後漢書卷九十一 左周黄列傳第五十一 周舉

生涯

  • 周挙、字は宣光。汝南汝陽の人、陳留太守周防の子。容貌は短陋だが博学で「五経縦横、周宣光」と称された。司徒李郃府に辟され、閻太后の処遇問題では鄭荘公の故事を引いて母子関係の修復を進言し受け入れられた。
  • 孫程ら宦官の功臣が左遷される不当を司徒朱倀に諫め、実現させた。平丘令として直言の上書をし、并州刺史として、介子推の故事に由来する寒食(冬中一月間の禁火)による死者多発の弊風を「弔書」で改め、風俗を革めた。
  • 尚書として僕射黄瓊とともに輔政し重んじられた。旱魃の際、順帝に対策問答を求められ、後宮の閉ざされた女性の解放・冤獄の是正・貪官の黜斥を説いた。北郷侯の葬礼をめぐる議論では、春秋の故事を引き「王礼で葬るべきでない」と正論を述べ支持を得た。
  • 大将軍梁商の宴席で不祥の兆し(挽歌が奏でられた)を見抜き「哀楽失時、殃将及ぶ」と評した逸話が伝わり、その予言通り梁商は秋に薨じた。臨終の梁商は順帝に周挙の忠正を推薦し、諫議大夫に抜擢された。
  • 八使の一人として天下を巡察し「八俊」と称され、貪猾を弾劾し公清の士を推挙した。梁太后臨朝の際、殤帝と順帝の廟位の順序をめぐる論争で、春秋の閔公・僖公の故事を引いて正論を述べ採用された。建和三年、六十余歳で没し、朝廷は宰相と目していたことを惜しんだ。

周勰

  • 周挙の子勰、字は巨勝。父の縁で郎となったが辞して隠棲、梁冀の招聘を三度拒んで屈しなかった。老子の清静を慕い十余年隠棲し、延熹二年になってようやく交遊を再開、梁冀誅殺の年に没した。曾祖父から孫まで六代にわたり名を知られた家系である。