生涯と選挙改革
- 左雄、字は伯豪。南郡湼陽の人。安帝の代に孝廉から冀州刺史となり、豪族の請託を拒み貪猾な二千石を弾劾した。永建初、議郎として直言を重ね、尚書僕射虞詡に「白璧不可為容、容容多後福(俗に阿らぬ清節の士)」と推薦され尚書、のち尚書令となった。
- 上疏で、堯舜以来の考黜(人物評価)の伝統を説き、宣帝の吏治重視の善政を範として、当世の吏治の乱れ(頻繁な異動、苛酷な統治、賄賂の横行)を批判、地方長官の実績考課の厳格化・墨綬(県令)の地位向上・儒生の登用などを提言した。
- 京師・漢陽の地震や青冀揚州の盗賊蜂起を機に、賊党への恩赦・自首奨励策を提案。また経学振興を説き、太学再建を実現させた。
- 陽嘉元年、孝廉の選挙制度を改革する上言をし、「四十歳以上」の年齢制限、儒生には家法の口頭試問、文吏には奏文の実技試験を課す「陽嘉の詔」を実現させた。この制度により広陵の徐淑ら年齢不足者の挙用を退け、陳蕃・李膺・陳球ら三十余人が正しく登用されるに至った。
- 順帝の乳母宋娥への封邑や大将軍梁商の子梁冀への封侯に対し、高祖の「非劉氏不王、非有功不侯」の故事を引いて反対し、地震などの災異と結びつけて封爵の撤回を求めたが、帝は聞き入れなかった。
- 司隷校尉として、旧知の馮直(贓罪の前歴あり)を挙げた周挙を、私情に流されず弾劾した自らの行いを「韓厥の挙(春秋の故事)」に例え称賛された。永和三年に没した。