後漢書卷九十上 馬融列傳第五十上 馬融

出自と初期の困窮

  • 馬融、字は季長。扶風郡茂陵の人。将作大匠馬厳の子。容姿に優れ俊才があった。京兆の摯恂に師事して博く経籍に通じ、摯恂はその才を愛でて娘を娶らせた。
  • 永初二年、大将軍鄧騭に舎人として招かれたが不本意で応じず、涼州の武都・漢陽の境に客居していたところ、羌の反乱で物価が高騰し飢餓に苦しんだ。「片手に天下の図を持ち片手で自らの喉を刎ねるようなことは愚者もしない」との荘子の言を引きつつ、生を貴ぶべきと考え直し、鄧騭の招きに応じて校書郎中となり、東観で秘書の校訂にあたった。

「広成頌」

  • 鄧太后臨朝の折、俗儒の間で武事より文徳を尊ぶべきとする風潮があり、蒐狩(狩猟による軍事訓練)の礼が廃れていたのを憂い、元初二年『広成頌』(広成苑を舞台にした頌)を作って諷諫した。
  • 頌は、孔子の「奢則不遜、儉則固」の中庸の理を説き起こし、和帝以来の災異による質素の徹底が過度に至っていることを指摘、農閑期の冬に蒐狩の礼を復興し軍備を怠らぬよう説く。広成苑の壮麗な自然描写(山川・草木・鳥獣)を長大な韻文で描写しつつ、狩猟の場面、軍容の整然たる様、天子の巡幸の威儀を詳述し、最後に「安きに危うきを忘れず、治にあって乱を忘れぬ」ことこそ帝王が神武を輝かせ遠方を威圧する所以であると結ぶ(長大な賦のため要旨のみ記す)。
  • この頌は鄧氏の意に逆らい、東観に十年間留め置かれ昇進しなかった。兄の子の喪により自ら弾劾して帰郷したところ、鄧太后は「詔による除官を軽んじた」として怒り、禁錮とした。

出仕と辺境政策

  • 鄧太后崩御後、安帝の親政で郎署に召し戻され、河間王の廏長史となった。帝の東巡に際し『東巡頌』を奉り文才を認められ郎中を拝命。北郷侯即位に際し病と称して去り、郡功曹となった。
  • 陽嘉二年、詔により敦朴の士に挙げられ議郎となり、大将軍梁商の従事中郎から武都太守に転じた。西羌反乱の際、征西将軍馬賢の遅滞を見抜き、「関東兵五千を借りて自ら先陣に立ち、三十日以内に必ず破る」と自効を願う上疏をしたが用いられず、後に馬賢は敗死し、張衡の予見は的中した。
  • 桓帝の代、南郡太守となったが、大将軍梁冀の意に逆らい、梁冀の讒言で貪濁を理由に免官・髠刑・朔方への流刑に処された。自殺を図ったが赦され、議郎に復して東観で著述、病により官を去った。

学問と門人

  • 才は高く博学で「通儒」と称され、常時千人規模の門生を教え、盧植・鄭玄もその門下であった。琴・笛を好み、生を全うする達生の気風を持ち、儒者の礼節にはこだわらなかった。高堂に絳紗の帳を張り、前に生徒、後ろに女楽を並べて講義したという逸話がある。
  • 『左氏春秋』を訓詁しようとしたが、賈逵・鄭衆の注を見て「賈君は精しいが博からず、鄭君は博いが精しくない。既に精しく既に博いのに、私が何を加えられよう」と述べ断念した。『三伝異同説』のほか、孝経・論語・詩・易・三礼・尚書・列女伝・老子・淮南子・離騒の注、賦・頌・碑・誄・書記・表奏・七言・琴歌・対策・遺令など二十一篇を著した。
  • 鄧氏に懲りて以後は権勢家に逆らわず、梁冀のために上奏文を代筆し、李固を弾劾する『大将軍西第頌』を作るなど、この点でかえって正直の士に憚られた。享年八十八、延熹九年に家で没し、薄葬を遺言した。族孫の日磾は献帝の代に太傅に至った。

  • 馬融が鄧氏の招聘に躊躇して隴漢の間に留まったのは「居貞」(正しさに居る)の意があったのかとしつつ、後に曲士の節を恥じ、命を惜しんで出仕し、奢楽に身を委ね梁冀に阿附して譏りを受けたことを評す。事が困難であれば身を全うする情が薄れ、生が厚遇されれば安存の慮が深くなるものと述べ、「高きに登って懼れないのは徒刑の人、堂の縁に座らないのは千金の子」の対比を引き、結局は各々の「安んずる所」に帰するのであり、物と我とは互いに笑い合うものだと結ぶ。