くした。兎が室内に馴れ懐き、木に連理が生じるなど奇瑞が伝わり、叔父・従弟と三世同財で暮らし郷党に義を称えられた。
- 若くして太傅胡広に師事し博学、辞章・数術・天文・音律に通じた。桓帝の代、宦官五侯に琴の腕を望まれ召された際、偃師まで行って病と称し帰郷、閑居して古を玩び当世と交わらなかった。
「釈誨」
- 東方朔の『客難』や揚雄・班固・崔駰らの擬似問答に倣い『釈誨』を作った。「務世公子」が仕官を勧める問いに対し、「胡老(隠士)」が「聖哲の通趣は仕官にあるとは限らない」と答える構成で、政局が乱れた末世においては安易な功名を求めず、道を守り時を待つべきだと説く長大な論説である(韻文が多いため要旨のみ記す)。中で「今の世は災異が続き聖人は潜んでいる。狂淫奢侈の輩は財に殉じ権に死す」と当世の風潮を批判し、静を保ち命に従う生き方を選ぶ結論に至る。
「熹平石経」の建議
- 建寧三年、司徒橋玄に招かれ厚遇された。経籍が聖人の時代から遠く隔たり、俗儒の穿鑿で文字に誤りが多いことを憂い、熹平四年、五官中郎将堂谿典・光禄大夫楊賜・諫議大夫馬日磾・議郎張馴・韓説・太史令単颺らと共に六経の文字を正定する奏を上げ、靈帝の許可を得た。自ら碑に書し、工人に鐫刻させて太学門外に立てた(「熹平石経」)。これにより後学の規範となり、拓本を求める車が街を埋めたという。
三互の法をめぐる上疏
- 婚姻の家や両州の人士が互いに官を監臨できない「三互の法」が禁忌を増やし人事を停滞させていることを憂い、幽・冀二州の刺史が久しく欠員のまま放置されている実情を上疏で訴えた。前漢の韓安国・朱買臣・張敞の起用の故事を引き、緊急時には三互の禁を越えて人材を登用すべきと説いたが、上奏は聞き入れられなかった。
鴻都門学と七事の上封事
- 靈帝が文辞・書芸に凝り、鴻都門下に趣勢の徒が集められる風潮を憂い、頻発する天変地異(雷霆・地震・雹・蝗害・鮮卑の侵犯)を機とした詔に応じ、上封事で以下の七事を論じた。
- 郊祀の礼を古典どおり厳格に行うべきこと。
- 賢良方正・敦朴有道の選挙を旧に復し、忠言を求めるべきこと。
- 郎中張文の直言を評価し、忠直の士を登用すべきこと。
- 州刺史の糾察を厳格にし、公府も自ら省みるべきこと。
- 書画辞賦に偏った選士でなく、経術に基づく登用に戻すべきこと。
- 墨綬長吏(県令)の褒貶を明確にし、恣意的な召還を改めるべきこと。
- 宣陵孝子(桓帝陵に群がる偽の孝子)を太子舎人に取り立てる制度を廃すべきこと。
- この上疏により靈帝は北郊での親迎の礼などを行ったが、鴻都門学は結局設置された。
密封の対策と讒言
- 光和元年、災異が続く中、楊賜・馬日磾らとともに宮中に召され、中常侍曹節・王甫の問いに対策を求められた。邕は皁囊に封じた密奏で、乳母趙嬈・門史霍玉ら婦人・宦官の専横を災異の元凶として厳しく指弾し、太尉張顥・光禄勲姓璋・長水校尉趙玹・屯騎校尉蓋升らの貪濁を批判、廷尉郭禧・光禄大夫橋玄・故太尉劉寵らの登用を進言した。
- 帝はこの上奏を嘉したが、更衣に立った隙に曹節が盗み見て内容を漏らしたため、名指しされた者たちが皆邕を恨んだ。従弟蔡質と大鴻臚劉郃・将作大匠楊球との旧怨も絡み、中常侍程璜(楊球の岳父)が邕を「私事で郃に頼み事をした」と誣告させた。邕は自陳の上書で潔白を訴えたが、光和元年、下獄・弃市の危機に陥り、中常侍呂強の取りなしで死一等を減じられ、家族とともに髠鉗のまま朔方に流刑となった(楊球は追手を放ったが刺客は邕の義に感じて手を下さなかった)。
流刑中の上書と赦免
- 五原の安陽県で流刑生活を送る中、以前東観で盧植・韓説らと編纂していた『後漢記』の続編について上書し、律歴・礼・楽・郊祀・天文・車服の各「意」(志)の目次を示し、著述の継続を願い出た。翌年の大赦で本郡に還ることを許され、流刑は九か月に及んだ。
亡命と江南での生活
- 帰路、五原太守王智(中常侍王甫の弟)の酒宴で無礼を働いたと恨まれ、朝廷を誹謗したと讒言されるのを恐れ、江海に亡命して呉・会稽に十二年身を隠した。この間、太山の羊氏に身を寄せた。呉の人が桐を燃やす音を聞き良材と見抜いて琴に作らせた「焦尾琴」の逸話、宴席で琴を弾く友人の殺気を聴き分けた「螳螂を狙う蝉」の逸話が伝わる。
董卓政権下での栄達と死
- 中平六年、靈帝崩御後、董卓が司空となり邕を招いたが病と称して辞退したところ、董卓は激怒し「一族を滅ぼす」と脅した。やむなく出仕し、祭酒として厚遇され、侍御史・尚書を経て三日のうちに三台を歴任、巴郡太守・侍中を務めた。
- 董卓を太公望になぞらえる議論に対し「関東平定・還都まで待つべき」と諫め、地震の際には「陰の盛んなるは臣下の僭越の致すところ」と直言、董卓の車の装飾を改めさせるなど、災異を通じて董卓を匡そうと努めたが、董卓の頑迷さを見て東方への逃亡も考えたものの、容貌が目立つため断念した。
- 董卓誅殺の際、司徒王允の座にあって思わず嘆息の色を見せたところ、王允に「国賊への私情を漏らした」と叱責され、廷尉に下された。邕は黥首・刖足を受けてでも漢史を完成させたいと訴え、太尉馬日磾も「一代の大典を編む逸材を失うべきでない」と諫めたが、王允は「司馬遷が史記で讒謗の書を残した例を引き、幼主の側に佞臣を置けない」と聞かず、邕は獄中で没した。享年六十一。
- 士大夫・儒者は皆涙し、鄭玄は「漢の事を正す者が誰もいなくなった」と嘆じ、兖州・陳留の人々は画像を掲げて頌えた。『後漢記』は未完に終わり、詩・賦・碑・誄・銘・讃・連珠・箴・弔・論議・独断・勧学・釈誨・叙楽・女訓・篆勢・祝文・章表・書記など計百四篇が世に伝わった。
論・贊
- 論では、蔡邕が流刑地から見た日月も見られぬ苦境から、董卓政権下でわずか三日のうちに三台を歴任する栄達に転じ、その後王允によって刑死した経緯を、司馬遷の史書に対する怨みを持ち出した王允の判断とともに評し、正史編纂という大事業の喪失を惜しむ。
- 「季長戚氏、才通情侈。苑囿典文、流恱音伎。邕實慕靜、心精辭綺。斥言金商、南徂北徙。籍梁懷董、名澆身毁」(馬融は外戚に連なり才知に優れたが情は奢侈に流れ、苑囿の頌を作り音楽を愛でた。蔡邕は静を慕い心を精しくし辞は綺麗であった。金商門で直言し、南に逃れ北に流された。梁冀に籍を借り、董卓の恩に浴したことで、名は薄れ身は毀たれた、の意)。